第四話 長月本家
築五十年のアパートの階段を詩織が先導して上り始めた。
軋む木製の階段が一歩ごとに鈍い音を立てる。
手すりは錆びていて触れるだけで赤茶けた粉が指先についた。
その後ろを続こうとして六月は振り返った。
「宮司さん、皐月さんを見張っておいて下さい」
「確かにその方が良さそうね」
隼斗は頷きながら洸介の方へ視線を向けた。
「え、ま、待って下さい。外にいたら、またどんな目に合うか」
焦点が定まらない目で洸介が訴えた。
生気というものがその表情からすっかり失われている。
かつての御曹司らしさは、もはやどこにも見当たらなかった。
「まあ、あたしも一緒にいてあげるから安心なさい」
隼斗はそう言ってウィンクすると、洸介の拘束具をさりげなく確認した。
洸介は壊れた人形のような動作でコクコクと頷く。
六月は小さく頷くと階段を上り始めた。
凛、遊、詩織の三人がその後に続く。
☆
二階の廊下を進んだ突き当たりに一枚の扉があった。
詩織は立ち止まり、呼び鈴を鳴らした。
三回、間を置いて一回、そしてまた二回。
まるで暗号のような押し方だった。
しばらくして扉の向こうから鍵が外れる音がした。
扉がほんの細く開き、隙間からこちらを窺う目が見えた。
「ばあちゃん、あたしだから安心してよ」
詩織は小声で呼びかけた。
「早く入っておいで!!」
しわがれた声が急かす。
詩織が扉を引いて開けると全員が素早く玄関を潜った。
背後でゆっくりと扉が閉まる音がする。
部屋は六畳ほどの広さだった。
台所が壁際に併設されており、畳の間の中央には古びたちゃぶ台が一台、静かに鎮座しているだけだった。
古い木の匂いが部屋全体に漂っている。
その部屋の隅に老婆が立っていた。
九十を超えているだろうと思われる小柄な体躯に、深く刻まれたシワ。
だが、その目だけは年齢を感じさせない鋭い光を帯びていた。
老婆の視線が四人の顔を一人ずつ辿っていく。
詩織、遊、六月。
そして最後に凛の所で時間が止まった。
☆
「詩織! どうして霜月の娘がいるんじゃ!!」
老婆の甲高い声が上がった。
細い体からは想像もつかないほどの強い怒気を孕んだ声だった。
長月家にとって霜月家は仇敵でしかない。
かつて長月本家が堕天に至った経緯には霜月家の影がある。
その家の長女が長月の敷居を跨いだことが、老婆には到底許せなかった。
「確かに霜月は敵なんだけどさ。凛さんは直接関係ないじゃん」
詩織が宥めるように言った。
「じゃが、霜月のせいで長月は――」
「そう霜月のせいなのは分かってる。だけど凛さんのせいじゃないでしょ」
「詭弁じゃ! 長月は霜月を未来永劫、恨まねばならん。出ていけ! 怨敵は今すぐ出ていけっ!!」
凛は俯いていた。
その表情がどんなものであるかは誰にも見えなかった。
ただ、白い首筋が僅かに強張っているのが、六月の目には映っていた。
六月は詩織の前に出た。
「まあまあ、おばあさん。俺の奥さんに強く当たらないでよ」
その一言に、詩織と遊が同時に固まった。
「え、奥さん?」という驚きで二人は顔を見合わせる。
そして詩織はその場で崩れ落ちた。
だが老婆の反応は、それ以上のものだった。
六月の顔を正面から見た瞬間、老婆の目が大きく見開かれた。
「彩様……!?」
老婆の身体が芯から震えた。
その皺だらけの両手がちゃぶ台の端を強く掴む。
「俺は六月楓。睦月家の事を教えてもらいたくて今日ここに来ました」
「六月じゃと……? あんた、どうして六月を知っているのじゃ」
「それは俺の名前なので」
老婆はしばらく六月の顔から視線を離せないでいた。
何かを確かめるように細部を隅々まで見つめている。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「……まさか」
その瞳に浮かんだのは、驚愕だった。
「あの方は……やはり……」
老婆は虚空を見つめるように遠い記憶を辿る目をした。
