幕間 楓と凛
十二月一日、夜。
六月は広い部屋を一通り確認して回り、最後に寝室の扉を開いた。
部屋の奥に一台のキングサイズのベッドが置かれていた。
何度見返しても一台だけしかなかった。
六月は数秒間、そのベッドを見つめていた。
それからリビングの戻ると平静を装いながら凛に言った。
「霜月さんはベッドで寝てください。俺はソファで大丈夫です」
「そんなことはできません」
凛は即座に首を横に振る。
「六月さんがソファで、わたしがベッドというのは道理が通りません。ソファはわたしが使います」
「いや、俺の方が体も大きいし――」
「そのご意見は的外れです。身体が大きいほどソファでは寝にくいでしょう」
凛の反論は筋が通っていた。
だが六月としても、この案を受け入れるつもりはなかった。
「いえ、俺がソファで寝ます」
「わたしが寝ます」
「……霜月さん」
「……六月さん」
全く動かない二人の間にしばらくの沈黙が続いた。
凛の目には、引く気がないという意志が見えていた。
二人で真剣に話合った結果。
ソファに置いてあった長い抱き枕を二人の間に挟む事で決着した。
☆
ベッドを共にし始めて三日目の夜、六月はある問題に気がついた。
抱き枕が間にあるというのに、凛は六月から距離を取るようにして眠っていた。
ベッドの端に身を寄せ、できる限り接触しないようにしている。
その気遣いに六月は申し訳ないと思う。
「……霜月さん」
「何ですか」
「そんなに端に寄ったら落ちてしまいます」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないですって。もう少し真ん中に」
「六月さんにご迷惑をおかけするわけには……」
迷惑という言葉に六月は困惑した。
「迷惑なんかじゃないから。それよりも落ちるほうが良くない」
「…………では、少しだけ」
凛が僅かに身体を中心へと寄せる。
六月は安心したように息を吐いた。
「おやすみなさい。霜月さん」
「……おやすみなさい、六月さん」
暗闇の中に、それぞれの呼吸だけが静かに広がっていく。
六月は目を瞑りながら凛の事を考えていた。
☆
それからしばらく経ったある夜のこと。
六月が夜中に目を覚ますと凛がソファに座っていた。
手元に視線を向けると水の蝶が羽を震わせている。
時刻は既に深夜二時を過ぎていた。
「霜月さん、眠れない?」
声をかけると凛は僅かに肩を震わせた。
水でできた蝶が姿を消す。
「申し訳ありません。起こしてしまいましたか」
「いや、気になって」
凛は静かに俯いた。
「少し、慣れなくて」
その言葉には真摯な響きがあった。
「一人で眠るのは慣れているんですが、誰かと同じ空間で眠ることが……こんなにも緊張するものだとは思っていませんでした」
六月は少し考えてから隣に腰を下ろした。
「俺も同じだよ」
「六月さんも?」
「誰かと暮らすのは初めてだから」
凛は六月の横顔をじっと見つめた。
その表情がほんの少しだけほぐれていく。
「そうなんですね……良かった」
「何が?」
「わたしだけではないと思ったら少し楽になりました」
六月はそれを聞いて何も言えなかった。
言葉よりも先に手が動いていた。
凛の手の甲に自分の手をそっと重ねる。
凛は少し動揺したが、その場から動かなかった。
それきり二人は並んでソファに座ったまま、しばらく何も話さなかった。
静かな夜の中で、ただ互いの体温だけが穏やかに伝わっていた。
「そろそろ、寝ようか」
「……はい」
その夜から二人の間にあった抱き枕はソファの上に戻った。
☆
十二月二十五日、夜。
時間は十一時を過ぎて、仕事を終えた給仕達の姿はもうなかった。
