第十二話 二人の日常 後編
「だ、駄目です、楓さん! これ以上、大きいのは無理です」
凛が珍しく声を荒らげた。
六月は軽く笑っている。
「大丈夫だって。もう少し注いでもいけるよね」
「楓さんは大丈夫かも知れませんが、わたしが壊れてしまいます!」
「そうかな。凛の魔力制御だと、まだまだいけそうだけど」
六月の目の前に浮かんでいるのは、バランスボールほどの大きさになった水の蝶だった。
薄く繊細な翅が青白い光を纏いながら、空中でゆっくりと静止している。
二人がいるのは、二区のマンションならではの一室だった。
この部屋は魔法練習用として設えられており、壁も床も天井も通常の建材とは素材が異なる。
人工アルミナを高密度で混入させた対魔法仕様の建材が使われており、多少の魔法が暴発しても破損しない造りになっていた。
屋内でも魔法の練習ができる環境というのは、一部の上流階級ならではの設備だと言えた。
「楓さんはやっぱり、いぢわるです! わたしのスコアを見たでしょう」
「うん、見た」
六月はあっさりと肯定した。
校長室で講師への説得が行われた際に、六月と凛はそれぞれの詳細なスコアを見せてもらった。
凛のスコアは反応速度B、出力量B、持久力C、制御力B。
どれも水準以上だが、突出したものはない。
因みに六月のスコアは反応速度C、出力量D、持久力C、制御力Sだった。
「凛の制御力はBという事だったけど、魔法制御はどうなんだろう」
「魔法制御ですか?」
「そう。魔法を制御する力。今の水の蝶は魔力で形を作った後は、魔法として動いてるよね。それを操る力は、制御力のスコアとは別の話じゃないかと思って」
どう聞いても屁理屈だった。
制御力のスコアが低いから限界だという凛の主張に対して、スコアは魔力の制御を指すのであって、魔法そのものの制御は別枠だと言い張っているのだ。
だが凛は反論しなかった。
六月の言葉には常識の外からくる発想がある。
ゲームで培った感覚から生まれるその視点は、魔法の理論から入った凛には思いつかない。
そして、その外側からの視点が、正しいことの方が多かった。
そういう経験を、この数週間で何度もしてきた。
「…………やってみます。楓さん、何かあったら助けてくださいね」
「俺が死んでも助けるよ」
「縁起でもないことを言わないでください」
凛は小さく息を吐いてから微笑んだ。
そして視線を水の蝶へと戻す。
指先から慎重に魔力を送り込んでいく。
これまでと同じように魔力を注ぐのではなく、今度は蝶の形を維持したまま、内側からゆっくりと満たしていくイメージで。
水の蝶が一回りだけ大きくなった。
輪郭が崩れる直前のような、危うい緊張感が表面に走る。
だが崩れる事はなかった。
凛の中で何かが変化したように魔法が安定している。
「羽を動かせる?」
六月がそっと促した。
凛は静かに蝶が羽ばたく様子を思い描いた。
美しい翅が、ゆっくりと開き、閉じる。
風を切る動きではなく、朝の庭で日光を浴びる蝶の緩やかな羽ばたき。
翅がピクリと震えた。
それから蝶は羽ばたいた。
青白い光が揺れながら、空中でゆっくりと上下する。
その動きは不揃いで、まだ不安定だったが確かに動いている。
凛が思い描くとおりに翅が開いて、閉じた。
凛は思わず顔をほころばせた。
満面の笑みが、その表情に広がる。
次の瞬間、蝶が崩れた。
形を保てなくなった水が、空中でバラバラと砕け、大きな水の粒となって落下し始める。
六月の右手が、それより早く動いていた。
掌を下に向けると、漆黒の薄い受け皿が瞬時に広がった。
崩れた落ちる水が、その上に受け止められる。
雫が一粒も床に落ちることなく、黒い靄の上で静かに留まった。
しばらくの沈黙。
「楓さん……」
凛の声は、少しだけ不服そうだった。
「やっぱりズルいです」
「何が?」
「助けてくれるということは、最初から分かっていたんでしょう。だから、もっと無理をさせようとしていたんじゃないですか?」
「……否定はしない」
六月は笑いながら受け皿を解除すると、凛の方へ向き直った。
「でも動いただろ。羽が」
凛は返事をせずに視線だけ少し逸らした。
「俺としては、あの笑顔……反則だと思うよ」
「え?」
「蝶が動いた時の笑顔。最高だった」
凛の頬に僅かな色が差した。
二人の間に小さな沈黙が落ちた。
練習室の外では夜の静けさが既に深まっていた。
「少し、汗をかいてしまいました」
凛は前髪を軽く押さえながら言った。
その額には確かに、うっすらと汗が光っていた。
「お風呂にしませんか」
「……そうだね」
六月は立ち上がると、受け皿の残滓を指先で散らした。
漆黒の靄が空気に溶けていく。
凛も立ち上がり衣服の乱れを整えた。
二人は並んで練習室を出た。
廊下に出ると、部屋の明かりが足元を温かく照らしていた。
遠くの窓から夜の学術院の光がぽつぽつと見える。
楓と凛の夜は静かに深まっていった。




