幕間 その後の向陽サービス
十二月一日、向陽サービスのオフィスは、いつもと変わらない朝を迎えていた。
各々のデスクでキーボードを叩く音、電話の呼び出し音、コピー機の駆動音。
窓際の席では、若手社員が眠そうな目を擦りながらモニターと睨めっこをしている。
壁に貼られたカレンダーには、来週納品予定のクライアント名がいくつも書き込まれていた。
給湯室からは、誰かが淹れたインスタントコーヒーの匂いが漂ってくる。
課長は自分のデスクで、部下から上がってきた進捗報告に目を通していた。
相変わらず杜撰な仕事ぶりの社員達に苛立ちを覚えながら。
誤字だらけの報告書に赤ペンを走らせ、椅子の背もたれに深くもたれかかりながら大きく伸びをする。
特に変わったこともない、いつも通りの午前だった。
昼休みには、いつものように近所にある定食屋で唐揚げ定食を頬張る。
一時間の昼休憩を終えると午後の業務に戻った。
フロア全体は、普段と全く変わらない空気に包まれていた。
☆
異変が起きたのは、午後二時を過ぎた頃のことだった。
見慣れない黒服の男達が数人、社長室へ入っていくのを課長は自席から目撃していた。
整った身なりと形が決まった歩き方だった。
まるで訓練された兵士のような動きをしていた。
明らかに、この会社と取引があるタイプの人間ではなかった。
「なんだあれ」
隣の席の社員が小声で呟く。
課長も同じ疑問を抱いていたが、それを口にすることはなかった。
それよりも溜まった仕事を片付けないと、定時を過ぎても帰れなくなってしまう。
課長が精力的に仕事をこなしていると、社内放送で社長の緊張した声が流れてきた。
「――皆さんにお伝えします。本日をもちまして向陽サービスは、皐月コンツェルン様の傘下に入ることとなりました」
オフィス中が一瞬にして静まり返った。
「皐月……コンツェルンって、あの?」
「え、うちみたいな中小、買収する価値あんの?」
「マジかよ、この会社どうなるんだよ……」
あちこちから戸惑いの声が上がり、フロア全体に波及していく。
課長自身も椅子から立ち上がったまま、しばらく状況を理解できずにいた。
世界的な企業として名を馳せる皐月コンツェルンが、なぜこんな零細ソフトウェア会社に興味を持ったのか。
誰もが疑問符を頭の上に浮かべていた。
☆
その騒ぎが落ち着かないうちに、社員が一人ずつ応接室へ呼び出されることになった。
順番を待つ社員達の間では、色々な憶測が飛び交っている。
「リストラの前触れじゃないの?」
「いや、待遇良くなるかもよ。大企業だし」
誰もが不安と僅かな期待を織り交ぜながら、自分の順番を待っていた。
課長の番が回ってきた頃には、太陽が西に傾いていた。
応接室のドアを開けると、見るからに仕事がデキる雰囲気をしたスーツ姿の男が座っている。
仕立ての良い一着に無駄のない動作。
差し出された名刺には「皐月コンツェルン 出向担当」とだけ記されていた。
その両脇には黒服の男たちが控えるように立っている。
応接室は課長がいつも行なってきた、圧迫面接の様相を醸し出していた。
「お忙しいところ恐縮です。少々、お伺いしたいことがありまして」
出向担当者の声は柔らかいが、有無を言わせない圧力を感じる。
「六月楓という元社員の方について、ご存知のことがあれば教えて頂きたいのです」
「六月……ああ、先月辞めた奴ですね」
課長は内心で胸を撫で下ろした。
もう会社に籍のない人間の話であれば、多少大袈裟に話しても構わないだろう。
そんな打算が頭の中で組み上がっていく。
「情報の内容によっては査定に反映させて頂きます」
その一言が、課長の背中を強く押した。
査定という甘美な言葉の響きに、俄然ヤル気が出てくる。
「それでしたら、色々とお話ししましょうか」
課長は身を乗り出しながら、揉み手全開で語り始めた。
「あいつ、去年の健康診断の後に、病院からわたしに問い合わせが来たことがあるんですよ。詳しいことは伏せますけど、まあ、そういう類の病気だったみたいで」
