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天界を追われたバーテンダー 恩の鎖と最後の神槍  作者: 櫻井克己


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第4章 勝てない剣

BAR VESPERの開店準備は、いつもグラスを磨くことから始まる。


曇りのないグラスは、客の目には当たり前のものだ。曇っていれば気づかれるが、きれいだからといって褒められることは滅多にない。


仕事というのは、大抵そういうものである。


レイは磨き終えたグラスを棚へ戻した。


そのとき、左腕に鈍い痛みが走った。


「……おや」


昨日、台車の軌道を逸らしたときのものだろう。


受け止めてはいない。触れただけのつもりだった。それでも、あれほどの重量が動く方向を変えれば、反作用はある。


袖をまくると、肘の少し下に青痣ができていた。


「美しくありませんねえ」


「何が?」


背後から声がした。


振り返るまでもない。


「女性に無断で店へ入られるという、当店の防犯体制です」


「鍵、開いてたよ」


「仕込み中ですから」


「じゃあ、問題ないでしょ?」


金髪の女性は悪びれた様子もなく、いつものカウンター席に腰を下ろした。


白を基調とした服装に、透き通るような青い瞳。


初めて店へ来たときから、妙に遠慮のない女性だった。


レイは袖を下ろした。


「開店前ですが」


「知ってる」


「それでもいらっしゃる」


「うん」


「なかなか強引なお客様ですね」


「あなたに言われたくないな」


女性は笑った。


しかし、その視線はレイの左腕から離れなかった。


「昨日の怪我?」


「ご覧になっていたでしょう」


「だから聞いてるの」


「少々、筋肉痛のようなものです」


「嘘。痣ができてた」


「おや。随分よく見ていらっしゃる」


レイは冷蔵庫から水を取り出した。


グラスに注ぎ、女性の前へ置く。


「本日のサービスです」


「お水?」


「無料のものほど、気楽に飲めるでしょう」


「ケチ」


「経営者としては最高の褒め言葉ですね」


女性はグラスに口をつけた。


その様子を眺めながら、レイはふと思った。


この女性は、何をしに来ているのだろう。


酒を飲みに来るわけではない。


レイに興味を持っているのは間違いない。だが、単なる好奇心とも思えなかった。


何より、彼女がこちらを見る目には、時折奇妙なものが混じる。


懐かしさに似ていた。


初対面のはずの男に向けるには、不自然な感情だった。


「さて」


レイはカウンターに両手をついた。


「そろそろ教えていただけませんか」


「何を?」


「私を監視するお仕事は、順調ですか?」


女性の手が止まった。


水面が、小さく揺れる。


「……いつから?」


「気づいたのは最初から、と申し上げたいところですが」


レイは微笑んだ。


「そこまで格好をつけても仕方ありませんね。確信したのは昨夜です」


「どうして?」


「人間離れした腕力を見ても、驚き方が少々違いましたから」


女性は黙っていた。


「普通の方なら、警察へ通報するか、逃げるか、せいぜい私の無事を心配する程度でしょう」


「心配したよ」


「ええ。それも存じています」


レイは声を少し落とした。


「ですが、あなたは私の戦い方を観察していた」


女性はグラスを置いた。


「……処断の確認」


「はい?」


「それが私の役目」


今度は、レイが黙った。


「あなたへの処断が完了したか、確認して報告するよう命じられているの」


「なるほど」


レイは頷いた。


「それで毎日、顔を見に来てくださる」


「毎日じゃないよ」


「これは失礼」


「……驚かないの?」


「どうでしょう。少しは驚いているつもりですが」


レイは自分の胸元へ手を当てた。


「こちらでは長く暮らしておりますが、天界からの生存確認サービスを受けるのは初めてです」


「冗談じゃないんだけど」


「私もです」


柔らかな声だった。


だが、女性はそれ以上笑わなかった。


「私は、あなたを殺す役目じゃない」


「でしょうね」


「どうしてわかるの?」


「あなたにそのつもりがあるなら、もっと早く剣を抜いているでしょうから」


女性はレイを見つめた。


「……殺すのは、別の方です」


レイは微笑みを消した。


その言葉だけで十分だった。


別の方。


自分を処断する権限と力を持つ者。


