第九話 歩幅を合わせて
【凛視点】
午前六時になる少し前に、目が覚めた。
瞼を開く前から、すでに意識は覚めていた。
幼い頃から繰り返してきた習慣で、身体は時計の針よりも正確な時間を刻んでいる。
空気の微かな冷たさ、まだ夜と朝が混ざり合っているこの時間帯が、わたしにとっての一日の始まりだ。
身体はまだ少し重いような気がする。
けれども、不思議と心は軽かった。
随分と深く眠れたのだろうか。
大きく腕を伸ばして、ベッドから身を起こそうとした。
その時、気が付いた。
着ているのはいつもの寝具ではなく、白いシャツと黒いパンツスーツだった。
横になっているのも、自室の白い天蓋付きベッドではなく、見たことが無い天井の低いシンプルな造りのベッド。
頭の下には氷枕があり、額には下熱シートが貼られていた。
わたしは静かに上体を起こして、部屋の中を見回した。
本棚には、本の代わりに何かのパッケージが立ち並んでいる。低い机の上には、開いたままのノートパソコンと六月さんが眠っていた。
ここは六月さんのマンションだと思い出した。
昨夜の記憶を辿る。
ゲームを眺めながらソファに座っていた。
けれども、その後の記憶がない。
六月さんの部屋にいるという事は、彼がわたしをここまで運んでくれたのだろう。
その事実を思い浮かべると、少しだけ面映ゆく感じる。
見知らぬ場所で目覚めて、なぜこんなにも穏やかな気持ちでいられるのか、わたしには答えが出せなかった。
静かに寝息をたてている六月さんを、起こすわけにはいかない。
音を立てないようにベッドを降りて、乱れた様子を残さないよう丁寧にシーツを整えた。
鏡がないので身だしなみを整える事はできなかったけれど、指先で髪を梳いて姿勢を正す。
それだけで十分だった。
ドアをゆっくりと開けて廊下に出る。
☆
リビングへ続くドアを開けると、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
ソファの上にはコンビニの袋と、開封された氷の袋が無造作に置かれている。
パソコンのテーブルには、解熱シートが開封されたままで放置されていた。
「おはようございます。体調はもう大丈夫ですか?」
後ろから声をかけられて振り返ると、六月さんが眠そうな顔をしながら立っていた。
わたしは背筋を伸ばしたまま一歩を踏み出し、腰を折った。
「六月さん、おはようございます。おかげさまで問題なさそうです。昨夜はご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
「そんな事ないですよ。それより朝食にしますか?」
六月さんはそう言いながら、キッチンの方へ向かおうとする。
「ありがとうございます。でも先に、少しトレーニングをしたいと思います」
「トレーニングですか? 外でするの難しそうですよ」
窓の外を見るとアスファルトはまだ濡れていて、普段わたしが行っている基礎練習は難しそうに思えた。
「……そうですか。それでは室内でできる魔法の基礎練習だけにしますね」
「なら俺も付き合いますよ。ちょうど試したい事があるので」
わたしが少し迷っていると、よいしょと六月さんは向かいに腰を落とした。
向かい合って座ると、この部屋がとても静かだと感じた。
この静寂は、誰もいない早朝の訓練場に少し似ている気がした。
誰かの視線に晒されている感覚がない。
誰かの評価を気にしなくても良い。
光があって、柔らかい空気感があって、向かいに一人の男性がいるだけだった。
わたしにとって、それはとても新鮮だった。
手のひらを胸元まで上げて、水球を作り出す。
いつも通りの動作で、いつも通りの大きさの球が浮かぶ。
五歳の頃から変わらないこの感覚が、手の平の中に出来上がった。
「霜月さんは水属性なんですね。苗字が霜月だからですか?」
「わたしの属性は霜月家由来ではなく、誕生月ですね」
「どちらにしても水属性じゃないんですか?」
六月さんは興味深そうに聞いてくる。
この話は、わたしにとって不名誉な話だというのに。
「旧月家には、その血筋で固有の属性というものが存在します。ですが、わたしの属性は固有の物ではありませんでした」
六月さんの聞き方が純粋な興味からくるものだと分かるから、言葉が自然に続いた。
答えても不利益がないから話す、というのとも少し違う。
この人に聞かれると、隠す理由が思い当たらなくなる。
