第十六話 霜月魔術祭 本戦 後編
八人が次々と棄権していくのを目の当たりにして、洸介の顔からは血の気が引いていた。
額には汗が浮かび、握りしめた拳が小刻みに震えている。
「く……くそっ!」
余裕を失った洸介が、荒い呼吸のまま六月を睨みつける。
(なんでだ……なんでお前なんだ)
これまでの人生で金と権力で手に入らないものなど存在しないと考えてきた男が、初めて直面した敗北の予感だった。
「ふ、ふふふふ、ふふ……」
突然、俯いて笑い出す洸介。
六月は距離をとったまま、警戒体勢を崩さない。
「ふふ、はははハハハハアアアァァァァァッ」
洸介の身体から、異様な魔力の高まりが伝わってきた。
空気そのものが震え始め、耳の奥に違和感を感じるようになってくる。
「ァァァ〜~〜~〜ーーーーーーーーーーーーー」
叫びは高音の波長へと変化した。
更に超高音からホイッスルボイスへと音が高くなっていき、遂には超音波となって闘技場全体を包み込んだ。
☆
洸介が絶叫し始めると、巌は立ち上がって部屋の外に飛び出した。
そして部屋の外で警備していた隼に指示を出す。
「隼っ! 部屋にあるスピーカーを破壊しろ!!」
「ハッ!」
巌の尋常ではない様子を察知して、VIP室のスピーカーを携えていた日本刀で両断する。
その様子を如月哲山と文月忍は、固唾を呑んで見守っていた。
「雄介、貴様はすでに秘術を倅に継がせていたのか」
「ああ、その通り。皐月を継ぐのは洸介と決まっているからな」
巌への遠慮を排した言葉遣いだった。
「このままでは観客に被害が及ぶぞ!」
「知ったことか。民草が皐月の秘術をみれるのだぞ? これ以上の栄誉はないだろう」
何処か恍惚とした口調に、巌は軽く舌打ちをする。
旧月家至上主義が、未だ深く根付いている事に苛立ちを覚えていた。
今から闘技場に走ったとしても間に合わない。
そうしている内に闘技場の観客が、頭を押さえて悶えるのが見えた。
皐月家の秘技――風哭による蹂躙が始まろうとしていた
☆
闘技場には大混乱が訪れていた。
超高音の更に上、超音波が観客全員に襲いかかっていた。
椅子に座っていた観客達は、両耳を押さえながらその場に膝をついていた。
それでも耳の奥を突き刺すような激痛や、頭蓋の内側で軋むような感覚は収まらない。
時間が経つにつれて観客達がその場で倒れていく。
中には完全に意識を失う者もいた。
魔術祭の熱気は凄惨な様相へと変貌していった。
洸介と対峙していた六月と、舞台の上にいた凛も床に膝を突いていた。
その光景を見下ろしながら、洸介が歪んだ笑みを浮かべる。
そして動けない凛の側に腰を下ろした。
「凛さん」
秘術による音圧の中、洸介は凛の肩に手を掛けた。
凛は身体を強張らせる。
「今、僕との結婚を受け入れると言えば――全員、助けてあげてもいい」
洸介の歪んだ笑みは深さを増していく。
「――駄目、です」
六月は膝をつきながらも、必死にそれだけを絞り出した。
喉の奥から絞り出すような声だった。
「六月さん、無理しないで下さい!」
凛の声が痛みに歪みながら届く。
その瞳が揺れていた。
(凛さん……)
六月の目の前で凛が葛藤している。
応じてしまえば、この場は収まるだろう。
それは凛の未来を洸介に差し出すことだ。
それだけは絶対にあってはならないと、朦朧とする意識の中でも強く思った。
六月の視界が次第に闇に染まっていった。
耳鳴りが激しさを増し平衡感覚が奪われていく。
(駄目だ、まだ……倒れたらダ……メ…………)
六月は倒れた。
凛の絶望に染まった表情を見て、洸介は気が付いた。
気が付いてしまった。
(凛さん? まさか、そんな男に? まさか、まさか、まさか)
洸介の中にあった何かが音を立てて崩れ落ちた。
膨れ上がる嫉妬の焔は、少しだけあった良心を燃やし尽くす。
上着のポケットに忍ばせていた青色の指輪をはめて、風の短槍をイメージする。
またたく間に手の平に細く鋭い風の槍が形取られた。
青色の指輪が共鳴して風は勢いを増していく。
その槍を容赦なく六月の背中に突き立てる。
「皐月、さま?」
凛はその瞳を大きく見開いた。
洸介は凛が初めて自分に対して興味を持ってくれた気がした。