心当たりは一人しかいない。


「それはまた」


レイは小さく息を吐いた。


「厄介な方に目をつけられたものですね」


*


その夜、レイは閉店を少し早めた。


いつもの常連客には、急な用事ができたとだけ伝えた。


最後の客を見送り、店の灯りを落とす。


金髪の女性は、いつの間にか入口の傍に立っていた。


「出かけるの?」


「少々、散歩を」


「こんな時間に?」


「夜に働く者の散歩は、大抵夜になります」


レイは上着を羽織った。


「ご一緒しますか?」


「……いいの?」


「あなたもお仕事でしょう」


女性は答えなかった。


二人は並んで店を出た。


表通りには、まだ人の姿があった。


飲食店から漏れる笑い声。


酔った会社員の足音。


遠くで響く救急車のサイレン。


どれも、この街では珍しくない音だった。


レイは人通りの多い道を避け、細い路地へ入った。


さらに一度曲がり、閉店した事務所ビルの裏手へ出る。


「どうして、こっちなの?」


「昔から、静かな場所が好きでして」


「バーをやってるのに?」


「仕事と趣味は別でしょう」


女性は口を閉じた。


レイも、それ以上は話さなかった。


空気が変わった。


風が止まったわけではない。


車の音も、人の気配も残っている。


それでも、この路地だけが街から切り離されたように感じられた。


レイは立ち止まった。


「随分と久しぶりですね」


路地の奥に、人影が現れた。


長い黒髪。


整いすぎた容貌。


白い衣をまとった女が、音もなく近づいてくる。


足取りに迷いはない。


かつて銀の長槍を折った女。


あの夜から一度も忘れたことのない、神の執行者だった。


「大天使様…」


金髪の女性が、小さく呟いた。


女は一度だけ彼女を見た。


「報告は受けています」


それから、レイへ視線を戻す。


「神性を剥奪された後も、魔の力を身に帯び、神槍の残滓を保持し、裁定への干渉を続けた」


「事情というものは、斟酌していただけないんですかね」


「裁定に、事情は含まれません」


「あの夜の少女にも、ですか」


「すべての対象に、です。一度下った裁定は、記録された事実によってのみ執行されます」


声には、あの夜と変わらぬ抑揚のなさがあった。


「神命により、あなたを処断します」


レイは肩をすくめた。


「もう少し、懐かしい再会の言葉はありませんかね」


「ありません」


「でしょうね」


左手を開く。


黒い影が掌に集まり、一本のトンファーとなった。


それを見た大天使の目が、わずかに細くなる。


「まだ、それを使っているのですね」


「なかなか便利なもので」


レイは黒い柄を握り直した。


「おかげで、仕入れの箱を運ぶのにも重宝しています」


「本来、神の武器であったものを」


「折ったのはあなたでしょう」


大天使は答えなかった。


右手に、光が集まり始める。


細長い光が形を取り、一本の剣になる。


あの夜と同じ長剣だった。


レイは息を吐いた。


「さて」


軽口を叩く声とは裏腹に、左腕が冷たくなっていた。


「今度は逃がしていただけませんかね」


「裁定は下っています」


「ええ。存じていますとも」


剣が振り下ろされた。


*


大天使の身体がわずかに揺れた。


そう認識したときには、すでに刃が目の前にあった。


レイは左足を引き、身体を斜めにする。


黒いトンファーを剣の腹へ滑らせた。


正面からは受けない。


受ければ腕が砕ける。


刃の進む方向へ、わずかに角度を与える。


剣はレイの肩をかすめ、背後のコンクリート壁へ走った。


鋭い亀裂が入る。


衝撃が遅れて腕を襲った。


「……っ」


昨夜の青痣が、熱を持った。


大天使は止まらない。


剣を引く動作さえ見せず、次の斬撃を放つ。


レイは右へ踏み込んだ。


振り切られる前の腕の内側へ入ろうとする。


しかし、大天使はすでに身体を回していた。


読まれている。


レイは咄嗟に身を沈めた。


剣が頭上を通過する。


髪が数本、宙を舞った。


「随分と」


レイは息を整える。


「散髪代を節約してくださいますね」


「戦闘中によく喋りますね」


「商売柄、沈黙が苦手でして」


女の目は揺らがない。


だが、レイは言葉を止めなかった。


剣とトンファーが触れた瞬間の音。


相手が踏み込む直前の呼吸。


視線の向き。


そのわずかな間に、言葉を差し込む。


「こんなところで剣を振り回して、通行人に見られたらどうするおつもりです?」


