第十三話 禁書庫の鍵
六月の講義は、気づけば一日四コマのフル稼働になっていた。
最初は校長からの要請で一コマずつ増えていった。
「もう一コマ追加してもらえないか」
「午前中も空いているなら」
という打診が続き、断り続けていたはずなのに、いつの間にか埋まっていた。
受講定員も、校長の独断で二十人から三十人に増えている。
六月は拒否権が無いとボヤいていたが。
向陽サービス時代と比べて仕事の量は増えた。
それでも、あの頃のような消耗感がない。
毎日、何かが変わる実感がある。
生徒の動きが変わると嬉しく感じる。
生徒からインスピレーションを受ける事もある。
昨日できなかったことが、今日できるようになる。
六月にとって講師としての時間は、これまでの人生の中で最も充実した時間になっていた。
そんな中で、凛から一つの報告があった。
「お兄様との面会の件、十日後で日程が取れました」
「早かったな。さすが凛」
「お兄様は多忙な方ですが、今回は優先的に動いてくれたみたいですね」
凛の言葉には驚きが混じっていた。
いつもの流星なら、業務を理由に先送りにすることが多い。
これほど早く動いたのは、興味深い月隠の魔術師からの依頼だった事が大きかった。
☆
十日後、一月下旬。
六月、凛、隼斗の三人は、学術院の中心部に建つ天御柱へと向かっていた。
天御柱は、学術院の運営を担う機関が集まる施設だ。
院理事会、研究所、そして内閣府特区管理局が入っている。
二区に移ってから六月は何度か訪れたことがあったが、この雰囲気に未だ慣れる事ができないでいた。
凛と隼斗の案内があって、受付の確認もスムーズに済んだ。
局長室は最上階近くにあり、エレベーターを降りてから廊下をしばらく進むと、重厚な木目の扉が見えてきた。
凛がノックをする。
「どうぞ」
扉を開けると、執務机の奥から立ち上がった人物がいた。
霜月流星。
着物姿の局長の立ち姿には、つけ入る隙が見当たらない。
だが表情は人好きのする笑みを浮かべていた。
「やあ、新年会以来かな。ほぼ初めましてだね、月隠の魔術師。今日は少し、確認させてもらいたいことがあってね」
流星は執務机の前に回り込んでくると、六月を指名して右手を差し出した。
六月は一歩、前へ踏み出して右手を出す。
その瞬間だった。
――流星の手から巨大な氷の塊が放たれた。
六月は動かなかった。
正確には動く必要がなかった。
「楓さんっ!!」
「六月くん!」
二人の声が、ほぼ同時に弾けた。
凛と隼斗が、瞬時に魔法を展開しながら流星へと向かっていく。
凛は指先を突き出しながら水を練り上げ、隼斗は右拳に炎を纏わせて床を蹴った。
「は?」
流星の口から間の抜けた声が漏れた。
部下と実妹が自分に敵意を向けている。
それは流星の中にあった前提――この二人は敵対しない――が崩れる瞬間だった。
「俺は大丈夫だから」
六月の声が穏やかに響いた。
流星が放った氷の塊は、六月の眼前で黒い何かに飲み込まれていた。
円形で大きな口を持つ漆黒の形が、氷を一切の欠片も残さずに消化していく。
流星はその瞬間、二人の実力を頭の中で計算する。
隼斗の火属性については把握している。
肉体的な強靭さと火属性魔法の連携は、十分な脅威になり得る。
だが時間と距離を確保すれば、対処は難しくない。
霜月の無能と呼ばれていた凛なら脅威にはならない。
昔から内気で自分の気持ちを伝えるのが苦手だった実妹だ。
魔法の制御にも苦労していた。
二カ月程度で、その評価が変わるとは思っていない。
だから、まず隼斗を封じようとした。
右手に炎を纏った隼斗が拳を放った。
流星は距離を取った場所に、分厚い氷の板を展開する。
轟音とともに炎が激しく燃え上がり氷の板と衝突した。
一瞬だけ猛々しく炎が燃え上がった。
しかし板を粉砕できず、炎の勢いが徐々に弱まっていく。
それを確認した流星は凛の方へ視線を移した。
そして目を剥いた。
見えたのは、霜月の無能と呼ばれていた実妹の顔ではなかった。
指先に集中する魔力が、荒々しく揺らいでいる。
水が今にも溢れ出しそうな深海を思わせる。
そして表情は、ターゲットを照準に捉えたスナイパーの顔だった。
流星の直感が警告を発した。
(これは不味い! 不味い! 不味い!)
