幕間 長月詩織は諦めない
十二月一日、朝。
詩織は教室の扉の前に立って、いつものように六月を待っていた。
周囲には昨日の霜月魔術祭の余韻が色濃く残っている。
あの闘技場での出来事は、詩織の記憶の中にはっきりと刻まれていた。
九人を相手に一人で立ち回り、風哭の音圧を受けながらも立ち上がった姿。
不思議な虹色の光を纏って立ち上がった背中。
あれが自分と雑談をしながら、カレーを頬張っていた人間だとは今でも信じられなかった。
(まあ、別に見直したわけじゃないけど)
詩織は心の中だけでそう呟いて廊下の向こうを見渡した。
いつも通り朝の人波が流れているが、見慣れた背格好は見当たらない。
「おー、詩織ー」
声の主は遊だった。
眠たげな表情で廊下の向こうから片手を上げて歩いてくる。
「遅いじゃん。何してたの?」
「別に。朝ご飯食べてた」
遊は詩織の隣に並ぶ。
「おっさん、まだ来てないの」
「……うん」
詩織は素っ気なく返す。
遊は少し間を置いてからぽつりと言った。
「あの後、霜月の爺さんに連れて行かれたじゃん」
「知ってる」
「しばらく来れないかもね」
「……分かってる」
詩織のツインテールが小さく揺れた。
遊は伸びをして壁にもたれ掛かる。
二人はしばらくの間、朝の通路を黙って眺めていた。
チャイムが鳴っても六月は教室に現れなかった。
☆
授業が始まって教室に入ってきたのは見知らぬ中年の男だった。
「霜月先生はしばらく、別の業務でスサノオには来れません。その間、わたくしがこのクラスを担当させて頂きます。短い間ですが、よろしくお願いします」
中年の男は臨時教師だった。
温和で優しそうな顔立ちをしている。
簡単な自己紹介を終えると、本日の授業内容を語り出した。
十二月の末までは午前二コマが魔法理論、午後二コマが実践魔法と決まっている。
生徒達の雰囲気は一気に緩んでいった。
座学は男がテキストを読み上げるだけの内容だった。
ひたすらに読む、読んで読んで読みまくる。
タブレットに表示されているページだけは、すこぶる進んだ授業だった。
実技授業も同じことの繰り返しだった。
白線の前に並んで前方の的へ魔法を撃つ。
ひたすら撃つ、撃って撃って撃ちまくる。
詩織は何度目かの的当てを終えた後、隣に立つ遊に小声で話しかけた。
「ねえ、これって成長してる?」
「してないと思う」
「だよね〜」
遊の答えに詩織は深くため息をついた。
二日前まではコウモリを追いかけ回してむきになって、撃って外して考えて、気がつけば魔法の精度が上がっていた。
あの楽しかった時間はどこへ行ったのだろう。
あの授業を考えたのは凛だった。
ゲームにしたのは六月だった。
詩織はそれ以上は考えないようにして、的に向かって火の弾を放った。
☆
それから一週間が経った。
詩織は毎朝、教室の扉の前で待ち続けたが、六月が姿を現す事は一度もなかった。
「まだいないじゃん」
「見れば分かる」
「もう一週間だよ。いつまで待つの」
「別に待ってない。ただここに立ってるだけ」
「それを待つって言うんだよ」
詩織は遊の言葉を無視して腕を組んだ。
そして次の日。
詩織はまた同じ場所に立っていた。
遊は何も言わずに隣に並んだ。
「今日も来ないんじゃね?」
「……かもね」
「詩織、怒ってる?」
「怒ってない」
「嘘だ」
「怒ってないってば」
チャイムが鳴っても六月はやはり来なかった。
教室に入る直前、詩織は廊下に顔を出して確認してみたが誰もいなかった。
☆
八日目の朝。
廊下の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「昨日の話なんですが。やっぱり年末は混むと思います?」