その感覚がどこからくるのか、わたしにはまだうまく説明できなかった。
「そういうのがあるんですね。水球の魔法が得意なんですか?」
六月さんは、なるほどと頷いた。
「水球は初級の水魔法です。わたしはこの形状でしか、うまく使えないのです」
そう答えながら、わたしは手の中の水球を眺めた。
完璧な球形だった。
歪みのない、揺れのない、美しい球体。
この形だけは誰よりも得意だね、と兄にも言われてきた。
けれど、その言葉がどこか哀れみに似た響きを持っていた事を、わたしは気づいていた。
球形しか作れない水魔術師は、初級から進んでいないとも言える。
「俺、面白い練習方法を考えたんですよ」
六月さんはそう言いながら、人差し指をわたしに向けた。
指先から黒い靄が溢れ出して、ゆっくりと形を変えていく。
目の前に、黒い蝶が現れた。
羽をゆっくりと揺らしながら、空中で静かに舞っている。
わたしは思わず目を細めた。
昨日の訓練場で見た時とは違った魔法の制御だった。
力で押し出しているのではなく、糸を手繰るように魔力を扱っている。
この人がゲー厶の中で見てきた動きを再現しているのだとすれば、イメージが魔法の原型という話が改めて腑に落ちる気がた。
「この蝶に魔法を当ててみてください」
わたしは手のひらの水球を、そのまま黒い蝶へと向けて飛ばした。
蝶に当たった瞬間、水球が消えた。
蝶は揺れもせず、そのままわたしの前を漂い続けている。
「どうしてわたしの魔法が消えて、六月さんの蝶だけ残っているのですか?」
「多分、俺は無属性だと思うんです。昨日、霜月さんに教えてもらった特徴が一致するんですよ」
虚無、消失、空間を司る力。全ての属性に耐性を持つという、特異な属性だ。
「ですが、無属性は魔法の操作が難しいはずで――」
「同じです。イメージできれば全て同じなんです」
その一言が、わたしの中にあった何かを破壊した。
全て同じ。
わたしが十九年間、同じではないと思い続けてきた事を、この人は「同じ」と言った。
教師から教わった魔法の在り方、繰り返しの中で磨く制御力。
それが魔法が上達する唯一の方法だと、ずっと教えられてきた。
この人の魔法には、その種類の匂いが全くない。
あるのはイメージだけだ。
「霜月さん、水であの蝶を作ってみてください」
「それは無理です。六月さんは、あの魔法操作がどれほど高度な事なのか――」
「霜月さん、一度、騙されたと思ってやってみて下さい。別に出来なくても良いじゃないですか」
別に、出来なくても良い。
その言葉が、しばらく胸の中に留まった。
わたしはいつの間にか、出来ない事を許されない場所にいた。
旧月家の名を背負い、名だけの副局長の職に就き、兄の背中を必死に追いかけながら生きてきた。
出来なかった時の空気を、わたしはよく知っている。
沈黙、落胆、失望。
あの空気の中で、わたしは出来なくても良いという発想を、いつの間にか手放していた。
「……やってみます」
わたしは手のひらに水球を作った。
いつもの形、いつもの感触。
目の前では、黒い蝶がゆっくりと羽を揺らしている。
「そうです。昨日見たゲームを思い出してください。水は何にでもなれるんです」
ゲー厶。
水の三態変化しか知らなかったわたしに、色々な変化を教えてくれた。
画面の中で水球が分裂し、氷柱へと変わり、光を受けて砕け散る。
水が形を変えながら走っていく、あの鮮やかな映像。
水は何にでもなれる。
わたしはその言葉を手のひらの球に向けながら、目を細めた。
水が形を変えるとはどういう事か。球が球でなくなる瞬間に何があるのか。
ゲー厶を見た時の記憶を辿る。
まったく関係のない声が、頭の中に過ぎる。
――霜月さんの方が美しいですよ。
水球が勢いよく弾けた。それはもう凄い勢いで。
飛び散った水滴を、黒い蝶が羽を広げて包み込む。
六月さんが扱う魔法は、まさに変幻自在だった。
「しっ、失礼しました。もう一度お願いします」
微笑む六月さん。
動揺を気取られなかったかを確認してから、もう一度手のひらに水を集める。
昨夜のあの言葉は、キーボードから目を離さないまま、ほとんど反射的に出てきた一言だったはずだ。
だから引っかかった。
意図のない言葉は、取り繕えないのだから。
滝行を思い出して無心に戻る。
目の前に、蝶が浮かんでいる。
――水は何にでもなれる。
わたしは蝶を近くで見た事がない。
けれども、その形は知っている。