二カ月前の凛と、根本的に何かが変わっている。
指先に集中する魔力が尋常ではない状態だった。
冷たい汗が、流星の首筋を伝った。
凛が水の針を放った。
見た目は頼りない華奢な針は、流星が咄嗟に生み出した氷の壁を一瞬で撃ち抜いた。穿孔音が鋭く鳴り、氷壁に拳ほどの穴が空く。
その穴を通じて、水の針が流星へ向かって一直線に伸びていく。
「うおおおおおおぉぉぉぉ!」
流星は闇雲に氷魔法を展開した。
氷の柱を横に並べて防壁を作ろうとする。
だが水の針はその隙間を縫うように動き、どこにも引っかからなかった。
流星の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「凛、目線で射線がバレてるよ」
六月の声が穏やかに場内に響いた。
掌から圧縮された黒い玉が放たれる。
空中で水の針と激突し霧散させた。
弾けた水の粒が室内に細かく広がって消えた。
流星の全身から硬直が解けた。
膝から力が抜けて、その場にへたり込む。
両手を床についたまま荒い息を吐き続けた。
☆
「楓さんを攻撃したのですから、それなりの罰は必要です!」
凛の声はいつもより一段低かった。
「お兄さん、ちょっと危なかったよ」
六月は普通の口調で言った。
「知りません!」
凛は短くそう言い放った。
流星は床に座り込んだまま天井を仰いだ。
夢でも見ているような感覚だった。
局長室の白い天井が現実のものとは思えない。
(どうやったら、あの凛がここまで変わるんだ)
凛が同居し始めてから二カ月と少し。
その間に何があったのか、流星には想像もつかなかった。
あの無能と呼ばれていた実妹が、自分に向けて水の針を放った。
そして魔法の力は流星の防壁を軽々と貫いた。
凛の指先に一瞬だけ揺らいでいた魔力の密度が、まだ脳裏に焼き付いている。
「そうです。お兄様、禁書庫の件なのですが」
凛が、当然のことのように話を切り替えた。
まるでさっきの一幕などなかったような口ぶりだった。
「ああ……」
流星はゆっくりと立ち上がると、着物の乱れを整えた。
執務机の引き出しを開けて中を探る。
「これを、四区の禁書庫で使いなさい。貸し出しは本日中に限定させてもらうよ。あとは……気をつけるんだよ」
取り出したのは、細長いアクセサリーのような形をした鍵だった。
金属製で表面に細かい文様が刻まれている。
凛は迷いなく受け取った。
「ありがとうございます」
そう言い残すと凛は六月の手を取って歩き出した。
扉の方へ向かいながら六月に顔を向ける。
「楓さん、行きましょう」
「行こう」
六月は一礼すると凛と共に局長室を出ていった。
静かに扉が閉まる。
室内に残ったのは流星と隼斗だけになった。
流星は疲れた声で呼びかけた。
「隼斗。あれは、どうなっているんだい?」
禁書庫は上級魔術師クラスでないと、魔素が乱れ魔力酔いを起こすと言われている。
それを確認するのに流星は仕掛けたのだが、思わぬ結果になってしまった。
「どうして貴方が把握していないことを、あたしが知っているのよ」
隼斗はそっけなく言いながら、立ち上がった。
「とりあえず後をついていくわ!」
そのまま走り出して、扉が再び開いて閉じた。
流星は一人、局長室に取り残された。
(……睦月の跡地は彼らを歓迎するのだろうか。それとも……)
誰もいない部屋の中で、その言葉は静かに消えていった。
着物の胸元に手を当てると、冷や汗が布地に染み込んでいた。
その重さと冷たさが、やけにはっきりと伝わってきた。