「二区でしたら、そうでもないと思います。そろそろ用意しておかないと間に合わなくなります」
「なるほど」
詩織は声の方へ顔を向けた。
六月と凛が並んで廊下を歩いている。
二人の距離が微妙に近いと感じた。
どう見ても教師と生徒の距離ではない。
凛の口元がわずかに緩んでいる。
あの霜月凛が、である。
氷の令嬢と言われている女が、普通に笑って話しているのだ。
そして二人の後ろには、いつぞやの黒スーツのオカマッチョが、影のようにぴったりとついて歩いている。
(あ、オカマの人もいるんだ)
そんな場合ではないと分かりながら、詩織は一瞬そんなことを考えた。
六月と詩織の目が合った。
「よっ、おはようさん。詩織」
「お……おはよう」
六月は凛との会話を続けながら、詩織の横を通り過ぎて教室の中へと入っていった。
「来週あたりが良いかもしれないですね」
「分かりました。詳しい日程はまた帰ってから」
詩織目の前で扉が閉まる。
詩織はしばらく、その扉を見つめていた。
この一週間。
毎朝、教室の前に立った。
今日は来るかもしれない、そう思って待ち続けた。
なのに六月はあっさりと現れて、あっさりとあいさつして、凛と話しながら入っていった。
「はっああぁぁぁあぁああぁぁ! 何それ? 一週間も待ってたのに、たったそれだけ!?」
天を仰ぐ詩織の声が廊下に響いた。
通り過ぎる生徒たちが、ちらちらと視線を向けてくる。
だが今はそんなことを気にしている余裕はない。
「ちょ、うるさ」
遊は耳を押さえる仕草をする。
「やっぱり一週間待ってたんだ?」
「待ってない!」
「毎朝ここにいたよね?」
「偶然だってば!」
「八日連続で?」
遊の口角が上がる。
「ぐっ……そ、それは……」
詩織の眉が下がった。
「それで、やっぱり待ってたんだ?」
「うぐっ……!」
詩織はぴたりと動きを止めた。
遊の口元にじわじわと笑みが広がっていく。
「べ、別に待ってたわけじゃ……! ただ、ただ、一言くらいあっても良くない? 一週間ぶりに来て、おはようさんって!? あたし名前で呼ばれてたし、それは良かったんだけど、でも!」
「でも?」
「でも!!」
詩織は続きの言葉が出てこなくてむすっと口を閉じた。
遊はそれを見て声を立てて笑った。
「なに笑ってんの!」
「いや、だって」
「だって何よ」
「詩織ってさあ」
遊は少しだけ声を落とした。
「分かりやすすぎだろ」
詩織の顔が、一瞬で赤くなった。
「は? 違う。違うから。あんた一体、何言ってんのよ。あたしはそんな、べ、別に、おっさんのことなんて!」
「はいはい」
「はいはいって何!? ちゃんと聞いてよ!」
「聞いてるよ。全然そういう感じに聞こえないけど」
詩織は遊を睨みつける。
遊は涼しい顔をしたまま少しだけ柔らかい声で続けた。
「なあ、詩織」
「……何よ」
「元旦に霜月家で新年会があるんだけど、一緒に行かね?」
詩織は眉を寄せた。
「霜月家? どうやって?」
長月の分家に霜月家から招待状が届く訳がない。
「うちも一応、師走家だから声かかってさ」
「……おっさんも来る?」
「来ると思う。霜月さんと一緒にいるんだし」
詩織は、むすっとした表情のまま少し考えた。
「その話、詳しく!」
「だと思った」
遊が先に教室の扉を開けながら、呆れたように笑う。
詩織はその後に続く。
詩織は気づいていた。
この気持ちは魔術祭の少し前、魔力暴走の時から始まっていた。
魔術祭でがきっかけで自覚しただけだ。
元旦にある霜月家での新年会。
詩織は胸に手を当てた。
まだ名前の付けられない熱が、そこには確かにあった。
負けるつもりなんて最初からない。
元旦――霜月家での新年会。
それは長月詩織にとって新しい戦いの始まりだった。