ソファに腰を下ろした六月は、凛が入浴から戻ってくるのを待っていた。
六月にはずっと考えていた事があった。
自分が凛と一緒なって本当に大丈夫なのか。
凛は自分と一緒になって本当に大丈夫なのか。
いくら自問しても答えは出なかった。
最初に凛が言った言葉を思い出す。
『わたしは六月さんを好ましく思っています』
それに対して六月は答えを返していなかった。
厳の命令から始まった同居生活は、一ヶ月が過ぎようとしていた。
凛は常に六月を立てようとしている。
入浴の順番も必ず六月が入ってから凛が入る。
しばらくすると、バスローブに身を包んだ凛がリビングに戻ってきた。
「お待たせしました。今日も良いお湯でしたね」
凛の頬は湯上がりで上気している。
六月は、天井を見つめながら静かに口を開いた。
「……凛」
「……はい」
「俺と一緒になってくれて、ありがとう」
凛はすぐには返事ができなかった。
何かを言いかけて飲み込む仕草を数回繰り返す。
そして静かに凛は六月の胸に顔を埋めた。
その身体をゆっくりと抱きしめながら。
六月は、その細い背中にそっと手を回した。
凛は何も言わなかった。
師走の冷気が窓の外を吹き抜けても、この部屋の中には柔らかな温もりが満ちていた。
「……楓さん、ズルいです」
凛の温もりが伝わる。
「何が?」
「……わたしにとって最高の誕生日になりました」
「そ、それは良かった!」
六月の声は上擦った。
「ふふ」
凛は穏やかに微笑んだ。
二人の呼吸が、静かに重なっていく。
この冬の夜は、どこまでも穏やかだった。
☆
十二月二十六日、朝六時。
部屋に差し込む光は、まだ薄くどこか遠慮がちだった。
六月が目を開けると、すぐ隣に凛の寝顔があった。
夜空のような黒い髪が純白のシーツに広がり、いつもは整えられている前髪が僅かに乱れている。
薄い桜色の唇からは規則正しい寝息が聞こえてくる。
凛の寝顔を六月は腕枕をしながら眺めていた。
普段は隙のない姿を見せている凛が、こうして無防備に眠っているのを見ると心が温かくなってくる。
やがて凛の睫毛が震えた。
焦点が合うのに、ほんの数秒かかる。
まだ少し眠そうな黒い瞳が六月の顔をぼんやりと捉えた。
「……おはようございます、楓さん」
「おはよう、凛。体調は大丈夫?」
凛は目を細めたまま小さく頷いた。
それだけで返事は充分だという顔をしている。
その寝惚けた様子が六月には堪らなく可笑しく、そして愛おしかった。
「…………何を見ているんですか」
凛が少し眉を寄せた。
気配で感じ取っていたらしい。
「別に」
「嘘です。ずっと見てたでしょう」
「……気づいてたんだ」
「目が覚めた瞬間から、ずっと視線を感じていましたから」
凛は僅かに頬を染めながら、シーツを引き上げるようにして顔の半分を隠した。
普段の凛からは想像もできない仕草に、六月は思わず笑みを浮かべた。
「恥ずかしいので見ないで下さい」
「顔を隠してる方が気になるんだけど」
「楓さん」
シーツの向こうから低く抑えた声が届く。
六月はゆっくりと息を吐いて立ち上がった。
「俺はシャワーを浴びてくるよ。凛は無理しないでね」
「……楓さん、その背中は一体?」
凛は頭から被っていたシーツをずらしていた。
「背中? 何か付いてる?」
「秘術の刻印のような……。わたしも詳しくは知りませんが……」
「秘術の刻印って何かな?」
「刻印を持っていないと秘術は使えないんです。刻印は身体に小さく刻まれると聞いていたんですが、楓さんは背中全体に刻印が広がっています」
凛はシーツの隙間から眉根を寄せていた。
六月はそれを見て吹き出しそうになった。
「心配してくれてありがとう。身体は何ともないので大丈夫だと思うよ」