薄くて、軽くて、広げた翅が羽ばたくたびに空気を揺らす生き物。百科事典の絵ではなく、空気の中を動くものとして想像しようとした。
水球が、ゆっくりと動き始めた。
球体が引き伸ばされ、縁が薄くなり、左右に広がっていく。
完璧な形ではない。本で見た蝶の正確な輪郭ではない。
けれど、それは確かに球ではなかった。
翅のようなものが水でできた。それが一度だけ震える。
「霜月さん、すごいじゃないですか!」
六月さんの声が、どこか遠くに聞こえた。
わたしは手のひらの上の、いびつな形を見ていた。
欠けた翅、歪んだ輪郭、本物には程遠い抽象だった。
それでも、わたしの水が球形以外の何かになっていた。
身体の奥で、何かが動いた。
そう思った時には涙が頬を伝っていた。
いつ目が潤んでいたのか、自分でも分からなかった。
長月さんの暴走を前に何もできなかった無力感なのか、系統魔法が使えない事で感じてきた長年の劣等意識なのか、何が原因なのか分からないまま、涙が止まらなかった。
出来なくても良い、と言ってくれた人の前で、出来てしまったから、余計に。
「六月さんのおかげです。嬉しい」
言葉は、自分でも驚くほど素直に出てきた。
自分の口から「嬉しい」という言葉が出た事に、わたし自身が一番驚いた。
この瞬間、顔が熱いという事だけは、はっきりと認識していた。
☆
わたしが落ち着きを取り戻した頃。
六月さんがオープンサンドを二人分、テーブルに並べた。
蓋のないサンドイッチ、と教えてもらって理解できた。
六月さんは特に何かを勧めるでもなく、ただ自分の分を淡々と食べていた。
その事がかえって気を楽にしてくれた。
一口食べると、濃厚な玉子の味が広がった。
食べながら、今朝の事を断片的に辿った。
ゲー厶の中の水の動き。
指先から蝶が生まれた瞬間の静けさ。
水球が蝶に姿を変えた時の感触。
そのどれもが、わたしの中で始めての経験になった。
インターホンが鳴ったのは、そんな事を考えていた時だった。
「はーい」と返事をしながら六月さんが扉を開ける。
廊下に立っていたのは、いつもの黒いスーツの宮司さんだった。ただ、サングラスの下の目元に薄い影が見えた。
「おはようございます、宮司さん」
六月さんとわたしは、ほぼ同時にそう言っていた。
宮司さんは扉の前で固まった。
その後、ゆっくりとわたし達を交互に見比べる。
「ねえ、あなた達、何かあったの?」
「何もないですよ! 霜月さんからも何か言ってあげてください」
わたしは少しだけ口元を緩めた。
「……内緒です」
一瞬だけ宮司さんのサングラスがズレた。
その場に崩れ落ちそうになっているのを、辛うじて持ち堪えている顔だった。
六月さんも何か言いたそうな表情になっていた。
わたしは小さく笑った。
声には出なかったが、口の端が持ち上がって、そのままなかなか戻らなかった。
宮司さんがさらに疲れた顔になっていた。
☆
三人でマンションを出ると、空は青く晴れ渡っていて、濡れたアスファルトに朝の光が反射している。
昨夜の大雨が嘘のようだった。
通路を歩いていると、行き交う人々が次々と声をかけてきた。
「宮司さん、おはようございます」
「六月くん、今日も早いね」
「霜月副局長、おはようございます」
わたし達に向けられる挨拶は、それぞれ違う色合いを持っていた。
宮司さんへは親しみと少しの緊張が、六月さんへは気軽な声音が、わたしへはどこか畏まった響きが混じっていた。
いつもと同じ朝のはずなのに、今日はその一つ一つが少し違う重さで届く気がした。
数歩後ろを歩く宮司さんが、何か言いたそうにしているのを、わたしは背中で感じていた。
ずっと、わたしの横にいて守ってくれている人だ。
黙っていても彼の戸惑いは伝わってくる。
何に戸惑っているのかは、大体想像はついている。
わたしは、これまでほとんど笑わなかった。
誰かと並んで歩く朝などなかった。
宮司さんは、わたしの変化をどう受け止めればいいか分からないのだろう。
その困惑が、今のわたしには少しだけ温かく感じられた。
前を歩く六月さんの背中を、わたしはしばらく見ていた。
この人は、どんな過去を持っているのだろう。
不思議と知りたいと思った。
それが詮索とは違う感情なのだという事だけは、わたしにも分かった。
それがどんなものなのか、わたしはまだ何も知らない。
分かってるのは、わたしが誰かの過去に興味を持ったのは初めてという事だけだった。




