幕間 楓と凛のバレンタイン
舞踏祭が終わり、俺たちは宮司さんと一緒にマンションへ戻ってきた。
帰の道中で俺は何度か凛の様子を確認していた。
顔色は戻っていたが、気分が悪くなることがあるとは言っていた。
気にしないわけにはいかない。
マンションに着くと、宮司さんはいつも通り手早く全ての部屋を確認して回る。
だが今日は動作速度が尋常ではなかった。
寝室を確認して、浴室を確認して、バルコニーの鍵を確かめて。
それだけ動いて普段の半分もかかっていない。
「……それじゃあ今日はここまでね。おやすみなさい」
宮司さんはそそくさと玄関へ向かった。
いつもなら給仕さんへ一言声をかけてから帰るのに、今日は振り返りもしなかった。
「あ、はい。お疲れ様でした。おやすみなさい」
俺が声をかけると、宮司さんは扉越しに手だけを振って消えていった。
俺は凛の手を取りながら、リビングへと移動した。
そうしていると、台所の方から夕食の準備が始まる音がした。
包丁の音、鍋が置かれる音、炒め物の香りが漂ってくる。
それを聞きながらソファに腰を下ろした。
「身体は大丈夫?」
「ふふ、楓さん。もう十回くらい聞いています。ふと気分が悪くなることがあるだけなので大丈夫ですよ」
「でも心配なんだから仕方ない」
凛は少し困ったような顔をした。
ふと後ろを振り返ると、給仕さん達も驚くほどの速さでそそくさと出ていく途中だった。
全員が急いでいるような足取りだ。
(宮司さんといい。何なんだろう)
首を傾げながらも、あまり深く考えないことにした。
☆
「それでは夕食にしましょうか」
凛の声で立ち上がってキッチンに向かう。
テーブルの上には夕食が並んでいた。
石鯛の煮物を中心に、カボチャの煮付け、サラダ、白ご飯と味噌汁。
凛との生活が始まってから、食事は基本的に和食が中心になっている。
最初は馴染みがなかった献立も、今ではすっかり当たり前になっていた。
「いただきます」
二人で向かい合って箸を進める。
石鯛はしっかりと味が染みていて、骨を外しながら食べると出汁の風味が口に広がった。
カボチャの甘みも、いつ食べても飽きない。
「今日の石鯛、味の染み方がいいね!」
「給仕さんが少し工夫してくれたそうです。煮含める時間を変えたと聞きました」
「そういう細かいところが分かるの、すごいよね」
「楓さんだって、生徒の魔法の変化を見ていますよね。あれも同じだと思います」
「そうかな」
食事をしながら色々な話をした。
今日の舞踏会のこと、来月の講義の予定、今後の方向性など。
話題が途切れると、しばらく箸を動かす音だけが続く。
以前は沈黙が苦手だったが、今はそういう気持ちは無くなっていた。
☆
食事を終えると二人で食器を片付けた。
俺が簡単に洗って、凛が食洗機に並べる。
その流れもすっかり定着していた。
リビングに戻ってソファに座っていると、凛が何か楽しそうな顔をして隣に腰を下ろした。
いつもより、どこか浮いている雰囲気がある。
「どうしたの?」
「楓さんに問題です。今日は何の日でしょうか?」
「う〜ん」
今日はバレンタインだ。
だが以前話した時に凛は知らなかった。
それを改めて言うのも何となく気が引ける。
「お義兄さんの誕生日!」
「ハズレです! お兄様の誕生日は一か月後です」
「え、お義兄さん、ホワイトデー生まれなんだ」
「ホワイトデーですか?」
「そう。バレンタインデーのお返しをする日なんだ。三月十四日で、チョコをもらった人がお返しをする。俺には縁がなかったけどね!」
「それは、周りの人に見る目がなかったのだと思います」
凛がはっきりとそう言った。
迷いのない真剣な声で。
「おおう。そ、そうかな」
俺は仰け反るしかなかった。
「と、ところで楓さん……」
「どうしたの?」
「これを受け取って下さい」
差し出されたのは、可愛らしい包装がされた小さな箱だった。
俺は思わず目を見開いた。
「これは?」
両手で受け取る。
重さはほとんど感じないが、掌に乗せた瞬間、微かにチョコレートの香りが漂ってきた。
「開けてみて下さい」
凛が自信なさそうな顔をしていた。
頬が僅かに赤くなっている。
そして視線がこちらと箱の間を行き来していた。
その様子が可愛いくて思わず抱きしめそうになる。
「それじゃあ、失礼して」
俺は自制心をフル稼働して包みを丁寧に開けていった。
折り目を崩さないように、テープを一枚ずつ剥がしながら。
中に入っていたのはハートマークのチョコレートだった。
整った形に成形されていて表面に模様が入っている。
市販品とは明らかに違っていて手作り感があった。
「楓さんのお口に合えばいいのですが」
「これは絶対に美味しいよ。だって凛がくれたチョコなんだから。頂きます!」
一欠片を口の中に入れた。
濃厚なカカオの香りが広がった。
苦みと甘さのバランスが絶妙で、口の中で溶けていくほどに、その上品な余韻が続く。
「もしかして、凛の手作り?」
凛はコクコクと頷いた。
「以前、バレンタインの事を聞いたので、宮司さんに教えてもらいました。その日はチョコレートを贈ると聞いたので、給仕さんに作り方を教わりました。うまくできているか、分からないのですが……」
それは、つまり俺のためにということで。
宮司さん達が、今日に限って足早に部屋を出て行った理由がようやく分かった。
みんなして気を遣ってくれていたのか。
「凛、めちゃくちゃ美味しかったよ」
俺は凛をぎゅうと抱きしめた。
「愛してる!」
「そ、そう言って頂けると、わたしも嬉しいです」
胸元から声が聞こえてきた。
少し覗き込んでみると、凛の顔が赤く染まっていた。
いつもの落ち着いた表情はどこにもなくて、照れているのが頬の色を見て分かった。
(ああ、俺って幸せだな)
心の底からそう思う。
言葉にすると照れくさいし大げさな気もする。
けれども、それ以外の言葉が見当たらなかった。
俺は凛を抱きしめたまま、もう一欠片のチョコレートを口に運んだ。
さっきと同じ濃厚なカカオの香りが、また静かに広がっていく。
窓の外では二月の夜がひっそりと更けていた。




