第十九話 睦月
翌朝、六月と凛は校長室を訪れていた。
文月忍は二人の姿を見ると、眼鏡の位置を直しながら椅子から立ち上がった。
この時間帯に二人が揃って来室するのは珍しいことだ。
ただ事ではない何かを察し、表情が少し引き締まる。
「昨夜、霜月巌さんと話をしまして」
六月は真面で告げた。
「正式に睦月を名乗ることにしました。それに加えて、これまで伏せていた凛との結婚も今日から公にしようと思っています」
文月忍の目が、瞬いた。
「それは……おめでとうございます。睦月家の復帰ともなれば、学術院としても大変喜ばしいことです」
「ありがとうございます。先生方や生徒の皆さんに周知して頂ければ」
「早速、対応しましょう」
文月忍は機嫌良く専用端末を操作し始めた。
慣れた動きで画面を叩いていく。
しばらくして、二人のタブレットに新着トピックスが表示された。
『この度、六月教諭が睦月の姓を継ぐことに決まりました。本日より睦月楓教諭とお呼び下さい』
『また霜月凛教諭が睦月教諭と籍を入れられました。今後は睦月凛教諭とお呼び下さい』
六月は画面を眺めながら、改めてその文字を目で追った。
睦月楓。
睦月という苗字。
それによって、今後どうなって行くのか想像できない。
だが禁書庫での件を思えば、この名を継ぐことに躊躇いは無くなっていた。
「文月校長、早速の対応ありがとうございます」
「いえいえ、このくらいは当然のことです。それでは本日もよろしくお願い致します」
文月忍は満足げに頷いた。
二人は校長室を出ると、並んで第一実技訓練場へと向かった。
☆
その頃、第一実技訓練場は騒然としていた。
「睦月って何?」
「そんな事より凛ちゃんが結婚しちゃったんだが?」
「ていうか、ヴィクトリアさんが今日いないんだけど」
旧月家の歴史や家格など、ほとんどの生徒には関係のない話だった。
だからトピックスを見た瞬間、反応は概ね三つに分かれた。
睦月が何なのかを気にする者、凛の結婚報告に動揺する者、そしてヴィクトリアの不在を訝しむ者。
訓練場の隅の方では、詩織と遊が並んで立っていた。
「おーい、詩織〜。生きてるか?」
「うっさい、遊! 生きてるわよ!」
口では元気に答えたものの、遊には少し心配に見えた。
「しっかし、おっさんが睦月になるとか世の中わかんねーな」
「あたしは一目で見抜いたんだから、褒めてくれても良いと思うんだけど!」
「確かに。新年会でそれ言ってたの、詩織だもんな」
詩織はそれを聞いてわずかに胸を張った。
「こうなってくると長月の復権も見えてくるんじゃね」
「そんなの無理に決まってるでしょ。理事会の承認が下りるわけないじゃない」
「まあ、お楽しみってとこだね〜」
「まあ、期待しないで待っててあげるわよ」
詩織はそう言ったが、その表情の奥には僅かな期待を持っていた。
その時、訓練場の扉が開いた。
☆
楓が入ってきた。
後ろに凛が続いている。
訓練場全体から、大歓声が上がった。
これまでの講義でも拍手があることはあった。
けれど今日の歓声は、その比ではなかった。
楓は訓練場の中央に立って、全員を見渡した。
「皆さんのお陰で、睦月という苗字を名乗る事ができました」
その声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「この名に負けないよう、日々努力していきますので、引き続きよろしくお願いいたします」
深く頭を下げる。
「楓さんの妻になりました、睦月凛です」
凛の声は、いつもよりも温かい。
「これからも皆さんと学んでいければと思います。何卒、よろしくお願い致します」
凛も同じように頭を下げた。
訓練場の後ろの方から、嗚咽に近い声が聞こえた。
見ると、男子生徒の何人かが目を赤くしていた。
数人の女性が生暖かい目でそれを見ていた。
詩織は惜しみない拍手を送った。
胸の奥に何かが刺さるような感覚は確かにあった。
それでも、この二人に送る拍手だけは全力だった。
遊は隣で力強く手を叩き続けていた。
「それでは皆さん、お待たせしました」
楓の声が訓練場に響いた。
その口元に、いつもの飄々とした笑みが浮かんでいる。
「講義に入っていきます。まずはいつも通り、魔力が無くなるまで追いかけてもらいます!」
右の掌を天井へ向ける。
漆黒の靄が三筋、指先から伸びた。
瞬く間に輪郭を持ち、羽ばたきの音を纏いながら、三匹のコウモリが空中へと躍り出る。
訓練場が再び熱気に包まれた。
☆
あっという間に、一日の講義が終わった。
夕暮れ時の廊下を、三人で並んで歩いていた。楓、凛、隼斗という、ここ最近では当たり前になった組み合わせだ。
「そろそろ如月舞踏祭ですね。楓さん」
凛が歩きながら口を開いた。
「如月舞踏祭……知らない子ですね」
楓は少し考えるような顔をした。
「今度は踊る感じ?」
「そうなんです! 一緒に踊りましょうね」
「分かった。頑張って練習するよ。ちなみにいつから?」
「毎年、二月十四日なんです」
「バレンタインと一緒なんだ」
「バレンタインって何ですか?」
凛が首を傾げた。
学術院の中で育ち、外の文化に触れる事がなかった凛にとって初めてきく言葉だった。
「そうだね。学術院と外では全く違ったね」
楓は少し考えてから丁寧に説明を始めた。
「バレンタインっていうのは、女性から男性にチョコレートを贈って、気持ちを伝えるイベントなんだ。西洋の習慣なんだけど、日本でも広まってて」
凛はコクコクと頷きながら聞いている。
「楓さんは、チョコレートをもらった事はあります?」
「ぜえええろおおおお」
凛が小さく笑った。
表情が自然とほぐれていく。
「ふふ、面白い言い方」
「三十一年間、一度もなかった」
「どういう意味ですか?」
「今年は凛から貰いたいな〜」
「はいっ!?」
凛の声が廊下に響いた。
「わたし、どうしたら良いのか分かりません」
「冗談だよ。気にしないでね」
楓は笑いながら前を向いた。
隼斗が少し前を歩きながら、聞こえないふりをしている。
その大きな背中が微かに揺れていた。
夕暮れの光が廊下の窓から斜めに差し込んでいた。
この時の楓は、二月十四日がここまで大変な一日になるなんて、想像もしていなかった。