☆
「良かろう、儂が知っている全てを教えてやる。その代わり長月家を再び旧月の序列に戻す――上天させることが条件じゃ」
老婆は静かに、しかし確かな意志を込めてそう言った。
六月は一瞬、言葉を詰まらせた。
「それは俺が出来ることではありません」
「出来るじゃろ? 序列一位の睦月ならば」
「ばあちゃん!」
詩織が声を荒らげた。
「詩織。お前は黙っとれ」
老婆は詩織を一瞥すると六月に向き直った。
「儂は急かさんから、ゆっくりと方法を探せば良い。この老いぼれがどうなるかは分からんがな」
その表情には年長者の駆け引きが見え隠れする。
「……普通には教えてもらえないということですか」
老婆は何も言わなかった。
ちゃぶ台の前に音もなく腰を下ろし、それが答えだと言わんばかりに視線を畳へと落とした。
四人で顔を見合わせた。
遊の表情は困惑していた。詩織は祖母と六月の間で視線を行き来させていた。
凛は相変わらず俯いたままで、表情が読めなかった。
これ以上、この場で話が進む気配はない。
「とりあえず、出直してきます」
六月はそう言って立ち上がり、玄関へ向かいかけた。
だが、扉の前で六月は振り返った。
「おばあさん」
老婆は動かない。
「凛への暴言を取り消して下さい」
老婆は無言のままだった。
畳の目を見つめたまま、一切の反応を見せない。
「長月を上天させることができたら、謝ってくださいね」
それだけ言い残すと六月は玄関を跨いだ。
凛、遊、詩織が後に続く。
詩織が最後に老婆を振り返った。
長月の家長はちゃぶ台の方に向いたままで言葉はなかった。
扉が静かに閉まる。
☆
一人残された部屋にしばらくの間沈黙が満ちていた。
古びたちゃぶ台の前で、老婆はじっと動かないまま座っていた。
外の階段から四人の足音が部屋から遠ざかっていく。
やがて完全に聞こえなくなった。
老婆はゆっくりと顔を上げた。
その目には先ほどまでの狡猾さも怒りも、もはや残っていなかった。
代わりにあったのは、長年溜め込まれた何かが今ようやく形を持とうとしているような、そんな表情だった。
一筋の涙が深く刻まれた皺の上を、静かに伝っていった。
「……彩様。貴女様の遺産、わたくしが見届けさせて頂きます」
誰にも聞こえない声で老婆は呟いた。
その声は部屋の中にひっそりと溶けて消えていった。
☆
四人が階段を降りると隼斗と洸介が待っていた。
「どうだったの?」
「何か知ってそうでしたけど、長月家の復権を交換条件に出されました」
隼斗は腕を組んで考える素振りを見せる。
「つまり長月を上天させないと、教えてくれないってことかしら」
「そういう事です」
「……それって無理なんじゃ――」
「それでしたら僕がお役に立てるかも知れません」」
隼斗の言葉を遮る男がいた。
洸介は食い気味に続ける。
「父上に伝えて取り計らってもらいます。ですから、どうか僕を助けて下さい。お願いします。お願いします」
顔を見合わせる五人。
六月は笑顔で頷いた。
「そういう事なら。皐月君に手伝ってもらいたい事があるんだけど」
「六月くん、正気なの!?」
隼斗のサングラスがずり落ちた。
「おっさん、マジか!?」
遊の声がほとんど絶叫になった。
「む、六月さん、何で!?」
詩織は何故か顔を赤くしている。
その隣で、凛だけが何も言わずに微笑んでいた。
「まあまあ。とりあえず皐月君の住む所を契約しに行こうか。それと――」
六月は洸介の肩に手を置いた。
「皐月君の連絡先を教えてくれない?」
住む場所と心強い知り合いを得た洸介は、天にも昇る気持ちになった。
六月は胸の中で洸介が語っていた言葉がヘドロのように残っていた。
『今までは金なんていくらでも使えたのに……なんで、僕がこんな目に……』
(もしかすると学術院という場所は……)
後ろから聞こえてくる仲間達からの悲鳴に似た声。
六月にはその声が心地良かった。




