幕間 貴婦人のお買い物
東京港区――閑静な住宅街の一角に、周囲よりも目を引く洋館があった。
高い煉瓦の塀に囲まれた敷地には、丹念に手入れされた庭園が広がっている。
冬の弱い陽射しを受けて常緑樹の葉が鈍く輝きを帯びていた。
黒塗りの高級国産車が一台、家の前に停まる。
霜月巌は足早に車から降りると玄関の扉をくぐった。
「お帰りなさいませ、あなた」
玄関先で出迎えたのは薄い金髪を結い上げた老婦人だった。
巌の妻、エレーナ・ロスファー・霜月。
英国貴族の血を引く佇まいは、崩れることのない優雅さを保っている。
「ただいま、エレーナ」
巌は珍しく、いつもより早口でそう返した。
玄関ホールからリビングへの移動速度や、コートを脱ぐ手つきに落ち着かない気配を感じさせた。
「あら、珍しいこと。何かございましたの?」
エレーナは、コートを受け取りながら尋ねる。
「――睦月が、残っていた」
巌は応接間のソファに腰を下ろすなり、そう切り出した。
メイド達が慌ただしく動き出す。
「まあ」
エレーナは驚いたように口元に手を当てる。
「詳しくお聞かせ願えますか?」
「魔術祭で月隠を使用した男がいる。無名の若者だと思っていたが、間違いなく睦月の血を引いている」
巌の口調に熱が籠る。
「そんなことが……」
エレーナは相槌を打ちながら、優雅に紅茶を口に運ぶ。
その所作はとても洗練されている。
(あの計画にどれほどの労力と時間を費やしたか……)
「……口惜しいこと」
ボソリとした呟きに、紅茶の湯気がわずかに揺れた。
「それで、その若者はどうしているのです?」
何もなかった様な表情で巌を見る。
「学術院で保護している。二区に住居を用意した。凛の夫としてな」
「あら、それは良い判断ですわ」
エレーナは満足げに頷いた。
有望な相手を身内に取り込むのは、貴族社会において最も基本的な戦術だ。
睦月の血族という強力な手札は、手元に置いておくに越したことはない。
「――ところで、学術院の方はいかがですか?」
話題を変えるようにエレーナが尋ねた。
「哲山は相変わらず及び腰だ。あの男は皐月家との均衡を取ることしか考えていない」
「それは困ったものですわね。そういえば来年の選挙のことも」
次期総理候補としての巌の立場、エレーナが理事長を務めるレッドラインからの資金援助、党内派閥の動向。
エレーナは話題を政治の方へと誘導していく。
巌も久しぶりに合った妻との会話を楽しんでいた。
☆
巌の元に秘書からの連絡が入る。
急ぎの調整が必要という知らせだった。
「すまんが、また出なくてはならん」
「お仕事、大変ですものね」
エレーナは優しげな微笑みを浮かべながら、夫を玄関先まで見送った。
車が門を出ていくのを見届けると、その微笑みは役目を終えたかのように静かに消えていった。
「――ジェーン」
控えていたメイドを呼び寄せると、エレーナは短く告げた。
「わたくしは自室に籠ります。しばらくは誰も近づけないように」
「承知いたしました」
メイドが一礼して下がる。
エレーナは階段をゆっくりと上り、二階の自室へと向かった。
☆
自室に入り、扉を確実に施錠したことを確認する。
そして化粧台の二段引き出しから、小さな端末を取り出した。
それはタブレット――学術院でのみ使用を許された特殊端末だった。
エレーナは電源を入れると秘匿回線を立ち上げた。
呼び出し先は皐月雄介。
コール音が数度鳴ると聞き慣れた声が応答した。
『はい、皐月です』
「エレーナですわ。ご機嫌よう、雄介さん」
『これはこれは、ロスファー夫人。お久しぶりで御座います』
雄介は慇懃な態度で答えた。
「本日は、いつもの宝石を購入したいと思いましてね」
エレーナの言葉に一瞬の間が空いた。
『承知いたしました。いつも通りに届けさせて頂きます』
「ええ、お願いしますわ」
『価格は一億二千万円。よろしいですね』
「少し価格が上がりましたかしら?」
『最近、管理局が五月蝿くなってきておりまして……』
「分かりました。それで結構ですわ」
電話を切った後、エレーナは僅かに口の端を上げた。
この宝石をレッドラインが主催するオークションに出すだけで、間違いなく一億ドル以上の買い手が付く。
その価格は今後、更に跳ね上がっていく事だろう。
エレーナは歪んだ笑みを隠すように口元へ手を添えた。
☆
しばらくして扉の外からジェーンの声がかかった。
「奥様、お約束のお客様がいらっしゃいました」
「お通ししてちょうだい」
エレーナは化粧を軽く直し、応接間へと移動した。
応接室で待っていたのは、プラチナブロンドのショートボブを揺らす若い女性だった。
すらりと伸びた長身に隙のない所作。
容姿に似合わない冷めた瞳をエレーナの向けた。
「お久しぶりね、ヴィクトリア。息災だったかしら」
「ご無沙汰しております、ロスファー夫人」
ヴィクトリアは優雅に一礼した。
「わざわざアメリカから、よく来てくれましたわね」
「ロスファー家からの依頼とあらば、いつでも」
二人はソファに向かい合って腰を下ろした。
メイドが運んできた紅茶を挟みながら世間話が始まった。
旧知の知り合いが、久しぶりの再会に花を咲かせている光景だった。
「――それで、今回の留学の件ですけれど」
エレーナが、話の核心へと静かに切り込んだ。
「ようやく登録手続きが終わりました。明日から学術院での生活が始まります」
「そう。何か困ったことがあれば、いつでも言ってちょうだいね」
エレーナの言葉をヴィクトリアは理解した。
「ご期待に沿えるよう、努めます」
その声には感情の起伏が全く見当たらなかった。
☆
会話がひとしきり済んだ頃、玄関先に一台の車が到着した音がした。
それは黒塗りの外車で、学術院までヴィクトリアを送り届けるため皐月家が用意していた。
「お迎えが参ったようですわね」
「はい。それでは失礼いたします」
ヴィクトリアは立ち上がり一礼した。
エレーナはその動きを見て、機械仕掛け人形のみたいな印象を受けた。
玄関先まで見送りに出ると、冬の冷たい空気が二人を包む。
門の外に停まった外車の後部座席へ、ヴィクトリアは静かに乗り込んでいく。
「――くれぐれも、無理はしないようにね」
エレーナがそう声をかけると、ヴィクトリアは窓越しに小さく頷いた。
「ご心配なく。依頼は必ず終わらせます」
その一言だけを残し、車は静かに走り出した。
遠ざかっていく車の後ろ姿を、エレーナはしばらくの間、微動だにせず見つめ続けていた。
やがて車の姿が門の向こうに消えると、エレーナはゆっくりと踵を返した。
その口元には先ほどまでの穏やかな微笑みは、もう残っていない。
冬の陽射しだけが静かな屋敷を照らし、その胸に秘めた野望だけが、誰にも知られることなく静かに膨らみ続けていた。




