第六話 雨降って
あたしが目を覚ますと、見慣れない天井が広がっていた。
重い瞼をこじ開けながら、ゆっくりと身体を起こそうとする。
けれども全身にのしかかる倦怠感が、その動きを容赦なく押し留めた。
頭が割れそうなほど痛み、視界の端がぼんやりと歪んで見た。
指先が痺れていて、思うように力が入らない。
室内には消毒液の匂いが仄かに漂っていて、ここが医務室だということはすぐに分かった。
「起きましたか?」
頭上から降ってきたのは、感情の起伏を感じない声だった。
窓から差し込む夕方の光を背に受けたその姿は、影になってよく見えない。
目を細めながら視線を巡らせると、ベッドの脇に霜月凛が立っていた。
(……え、霜月?)
その姿を認識した瞬間、あたしの頭の中でこれまで家族から繰り返し聞かされてきた言葉の数々が、堰を切ったように溢れ出した。
霜月家に対する恨み、つらみ、妬み、そして行き場のない怒り。
序列一位だった睦月家を追い落とし、名門如月家をも取り込み、今や旧月十二家の頂点に立とうとしている一族。
その陰で堕天という烙印を押された、長月家がどれほど惨めな思いをしてきたか、目の前の女は知りもしないのだろう。
物心ついた頃から、大人たちの愚痴と共に刷り込まれてきた恨みだった。
堪えきれなくなった感情が、一気に決壊した。
「貴女が! 貴女達がいたから長月が消えた!!」
あたしは声を張り上げていた。
気がつけば堰を切ったように涙が溢れていた。
体面を取り繕うなんてできるはずがなかった。
「起きましたかって言った? なにそれ? バカにしてるのっ!? 家族を潰した一族があたしの心配なんてしないでよ!!」
「……」
霜月は無言のまま俯いた。
何か言い返すでもなく、ただ静かに立ち尽くしている。
その沈黙が、余計にあたしの神経を逆撫でした。
反論すら返ってこないことが、かえって自分の言葉の虚しさを際立たせているような気がした。
「もう出て行って、ここから出て行ってよ!!」
叩きつけるように叫ぶと、霜月はゆっくりと身を翻す。
そして彼女は無言のまま医務室を出て行った。
扉が静かに閉まる音だけが、やけにはっきりと耳に残った。
一人残されたあたしは、声を殺してシーツに包まった。
(……ううぅ、これからどうすればいいのよぉ)
あたしの嗚咽は静かな医務室に溶けていく。
ぶつけた怒りの分だけ、後には虚しさしか残っていない。
それでも、涙は止まってくれなかった。
☆
俺は廊下の壁に寄りかかりながら、医務室から出てきた霜月さんに声をかけた。
医務室の遮音性は素晴らしく、中で起こっていた事が全く分からない。
「長月さんは?」
「目を覚ましました。倦怠感は数日続くでしょうけど、もう心配しなくても良さそうです」
霜月さんはいつも通りの平坦な声だった。
だが、その声にほんの微かな翳りが混じっているような気がした。表情には出さずとも、中で何かあったのだろうという憶測はできた。
「……それはよかった。ですが霜月さんは大丈夫じゃなさそうですけど……」
霜月さんは驚いたように俺を見た。
これまで感情をあまり見せたことのなかった彼女にしては、珍しい反応だった。
そう思ったのも束の間で、すぐにいつもの無表情の下に隠れていった。
俺は自分の失言に気付いて焦った。
思わず左手で首元を触ってしまう。
「あ、いや、気分を害したんだったら申し訳ない」
「いえ、そんな事は……」
戸惑うような声。
それすらも、俺にとっては初めて聞く霜月さんの声音だった。
言葉を選びかねているような、そんな間があった。
「よかったら少し付き合ってくれませんか?」
口をついて出た言葉に、俺自身が驚いた。
戦々恐々で霜月さんの反応を待つ。
「そう、です……ね」
霜月さんは控えめに、小さく頷いた。
☆
凛を誘っておいて、六月に何か考えがあった訳ではなかった。
二人はスサノオを出てリニアに乗りこんでいた。