「邪魔者は僕が始末しました。凛さん、これからずっと一緒にいましょうね?」
息を荒げて凛に手を伸ばす。
「何を!? 六月さん! 六月さんっ!! 嘘ですよね、返事して下さい!!」
凛は洸介の手を振り払うと、六月の身体を揺する。
「お願いします……誰か……誰か六月さんを助けて!」
絶叫が舞台を揺らした。
凛の声に反応するように、六月の身体から薄い膜が立ち上がり、虹色の光を纏いながら静かに包み込んだ。
まるで極薄の硝子が幾重にも重なり合うように、その光は淡く、けれど確かな輝きを放っていた。
闘技場全体を包む不協音の中で、その光だけは静謐な調べを奏でていた。
☆
ちょうどその瞬間、VIP室のガラスから闘技場を見下ろしていた巌は思わず息を呑んでいた。
「……月隠、だと……?」
離れて見ていた雄介も呻くような声を漏らす。
眉間に深い皺を刻み、目の前の光景を疑うような眼差しで見ていた。
手持ったグラスが小さく震えている。
「…………月隠」
巌もまた同じ言葉を繰り返していた。
喉の奥が何かを忘れたようにひどく渇いている。
巌の後ろに控えていた宮司隼は、何も見なかった様子で眼を閉じた。
あり得ない。
あってはならない光景だった。
三十年前のあの夜に燃え落ちたはずの旧月家の筆頭。
焼け跡には家族全員の遺灰があったと報告を受けた。
全てを、あの夜に葬り去ったはずだった。
その睦月の秘術をどこかの馬の骨が使っている。
室内に満ちる静寂が、いつまでも重く垂れ込めていた。
☆
「アレは何なの?!」
観客席の片隅で、椅子にしがみつきながら隼斗は呟く。
「報告書にあったのはこれの事だったのかい?」
流星も苦悶の表情を隠せないでいた。
「そうよ。でも、この虹色の羽衣……」
夜道で襲われた時は、薄い膜を腕の周囲に纏っているほどだった。
けれども、今は完全に身体全体を覆う神々しい羽衣だ。
それは睦月家に飾られていた水彩画の女性と同じ姿。
隼斗の脳裏に、あの日の記憶がフラッシュバックする。
あの絵を見上げながら涙を隠さなかったオヤジ。
紅い炎が全てを焼き尽くした雨の夜。
何かを抱えながら言ったオヤジの言葉。
『隼斗。今日、見たことは全て忘れるんだ』
頭の奥が割れるように痛み出す。
「隼斗、大丈夫かい?」
「え、えぇ、大丈夫、あたしは大丈夫よ」
全身を濡らす冷たい汗が止まらない。
隼斗は痛む頭を押さえつつ、舞台の上に視線を戻した。
その先には倒れた六月を、怯えるように見ている洸介の姿があった。
☆
「六月さん……?」
凛の瞳が大きく見開かれた。
闘技場に倒れ伏していた者たちの間からも、声にならないどよめきが漏れる。
六月は呻きながら上体を起こした。
観客席が息を飲む。
その静寂の中で立ち上がった。
洸介の槍が穿った場所は服が破れているだけだ。
虹色の衣を纏った六月には、超音波の悪意は届かなくなっていた。
右手をゆっくりと洸介へと向けた。
(……敵を包み込め)
薄い膜は六月の身体から静かに広がっていき、洸介だけを包み込んで閉じ込める。
膜が揺れる度に、虹色の光が波紋のように揺らいでいた。
風哭の衝撃波は膜に触れた瞬間、まるで水面に触れた波紋のように静かに吸収されて消えていく。
洸介が何かを叫んでいる。
その声は光の膜に阻まれて誰の耳にも届かなかった。
六月は両手で糸を手繰るような仕草を見せた。
それに合わせて光の膜は小さくなっていく。
膜の中で洸介は魔法を撃った。
槍、刃、真空波、暴風をひたすらに撃ち込んだ。
それは糠に釘を打つように、暖簾に腕を押すように、何の効果も得られなかった。
(……何だこの膜は。それよりも呼吸が苦しい)
呆然と立ち尽くす洸介を襲ったのは酸素不足だった。
一分ほどで洸介が倒れると六月は光の膜を解除した。
六月は静かに息をついた。
役目を終えた薄い輝きは空気に溶けるようにして消えていった。
「…………競技終了です」
凛は立ち上がって本戦が終わった事を告げる。
風哭で荒れた闘技場は水を打ったように静まり返っていた。
☆
巌が年齢に似合わない動きで、VIP室から飛び出した。
(まさか睦月の血筋が残っていたとは。絶対に逃がさんぞ、月隠の魔術師!!)
獰猛な笑みを浮かべて、闘技場へ全速力で向かっていた。




