幕間 的場迅の日常
的場迅は四区を堂々と歩いていた。
冬の朝の空気は冷たく路地には霜が残っている。
それでも的場は、そんな事など歯牙にもかけずに足を早めた。
四区という場所は、一日を通して人通りが少ない。
理由は単純だった。
的場のような人間が我が物顔で闊歩しているからだ。
路地を歩けば理不尽な暴力に遭うことがある。
少し油断すれば財布が消える。
最悪の場合、人ごと消えることもある。
三区の住人が四区を忌避するのは、そういう現実があるからだ。
そして四区がスラムと呼ばれる理由だった。
「チッ! 昨日も今日も何もねえ」
的場は周囲を見渡しながら悪態をついた。
少し前までは遊びがいのあるオモチャがいた。
皐月洸介という御曹司だ。
プライドが高く、金持ちならではの傲慢さを持ちながら、本質的には脆い人間だった。
数本の指を折ってやるだけで、何でも言うことを聞く人形が出来上がったのに。
(ああいうヤツがいたら面白いんだがなあ)
あの御曹司は的場が知らない間に姿をくらましていた。
誰かが手引きをしたらしいが、誰なのかは分からない。
四区でそんな芸当ができる人間は限られているはずだが、心当たりを探っても答えは出なかった。
本当に面白くない話である。
そんなことを考えながら歩いていると、冬の風に乗ってチラシが一枚飛んできた。
的場の足に引っかかって貼り付いた。
舌打ちしながら拾い上げて、目を細める。
タブレットで広告を流せば学術院の住人全員に一瞬で行き渡るのに、それでも敢えてチラシを使うのには理由があった。
タブレットのデータには発信元の記録が残る。
ポスティングのチラシは残りにくい。
つまり、こういう手段を選ぶ者は、記録に残したくない何かがあるということだ。
『貴方の参加が魔術師の未来を拓く!
魔術師の方の参加をお待ちしています。
内容 魔道具に関する薬の治験
日給 一日五万トークン
皐月魔道具研究所』
チッと鋭い舌打ちをして、的場はチラシを手放した。
冬の風に乗ったチラシはまたたく間に遠くへ飛んでいった。
皐月の名前は知っている。
学術院全体の商売を仕切る旧月家。
(まあ、俺には関係ねえ話だ)
的場は深く考えないようにして再び歩き出した。
☆
禁書庫に着くとメビウスの面々が数人、入り口の前に屯っていた。
全員が手持ち無沙汰そうにしている。
最近、クライアントから依頼が来ていない。
暇を持て余した連中がダレるのは仕方がないとも言えた。
「この前、アレに行ったやつ。まだ帰ってきてないらしいぜ」
「それ、どれくらい前だ?」
「もう三ヶ月は経ってるべ」
「つうことはよ、日給三万だから二百七十万!?」
「今は値上がりして日給四万だぜ」
「更にドンで三百九十万かよ!」
「オメエ、バカだな! 三百六十だぜ」
ちょうど治験の話で盛り上がっていたところだった。
メビウスの中でアレというのは治験の隠語の事を指す。
「それだけ金があったら北の方で住めるべ」
四区は南に行くほど治安が悪くなる。
北側――天の壁に近い場所は、四区の中でも比較的住みやすいとされていた。
だからといって、的場の目の前にいるような風体の人間が北側で暮らせるかどうかは、また別の話だが。
「バカか! そのナリでキタスミとかねえわ」
合わせてギャハハハと品のない笑い声が沸いた。
「おう、暇そうじゃねえかあ」
的場が声をかけると、全員の笑い声が止まった。
一斉に視線が集まる。
「あ、的場さん。チッス」
「仕事っすか?」
「いや、依頼がねえ。オメエラ、さっきの話だが――」
的場が話しかけると、メビウスの面々の喉がゴクリと鳴った。
ボスが無茶を言い出しそうな雰囲気を、彼らは長年の経験で知っていた。
「今は五万だ!」
全員が顔を見合わせた。
それはつまり。
「三ヶ月で四百五十万ですね!」
ギャハハハハという笑い声が禁書庫の前に響いたのだった。
的場はその笑い声を聞きながら壁に背を預けた。
暇つぶしにバカな話は丁度良い。
(それにしても依頼がねえのは困る)
身体を動かしていないと、余計なことを考え始める。
それが的場にとって良くない傾向だった。
☆
その時、的場のタブレットが鳴った。
画面をつけると、発信者の名前が表示されていた。
『睦月楓』
その文字を見た瞬間、的場の眉間にシワが寄った。
禁書庫での出来事が脳裏に蘇る。
床に縫いつけられて動けなくなった足。
隼斗の拳が飛んできた瞬間。
そして、あの男が静かに顎を掴んで目を合わせた時の圧。
このまま無視してやろうかと、一瞬だけ考えた。
だが、今の自分は暇を持て余している。
(ちっとは暇つぶしになるか)
的場は判断を変えた。
「あぁ。なんだあ? 俺に何か用かあ?」
厳つい声で電話に出た。
これで切ってしまうようなら、大した用事ではないということだ。
『あ、こんにちは。先日の件が決まったので連絡しました』
相手は全く気にした様子もない。
的場は肩透かしを食らった気分になった。
どういう神経をしているのかと思う。
「こっちは忙しいんだよ。何の要件かサッサと話せ!」
『そうですね。では単刀直入に』
一瞬だけ間があった。
『貴方と霜月流星さんの魔術決闘の日が決まりました。明日の正午、天の壁に迎えに行きますので準備しておいて下さい。では!』
「え!? おい! 何て……」
的場が声を荒らげるより早く、通話は切れていた。
しばらく、的場は画面を見つめたまま動かなかった。
霜月流星。
憎き霜月家の長男で管理局の局長をしている。
的場のような四区の人間には、縁もゆかりもない男だ。
(俺が霜月と戦えるのか?)
その問いに答えるより先に、腹の奥から何かが湧き上がってきた。
それは憎悪を糧にした力だった。
十年間、胸の奥で燻り続けていたものが、一気に燃え上がる感覚だった。
霜月家の奇襲により神無月家は滅亡した。
あの時、無力だった自分はもういない。
今では四区を統べる力を手に入れている。
(ついに来やがったああああぁぁ!)
的場は心の奥で快哉を叫んだ。
旧月家への、霜月家への、この理不尽な格差への復讐ができるのだ。
「……面白え」
的場の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
禁書庫の前に屯っていた面々が、その表情の変化に気づいて黙り込んでいた。
ボスのこの顔は何かが起きる時の顔だと、彼らは何度も経験してきた。
的場は北にそびえる天の壁を見上げた。
白い壁が冬の空の下に切り立っている。
その向こうに霜月家がある。
十年間待ち続けた時がようやく来た。




