幕間 もう一つの舞踏会
詩織の視線は、ホールの中央のある一点に固定されていた。
周囲では生徒たちが思い思いの場所に立ち、今か今かと開始を待っている。
観覧席では着席した生徒たちの声が飛び交い、ホール全体が祭りの前夜のような熱気を帯びていた。
だが詩織の耳には、その熱狂は届いていなかった。
「詩織〜。いくらガン見しても、この距離じゃおっさんの顔までは見えないんじゃないかな〜」
隣で遊がウンザリしたような声を上げながら、同じ方向に視線を向けた。
フロアの中央付近に楓の姿があった。
ダンス用の衣装に身を包み、ヴィクトリアと向かい合っていた。
背筋が伸びて、いつもの講義の時とは明らかに違って見える。
「べ、別に見てないし。衣装に目移りしてただけだし!」
「はいはい」
遊は早々にこの話をきり上げて別の話を振った。
「ところで詩織、ダンスなんてできるの?」
「はあ? あんた、バッカじゃない! おっさんにできて、あたしにできない訳ないじゃない!」
「それだったらいいけどさ」
遊は曖昧に頷きながら、ホールの観覧席の方を見た。
「そういえば霜月……じゃなくて睦月嫁は今日どうしたんだろ?」
「え? タブレットにメッセージ届いてたじゃん」
「なんか覚えてないんだよね〜」
(これ、現実逃避してるヤツだ)
遊は内心でそう思ったが口には出さない。
「そう言えばさ。長月が旧月に戻ったんだって?」
「うん。あ、曲が始まるみたい」
ワルツの調べが、ホール全体に流れ出した。
☆
「ちょ、ちょ、ちょ!」
「あ、わり。うわわ! どうなってんのコレ!」
踊り始めた瞬間に、二人は気づいた。
ワルツの三拍子は、聞いている分には穏やかで優雅に聞こえる。
だが実際に身体を動かしてみると、そんな簡単な話ではない。
右に出て、回って、戻るという単純に思えるステップ。
だが音楽に合わせて行うとなると、恐ろしいほど難解になる。
「あわわわわわ、わわわわわわ」
「わわわじゃねえよ! ちゃんとついて来いって」
「無理無理! こんなの無理だって!」
「よく舞踏会に出ようと思ったな」
「おっさんが出るんだから仕方ないじゃん!」
「わわわ!」
「危なっ!」
詩織の足が盛大に絡まった。
二人の重心が崩れる。
詩織を庇うようにして遊が身体を傾ける。
「あいた!」
遊が尻餅をついた。
「ごめーん、遊」
詩織が慌てて手を差し伸べた。
「と言うか、詩織見てみろ」
「え!?」
そこには優雅に舞う楓とヴィクトリアの姿があった。
緩やかな三拍子に乗って、二人の踊りは滑らかで無駄がなかった。
リードとフォローが自然に噛み合っていて、お互いを知り尽くしているかのような動きだった。
ヴィクトリアのプラチナの髪が弧を描いてひるがえるたびに、観覧席からざわめきが起きている。
「やっぱカッコいいんだけど」
詩織は思わず呟いていた。
「あたしだって! 負けないんだから!」
「ゴメン、詩織。僕はもう無理そう」
「え? どうして?」
「今ので足をちょい痛めたみたい」
遊は床に座り込んで、足首のあたりをポンポンと叩いた。
たいした怪我ではなさそうだったが、踊り続けるのは難しそうに見える。
「じゃあ、観戦モードだ!」
詩織は遊の隣に腰を下ろした。
フロアを正面から見渡せる、悪くない位置だった。
☆
ポルカが始まった。
ワルツの穏やかさとは打って変わった、軽快で速いリズムが流れ出す。
フロアのペアたちは最初の数小節で早くも足が追いつかなくなり、一組、また一組とその場に座る。
「遊、さっきの件だけど」
「霜月……じゃないや、睦月嫁の件?」
「あんた、ワザとでしょ。そうじゃなくて長月本家」
「旧月家に戻ったって聞いたよ」
「一週間前から三区に越してきたんだけど……」
「良かったじゃん」
「……それが、あたし、本家に入る事になっちゃって……」
詩織は膝の上に手を乗せたまま、フロアを眺めていた。
その横顔には、いつもの強がっている様子は見えない。
「ほう。詩織も出世したなあ」
「語尾に笑って文字が見えるんだけど!」
「バレてた。それで?」
「……ババアから本家の跡取りに指名された」
「おま……出世しすぎだろ?」
遊の声から、軽さが少し消えた。
「ババアは長月が復帰できたのは、あたしがおっさんを連れてきたからだって」
「確かそうだよな」
「それで秘術も譲られた」
「本気じゃん」
「うん。これから、どうしようって」
詩織の声は、いつもより低い。
強がりでもなく、照れ隠しでもなく、ただ率直に迷っている声。
ポルカが終わった。
会場に拍手が鳴り響く。
二人が見渡すと、フロアで立っているペアは二組しかいない。
七割近くが床に座り込んで休んでいた。
楓とヴィクトリアは相変わらず、美しいポーズを保っていた。
「跡取りになったら、もう婿を貰うしかなくなるね」
「そうなる」
「詩織はまだ若いんだし、ゆっくり考えればいいんじゃない?」
「あたしより若いのに何言ってくれてんの」
詩織は苦笑した。
忘れがちだが遊は四つも年下だ。
タンゴが始まった。
ヴァイオリンが刻む鋭い二拍子が、ホールの空気を一変させた。
フロアに残った楓とヴィクトリアが、タンゴの型に入っていく。
「最悪、僕が婿に行ってやるから。詩織は好きなようにすればいいじゃん」
遊はそっぽを向きながら言った。
耳が真っ赤になっている。
「遊……あんた……」
「…………」
「バッカじゃないの!」
詩織は遊の肩を平手でバンと叩いた。
「痛!」
「でも、ありがと」
それだけ言うと詩織は遊の肩にもたれかかった。
遊は何も言わなかった。
叩かれた肩のあたりをさすりながら、フロアの方を向いていた。
その耳の赤みは、なかなか収まってくれなかった。
☆
その時、ホールを揺るがすような喝采が巻き起こった。
「なんだ! なんだ!?」
全員の視線がフロアの中央に集まっていた。
楓とヴィクトリアがフィニッシュのポーズをとっていた。
タンゴの終幕らしい、切れのある静止。
二人の間に張り詰めた空気が漂っていて、その姿は様になっていた。
周囲の観覧席からは、感嘆のため息が漏れ聞こえてくる。
詩織はしばらく、その光景を眺めていた。
(カッコいい、とは思う。でも……)
ため息が、自分でも気づかないうちに出ていた。
隣では遊がフロアを見据えながら、静かに決意していた。
(絶対に詩織は、僕に振り向かせてやる)
拍手はまだ続いていた。
ホールの灯りの下で楓とヴィクトリアが頭を下げる。
詩織の肩が、遊の肩に触れたままだった。




