幕間 些細な綻び
雄介の執務室に流れているのは、ベートーヴェンの交響曲第五番だった。
スピーカーから響く音色は電子データではなく、七十年前のモノラル録音を盤に刻んだレコードの音だ。
この指揮者特有のテンポの揺れ、プレーヤーの微細な雑音、盤面に刻まれた傷跡さえ音楽となって奏でられる。
それらを含めて、レコードの音とはかくあるべきものだ――というのが雄介周辺での論評だった。
だが本当のところを言えば、雄介は交響曲――クラシック音楽を理解しようと思ったことが一度もない。
音楽に精通している顔で、年代物のレコードを語る。
それだけで、その会食の格が上がった気分になる。
格が上がれば話す言葉の重さも変わる。
言葉の重さが変われば商談が有利に進む。
そういう実利の計算の上に成り立った趣味だった。
ソファの肘掛けに腕を預けながら、雄介はグラスの縁を指先でなぞった。
千九百三十二年物のヴィンテージワインだった。
当然、これもレコードと同じこと。
何が旨いのか雄介には分からない。
舌は鈍く、鼻腔の感度も人並みだ。
ただ口の中で液体を転がした後に「やはり、この年代は格が違う」と静かに言い放てる快感だけは本物だった。
格を見せつけることが嗜みであって、ワインの味など二の次に過ぎない。
(こういう事が分かるようになるまで、どれだけの時間と金を使ったことか)
そんな感傷を脳裏の端で遊ばせながら、雄介はグラスを傾けた。
しばらくして扉が二度鳴った。
控えめなノック。
「入れ」
雄介は短く告げた。
☆
部屋に入ってきた男は、どこにでもいる平凡な容姿をしていた。
年齢は三十代か四十代。
髪は整えられているが特徴がなく、スーツはどこのブランドとも言い難い。
背の高さも体重も普通。
顔立ちも、目鼻立ちも、声の質も、何一つ特別なものはない。
この平凡さこそが、この男が持つ最大の武器だった。
皐月コンツェルン直属の諜報部隊、梟。
レッドラインが誇る世界最高峰の諜報部隊に比肩するとさえ言われる精鋭中の精鋭。
雄介は机の上を指先でコツコツと叩く。
甲高い音が神経質に部屋に響く。
「それで?」
「はい。まず洸介様の件でございます」
男は微動だにせず続けた。
「現時点で居場所は確認できておりません。学術院内にいるという推測は変わりませんが、具体的な場所については継続調査中となっております」
「次」
「皐月魔道具研究所のシステムへの外部からのアクセスについてです。約五分ほど、不審な検知がございました。但し、それ以上の侵入の形跡はなく、データの抜き取りも確認されておりません。エンジニア部門ではシステムのバグという結論を出しております」
「バグか」
「おそらくは」
「……続けろ」
「魔道具研究所の現状報告です。魔力回路の歩留まりは現在三十パーセント程度まで向上しております。ただし秘術に関しては検体が少なく、研究の進展が芳しくありません。遺体は全て例のルートで処理済みです」
雄介は細い息を吐いた。
「効率が悪い。回路は四十パーセントまで早急に引き上げろ。秘術の検体も増やすことだ。状況が整い次第また報告させろ」
「承知しました」
「洸介の件は最優先で動け。いつまでも行方知れずでは困る」
「はい、ゴッド」
男は音もなく礼をすると、来た時と同じように足音を残さずに退室していった。
扉が静かに閉まる。
雄介はグラスを持ち直した。
(洸介の行方が捉えられないのは何故だ。梟の目をかい潜って、何者かが意図的に隠している? あり得ん)
ワインのグラスを左手で持ち替えながら、雄介は静かに思考を巡らせた。
バグ、という言葉もまだ引っかかっていた。
皐月魔道具研究所のシステムは外部から干渉を受けない。
