第八話 焔の記憶
【宮司視点】
タブレットが震えたのは、深夜の十時を少し過ぎた頃のことだった。
机の端に置いた電子タバコが、ほんの微かな温もりを残している。
学術院の夜は静かだ。
街灯一つない暗闇に、窓ガラスを叩きつける雨音だけが規則正しく響いていた。
(……今日も色々あったわ)
特区管理局の業務は多岐に渡る。
魔力回路保持者との接触が終わり、学術院内に蔓延っている不穏因子の排除が主要業務になっていた。
まあ担当するのは、決まって物理的な現場なのだけれど。
あたしは端末の画面に目を走らると、小さく眉を上げた。
(こんな時間に、六月くんが? まさか何かあったのかしら)
身構えながら通話ボタンを押した。
「はあい宮司さんよお。どうしたの? こんな時間に電話だなんて」
あたしは敢えて明るく振る舞う。
「あ、宮司さん。えっと……困った事になりまして」
返ってきた声はしっかりしていた。
緊急事態というよりも、どう言葉を切り出せばいいか迷っているような、困惑しているような声音だった。
「困った事って、どんな?」
数秒の間があった。
「霜月さんが、眠ってしまいまして……」
「…………ん? 凛ちゃんがどうしたって?」
さっきの返事はきっと空耳だ。
あの凛ちゃんが人前で、しかも男性を前にして眠っている姿を想像できない。
「あ、えーと、言葉足らずでしたね。ちょっと俺、混乱しているみたいです。正しくは霜月さんが急に熱を出して、倒れてしまったんです」
あたしは勢いよくソファからずり落ちた。
床に両手をついたまま、しばらくそのままの体勢でいた。
聞いた日本語が理解出来なかった。
凛ちゃんが。熱を出して。倒れて。眠っている。
これが本当なら、凛ちゃんの警護を仰せつかっているあたしの職務怠慢だ。
「……もう一回、ゆっくり言ってみなさい?」
「霜月さんが、俺の家のソファで、熱を出して倒れました。今はベッドで寝ています」
全く同じ答えが返ってきた。
三回とも同じ答えが返ってきたという事は、何かの間違いというわけではなさそうだ。
あたしは床に座ったまま、しばらく天井を見上げた。
これは不味い。
不味いなどという生易しい言葉では到底追いつかない事態だった。
(この時間になって、今日一番の山場を迎えるなんて……)
あたしは床に手をついたまま、強引に頭を切り替えた。
混乱している場合ではない。状況を一つずつ整理する。
まず学術院に車は存在しない。
地下のリニアが唯一の交通手段だが、この時間帯に大雨の降り続ける中、熱が出ている凛ちゃんを家に帰せるわけがない。
ならば六月くんが凛ちゃんを霜月家まで送り届けるのはどうか。これも絶対に無理だ。
凛ちゃんには婚約者がいる。そこへ素性不明の一般人男性が、熱で朦朧とした凛ちゃんを深夜に玄関先まで送り届けようものなら、皐月家はもちろん霜月家からも刺客が飛んでくる。冗談ではなく、本当に。
ではあたしが迎えに行って霜月家へ届けるのはどうか。
これはやりたくない。こんな時間まで凛ちゃんが帰宅出来なかった理由を追及される。おまけに発熱までしているとなれば、詰問はさらに厳しくなるだろう。お館様にどう説明しようと、火に油を注ぐだけだ。どう考えても自殺行為に等しい。
なにより――熱で寝込んでいる凛ちゃんを、夜の大雨の中歩かせるなど論外だった。
そうなると選択肢は一つしかない。
あたしは床から立ち上がって、ソファに座り直した。
「分かったわ。凛ちゃんを貴方の家に泊めてあげて。対外的にはあたしの家に泊まった事にしておくから」
「分かりました。その方が霜月さんのためですね」
即答だった。
「熱、下がりそう?」
「分かりませんが、出来るだけの処置はしました。早く治ってくれると良いんですが……」
「……処置?」
「あ、はい。俺が出来る事って、氷枕を作るくらいですけどね」
この素朴な優しさは六月くんの美点だとは思う。
それでも一つだけ念を押しておかなければならない。
「凛ちゃんは婚約者がいるんだから、絶対に変な事をしたらダメだからね!」
「そうだったんですね。安心して下さい、絶対に何もしませんから」
まさか婚約の事を、知らなかったのか。
考えてみれば当然だ。
一週間前に保護されたばかりの一般人に、旧月家の縁談事情を教える機会などなかった。
それでも、「変な事をしたらダメ」と言われて「そうだったんですね」が返ってくる男というのは、なかなか珍しかった。
普通の感覚を持った男であれば、驚くか動揺するか、せめて言い訳の一つでも出てくるはずだ。
(まあ、六月くんだからね)
そう自分に言い聞かせて、あたしは通話を終えた。