課長はオフィスでする普段話のように、面白おかしく話を作り上げていった。
査定に響くのならここが勝負所とばかりに、口から次々と物語を紡いでいた。
「他人と関わろうとしない奴でしたし、その辺りが原因だったんじゃないですかね」
出向担当者は表情を変えることなく、静かにメモを取り続けている。
その様子に、課長はますます調子づいていった。
相手がメモを取り続けているのは、重要な話だと考えていると思いながら。
話の途中、黒服の一人が静かに部屋を出ていった。
課長はそれに気づかないまま話を続けた。
「仕事ぶりも褒められたもんじゃなかったですよ。納期は毎回ギリギリだし、トラブル対応も遅い。あいつのせいで、こっちが何度も頭を下げに行ったこともあります」
課長の物語は何度も山場を迎えていた。
無能の六月が起こしたトラブルを、全て華麗に解決する素晴らしい上司の姿。
それはストーリーの主人公たるやといった活躍だった。
やがて、先ほど部屋を出ていった黒服の男が戻ってきた。
出向担当者に歩み寄り、耳元で何かを短く告げる。
役員の表情に微かな変化があった。
それまでの柔和な表情に、一瞬だけ鋭い眼光をのぞかせる。
「――なるほど。よく分かりました」
出向担当者はそう言うと、静かにペンを置いた。
「それでは貴方の話と真実を照らし合わせていきます」
課長は何を言われているのか分からなかった。
出向担当者は鞄からレポートを取り出した。
「毎月の残業時間は平均百時間だったようですね。貴方の言う通り仕事が出来なかったのでしょうか」
課長は満足気に頷いた。
「休日出勤は年平均二十二日ですね。これは管理職としてコンプライアンスの観点からどう思われますか?」
「…………」
「顧客指名件数第一位、障害対応率九十八%、社内最高評価ですか。貴方が仰った六月さんと、弊社の調査結果では随分隔たりがあるようですが」
「………………」
課長は沈黙を守るしか出来なかった。
「貴重なお話、ありがとうございました」
「…………いえ。お役に立てたなら何よりです」
課長は応接室を後にした。
その足取りは鉛のように重く、歩みは牛よりも遅かった。
☆
その査定はすぐに反映された。
翌日、課長の名前がデスクから消えた。
社員が理由を尋ねようにも、問い合わせる先すら与えられなかった。
元課長は向陽サービスの清掃担当になっていた。
「……どうして、こんなことに」
誰にともなく呟きながら、モップを握る手には以前の書類にペンを走らせていた頃の面影はどこにもなかった。
☆
深夜の向陽サービスは、静まり返っていた。
最後の社員が退勤した後のフロアを、元課長は一人でモップがけしていく。
かつて座っていたデスクの前を通るたび、見ないようにして床をしっかりと磨いた。
誰もいない応接室の前を掃除する時だけは、少しだけ立ち止まって扉を眺めていた。
あの日、出向担当者と交わした会話を思い出す。
元課長が語った英雄譚は、今となっては滑稽なほど遠い記憶に感じられた。
「そんな場所でどうしたんですか? 課長……じゃなかった。清掃員さん」
夜勤の警備員が声をかけてくる。
「あ、はい。すみません、すぐ終わります」
元課長は俯いたまま作業を続けた。
日中、社員達とすれ違うことがないよう、清掃の時間帯は意図的に深夜に組まれている。
それが誰の配慮なのか、課長には分からなかった。
分かりたくもなかった。
ゴミ箱を空にしながら、ふと目に入ったのは、かつて自分が使っていたデスクに置かれた小さな写真立てだった。
新しく異動してきた社員の家族写真らしい。
それは笑顔で撮った家族。
元課長にも、あんな写真があった。
けれども仕事ばかりで家族を顧みなかった。
いつの間にか妻はいなくなり、娘からも連絡は来なくなった。
元課長は黙ってモップを動かし続けた。
磨けば磨くほど床は綺麗になる。
けれども、どれだけ磨いても、自分の過去だけは綺麗にならなかった。
深夜のオフィスには、モップを引く音だけが静かに響いていた。