霜月家の氷の令嬢を、学術院に住んでいて知らない人間はいない。
周囲から針のような視線を感じ、六月は居心地の悪さに身が縮まる思いだった。
「えーと、俺、友達と遊ぶのって初めてなんですよ」
六月には子供の頃から、友達と遊んだ記憶はほとんどない。
物心ついた頃には児童養護施設で暮らしていた。
高校も専門学校も奨学金で通い、社会人になってからは返済に追われる毎日だった。
遊ぶ時間も、遊ぶ相手も、六月の人生にはなかった。
「……ともだち、ですか」
凛は六月の言葉を無感情に繰り返す。
整った右の眉が少し動いた。
それを六月は不快感と考えた。
「いや、その……知り合いです。失礼しました。俺の勘違いです」
六月は右手で首元を押さえながら、視線を反らす。
「そう……ですか」
二人の間に沈黙が降りた。
数分で駅に着くと、二人並んで歩き出した。
六月は凛の感情が少なからず揺らいでいることだけは、この短い付き合いの中で何となく分かった。
だが、異性との交友関係が皆無に等しい六月には、次にどんな言葉を続ければいいのか、まるで見当がつかない。
しかも、今日の昼食時には大惨事があったばかりだ。
緊張以外の感情など、湧いてくる余地もなかった。
六月は凛の少し前を歩きながら、気の利いた会話の一つも出せずにいた。
廊下に落ちる二人分の足音の間隔だけが、やけに気になった。
少しずつ開いていく距離に気付いて、六月は歩く速度を落とす。
沈黙が気まずくて、ふと今日の実習でのことを口にしていた。
「魔法って、思っていたより簡単でしたね。ゲームの通りにイメージしたらできるとは思いませんでした」
「……簡単ですか? げえむ?」
まるで初めて聞く言葉のような反応が返ってきた。
首を僅かに傾げるその仕草に、六月は思わずまじまじと見返してしまう。
「そうゲームですよ。色々ありますが、俺の場合はパソコンのゲームですね。長月さんの火の玉を覆う事ができたのは、ゲーム内での魔法をイメージしたからなんですよ」
あの時、初動が遅れてしまい、凛が対応できる範囲をとうに超えていた。
そして、六月の魔法操作は、初めて発動させたにしては明らかに鮮やかすぎた。まるで上級魔術師のような。
物心ついた頃から自己鍛錬をしてきた凛にとって、その事実は信じがたいものだった。
日々の積み重ねを何よりも重んじてきた凛からすれば、初日でそれだけの制御を見せた六月に対して大きな興味と少し疑問を抱いていた。
「その、げえむ、というものを見せて頂けませんか?」
普段と変わらない温度の声だった。だが、その整った眉が、ほんのわずかにぴくりと動いた。
その答えに驚いたのは、むしろ六月の方だった。
ゲームは自分の家にしかない。
四年前からハマっているオンラインゲー厶は、学術院に来てから一度は起動したものの、ネットワークエラーで遊べていない。
宮司は学術院のセキュリティで、外部へのアクセスを遮断していると説明していた。
少し悩む六月を、凛は静かに見つめていた。
「私は教師です。」
凛がポツリと呟く。
「六月さんの魔法が偶然なのか、再現できる理論なのか確認したいのです。それが、クラス全員の力になるかもしれません。」
何かを期待するような、そんな空気が、二人の間に漂っている気がした。
急かすでもなく、ただじっと待っているその姿に、六月はどこか気圧されるものを感じた。
「……え、っと、俺の家でしか遊べないんですけど、来ますか?」
「ええ、是非お願いします」
その時、ポツリと雨が六月の頬を濡らす。
「雨だ」
「……十一月は天気が変わりやすくて困りますね」
「それも十一月らしさですよ。マンションはすぐ近くなので走りましょう」
雨脚が急に強くなった。
凛のローファーが滑りそうになる。
「急ぎますよ!」
手を差し出す六月。
凛は躊躇いながらその手をとる。
二人はマンションへ向かって走りだした。
凛の手は驚くほど温かかったが、六月は気付いていなかった。