穴は存在しないはずだ。
バグが出るとすれば外部ではなく内部の問題になる。
エンジニアがバグと結論付けたとしても、雄介には何か腑に落ちない感覚を覚えた。
(洸介の件が落ち着いたら、徹底的に調べさせよう)
今はまず、息子の所在の特定が最優先だった。
洸介が堕天してひと月ほど経った頃のことを思い出す。
理事会で昇天の議案が可決された日。
理事達と簡単な挨拶を交わした後、天御柱を出た雄介はすかさず回線を繋いだ。
「洸介。お前の昇天が確定した。迎えに行くので天の壁まで来なさい」
しかし、返ってきたのはこれまで聞いたことのない声音だった。
『父上、もう勘弁して下さい! 僕の事は放っておいて下さい!!』
その瞬間、衝撃音が雄介の耳を襲う。
残ったのは通話が切れた音だった。
雄介はしばらくの間、画面を見つめていた。
(どういう事だ)
あの洸介が、父の申し出を断った。
コンツェルンの御曹司として育てた息子は、これまで一度として父の意向に抗ったことがない。
金で動き、格で動き、意思よりも体裁を優先する男だ。
だが、あの声から感じたのはもっと切実な感情だった。
雄介はすぐさま梟に洸介の捜索を命じた。
それから二週間以上が経過したが報告は芳しくない。
諜報部隊として優秀な梟が、学術院という閉じた場所で洸介一人を見つけられないのはどういう訳か。
雄介はふう、と大きくため息をついた。
部屋に流れる『運命』は四楽章の冒頭に入っていた。
☆
グラスを置いて立ち上がる。
ベートーヴェンの交響曲はまだ流れ続けていたが、もはや耳に入っていなかった。
(少し疲れた。一風呂浴びるか)
大きく伸びをして、執務室の扉を開けた。
廊下に出ると夜の空気が頬を撫でた。
皐月の本邸は二区の端に位置する大きな屋敷で、廊下の窓からは学術院の夜景が遠く広がって見える。
灯籠めいた人工の光が連なり、整然とした街並みを照らしていた。
雄介が作り上げた街だ、と言っても過言ではない。
その資産とシステムがこの場所を維持しているのは事実だった。
そんな夜景に、一つの人影が重なっていた。
廊下の窓際に、誰かが立っている。
プラチナブロンドのショートボブが月光に照らされていた。
ヴィクトリア・フォーレルだった。
エレーナから預かった人物だ。
世界に名を馳せる現存する貴族、ロスファー家がわざわざ日本まで寄越した。
表向きは留学という名目だったが、雄介には概ねの察しがついていた。
だが、知らない振りをするのもビジネスの世界では必要だ。
それでも、この珍しい光景に雄介は疑問を口にしていた。
「こんな時間にどうした、ヴィクトリア」
しかし、反応がない。
夜の空を見上げたまま、ぴくりとも動かない。
目線は遠く、星でも数えているようだった。
「ヴィクトリア?」
もう一度、声をかけるが反応はない。
雄介が踵を返そうとした、ちょうどその時、ヴィクトリアの唇がわずかに動いた。
「……睦月楓。どうすれば手に入るの」
独り言のように。
誰かに向けた言葉でもなく、ただ夜の空に向かって零れ出た声だった。
雄介の足が止まった。
その場に立ち尽くしたまま、ヴィクトリアの横顔を眺める。
月明かりの下で彼女の表情は雄介からは窺えなかった。
(睦月だと? ……何なんだ一体)
その言葉の真意を、雄介には汲み取ることができなかった。
ロスファー家の任務の話なのか、それとも全く別の何かなのか。
分かるのは彼女が月の光の下で一人、ため息をつきながら男の名を口にしている事だけ。
どちらにせよ、笑って聞き流せる内容ではなかった。
雄介は声をかけるのを止めた。
静かに廊下を先へと進む。
月の光が廊下の床に白く差し込んでいた。