☆
六月に明日の八時に迎えに行くことを伝えて、次に開いたのは別の秘匿回線だった。
コール音が二度鳴ったところで、相手が出る。
「はあい……じゃなかった」
思わず出た言葉に、向こうで短い沈黙があった。
「……お前、誰だ?」
そして、ぶっきらぼうな声が返ってくる。
「悪い、オヤジ。俺だ、俺。隼斗だ」
「どうした。こんな時間に秘匿回線なんて、お前らしくないぞ」
それはそうだ。
こういう形でオヤジに連絡を入れるのは、よほどの事態でなければしない。
あたしは手短に状況を伝えた。
「お館様に伝えて欲しい事があるんだ。今晩、お嬢様を俺のマンションに泊まらせる」
「おい! お前!?」
「間違っても変な事しない。今、熱を出されいてそれどころじゃない。そもそも、そんなリスクを背負いたくないからな」
短く、はっきりと否定する。
「そうか……大事はないのか?」
「おそらく明日には落ち着いてるはずだ。明日の朝、スサノオにはお送りするから安心してくれ」
「頼んだぞ隼斗」
一瞬の沈黙が時間を支配した。
「もう二度と……主家を裏切る事なんてしたくないからな」
「……ああ、分かってる」
それだけ絞り出して、秘匿回線を切った。
☆
静まり返った部屋に、雨音が戻ってきた。
電子タバコをもう一度手に取ろうとして、やめた。
今夜は、もう何もかもが億劫に感じる。
窓の向こうでは今も大雨が降り続けている。
六月くんの部屋では今頃、凛ちゃんが眠っているのだろう。
その傍らで六月くんがどうしているのかは、想像もつかない。
アイス枕でも探しに行っているのか、それとも困惑しながら様子を窺っているのか。
いずれにしても、今夜は冷たい雨の中に彼女を放り出す者はいない。
それだけは良かったと思えた。
ふとした拍子に、さっきのオヤジの言葉が蘇ってきた。
――もう二度と、主家を裏切る事なんてしたくない。
返す言葉が見つからないのは、いつもの事だ。
あたしも同じ気持ちだ、分かっている。
だが親父がその言葉を口にするたびに、胸のどこかに細かい砂が積もっていくような感覚があった。
あたしは大きく首を横に振って、ソファの背もたれに深くもたれかかった。
(……主家、ねえ)
窓を叩きつける雨の音は、土砂降りの中を走る足音と被る。
ふと、ある記憶が脳裏に浮かんだ。
その日は朝から今日みたいに雨が強く降り続いていた。
あたしは玄関ホールに飾られた一枚の水彩画を見上げていた。
絵の中には美しい女性を中心に薄い衣が舞っている。そして優しく誰かを抱きしめるように微笑んでいた。
それは神々しい羽衣を纏った天女に見えた。
その絵画を見上げてオヤジは男泣きをしていた。
「申し訳ございせん。俺は今からお世話になった貴女様のご家族を送らせて頂きます」
あの時期のオヤジは、まるで何かに憑かれたように神経を尖らせていた。
その日の夜、睦月家は歴史から消えて、あたし達は霜月家に移った。
あたしは小さくため息を吐くと、首を横に振った。
日が明けたら六月くんのマンションへ向かう。
それだけを決めて、ソファから立ち上がる。
シャワーを浴びて、今日を洗い流してしまおう、と思いながら。
☆
その夜、あたしは久しぶりに夢を見た。
炎の夢だった。
夜空を焦がすような火の柱が、地の底から湧き上がるように立ち昇っていく。
崩れ落ちる梁の音、炎が古い木を食い尽くす声、染み込んだ何十年分かの記憶ごと焦げていく匂い。
夢というものは普通、輪郭が曖昧で、目が覚めれば半分は忘れているものだ。
だがこの夢だけは違った。
何十年経っても、色も音も匂いも、記憶そのものと寸分変わらない鮮明さで繰り返される。
廊下があった。
長い廊下の奥に、あの絵が掛かっていた。
炎が迫ってくる。
まず廊下の端から、次に壁を伝って、最後に床を舐めながら。
絵の端が、静かに黒く変わっていく。
炎に炙られ、絵は少しずつ歪んでいった。
あたしは、あの時と同じで、その場から動けなかった。
足が地面に縫い付けられたように、一歩が踏み出せない。
ただ、燃え盛る炎の向こうで崩れ落ちる誰かの影だけが、視界の端で揺れていた。
その影が何者なのか、夢の中のあたしは知っていた。
知っていながら、声を上げる事ができなかった。
申し訳ございません
申し訳ございません
申し訳ございません……睦月様
炎の音よりも、その影が脳裏に焼き付いている。
あたしは夜が明けるまで夢の中で謝罪し続けた。
けれど、炎は何も答えてはくれなかった。
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