六月はそう言って部屋をでた。
窓の外では、冬の乾いた風が吹いている。
だが部屋の中は穏やかな空気が穏やかに満ちていた。
☆
十二月二十六日、昼
六月と凛が新年会の服を買いに行くと聞いた時、隼斗は同行することにした。
商業区に足を踏み入れると年末の賑わいが三人を包んだ。
ショーウィンドウを覗き込む六月の横に、凛が自然な距離感で並んでいる。
「楓さん。この色はどう思いますか」
凛が棚から取り出した紺のジャケットを、六月へと差し出した。
「俺より凛に似合いそうだけど」
「わたしではなく楓さんにです」
「俺に?」
「はい。お祖父様がいらっしゃる席ですから、少し改まった方が」
「なるほど」
六月は言われるままに試着室へ向かう。
しばらくして出てきた姿を見て、凛の右の眉がほんのわずかに動いた。
「とても似合っています」
「そうかな? 俺はこういうの買った事がなかったから分からないよ。凛に選んでもらうのが間違いなさそう」
「センスに自信はありませんけれど……」
「そういう意味じゃなくて」
六月が続けようとした言葉を、凛が穏やかに遮った。
「次はこちらも試してみてください」
少し離れた場所からその様子を眺めていた隼斗は、無言のままサングラスの奥で目を細めた。
(あらあら)
二人の距離が恋人のそれになっている。
凛がジャケットの衿を直す時の仕草、六月が自然に凛の手元を見る時の視線、動作の一つ一つが先日まで二人とは違っていた。
隼斗は温かい視線で二人の背中を見守り続けた。
☆
十二月二十六日、夜。
「……今日も、何事もなく終わったわねえ」
独り言が、静まり返った廊下に溶けていく。
サングラスを外して目元を揉みながら、隼斗は小さくため息をついた。
(まあ、それが一番大事なんだけどね)
隼斗はサングラスをかけ直すとソファに体重を預けた。
(……そう言えば、あの赤ん坊は六月くんだったのかしら)
隼斗の脳裏に、六月の月隠を見た時に蘇った記憶が浮かんだ。
考えてみれば辻褄は合う。
睦月家が途絶えた時に隼が抱いていた赤ん坊がいた。
あの時の子が六月である可能性が高い事は明白だった。
(確かめておいた方が良さそうね。もうすぐ新年会もある事だし、六月くんの素性がはっきりすれば凛ちゃんにもメリットはあるはず)
思い立ったが吉日とばかりに、隼斗はタブレットを立ち上げた。
秘匿回線は一度のコール音で繋がった。
「――オヤジ、あた、おた、俺だ、隼斗だ」
『…………どうした?』
隼の声は相変わらず重い。
「一つ、聞きたい事がある」
隼斗はできる限り平静を保ちながら言葉を選んだ。
隼は無言で促した。
「三十年前の夜。オヤジが抱いていた赤ん坊がいただろ?」
電話の向こうで短い沈黙があった。
『……忘れろといったはずだが』
「忘れられるはずないだろ」
重い沈黙が訪れる。
『あの赤ん坊は火傷が酷くてな。残念だが俺の目の前で息を引き取った』
静かで感情を抑えた声だった。
「……そう、か」
『それがどうした』
「いや、なんでもない。ありがとう、オヤジ」
隼斗はしばらく、暗くなったタブレットの画面を見つめていた。
睦月家から救い出された赤ん坊は、三十年前に亡くなっていた。
ならば――。
あの時、魔術祭の闘技場で月隠を発動した六月は、一体何者なのか。
「……オヤジが、嘘をついている?」
思わず口にした言葉に、隼斗自身が眉をひそめた。
そんなはずはない。
隼が嘘をつく必要は全くないからだ。
「……六月くん」
隼斗は小さく呟いた。
その声は、誰もいない部屋の中へ静かに消えていった。
三十年前に死んだはずの赤ん坊と六月楓。
二つの存在を結びつける答えを隼斗はまだ知らない。