「対象外の者を傷つけることはありません」


「ええ。あなたはそういう方だ」


レイは半歩下がった。


「ですが、その剣で私だけを斬るのは、案外難しいのでは?」


大天使の剣が止まった。


いや、止まったように見えただけかもしれない。


ほんの一拍。


レイはその隙に後退した。


視線と言葉に混ぜた働きかけは、相手にすでにある感情を強くする。


慎重さ。


使命感。


確実に任務を遂行したいという意思。


しかし、大天使の内側にあるそれらは、とうに揺るぎないものだった。


人間のように恐怖に迷うこともない。


少しだけ判断を遅らせられたとしても、次の行動を変えさせることはできなかった。


剣が再び動く。


今度は突きだった。


レイはトンファーを立て、切っ先の進路を逸らそうとした。


間に合わない。


黒い柄に衝撃が走る。


左腕が痺れた。


指が開きかける。


刃の先端が、レイの肩を浅く裂いた。


熱いものが衣服の下を流れた。


「……なるほど」


レイは後退した。


「本当に、容赦がありませんね」


「必要がありません」


「せめて、少しは私の話を聞いていただきたいものですが」


「聞いています」


「それはどうも」


肩の痛みが遅れて強くなる。


左の握力が落ちていた。


このままでは、次の一撃を逸らせない。


レイは右手を開いた。


淡い銀色の光が掌に集まる。


短い柄。


鋭い穂先。


かつて折られた神槍の、もう一つの欠片。


銀の短槍が右手に現れた。


大天使が初めて、わずかに眉を動かした。


「……それも残していましたか」


「捨てるには惜しかったもので」


レイは笑った。


「なにしろ、由緒正しい品ですから」


大天使は構えを変えない。


「神の武器は、あなたのものではありません」


「そうでしょうね」


レイは黒いトンファーを前に、銀の短槍を腰の横に構えた。


「借り物ばかりの人生で、お恥ずかしい限りです」


大天使が踏み込む。


レイは左のトンファーで斬撃の方向を逸らし、右の短槍を突き出した。


狙いは女の身体ではない。


剣を握る手元。


剣筋を変えるための、最も短い距離だった。


銀の穂先が、神剣に触れる。


甲高い音が響いた。


その刹那。


短槍の根元に刻まれた細い文字が、一つだけ淡く光った。


大天使の視線が、一瞬その文字へ落ちた。


剣と槍の間に、見えない何かが弾ける。


大天使の刃がわずかに跳ね上がった。


レイの身体も反対方向へ押し戻される。


何が起きたのか、わからなかった。


ただ、今まで何をしても揺らがなかった剣の軌道が、初めて明確に乱れた。


レイはその意味を考えなかった。


今は、考えている暇がない。


「失礼!」


レイは地面を蹴った。


大天使からではなく、路地の出口へ向かって。


逃げる。


最初から、それ以外の選択肢はなかった。


*


「待ちなさい!」


金髪の女性が声を上げた。


レイは振り返らない。


路地を抜けると、細い道路に出た。


左手に飲食店の裏口が並び、その先は表通りへ続いていた。


レイは左へ走った。


背後で、靴音がした。


大天使のものではない。


金髪の女性が追ってきている。


「そちらですか」


レイは息を切らしながら呟いた。


彼女は表通りへ先回りしようとしているのだろう。


だが、こちらには裏口が二つあった。


一つは表通りへ抜ける細い通路。


もう一つは、建物の反対側へ回る搬入口だ。


レイは一度、表通りへ向かうように身体を向けた。


金髪の女性が、その先を塞ぐ位置へ走る。


レイは直前で足を止め、搬入口へ折れた。


「えっ?」


女性の声が背後から聞こえた。


「そっちじゃ――」


「申し訳ありません。少々、お急ぎの用事がありまして」


レイは肩越しに答えた。


搬入口には、配送用の台車が並んでいた。


荷物を運ぶ男性とすれ違う。


「すみません、通ります」


男が驚いて振り返った。


レイは狭い通路を抜け、反対側の道へ出た。


そこには人通りがあった。


酔客や駅へ急ぐ人々が行き交っていた。


レイは走る速度を落とし、人々の間を縫うように進んだ。


剣を持つ相手から逃げるために、無関係な人間を巻き込むつもりはなかった。


しかし、大天使が命令を受けていない人間を傷つけられないことは知っている。


それが、この街で生き延びるために使える数少ない条件だった。


路地を二つ抜け、歩道橋を渡る。幾度も追手の視界を切った。


背後を振り返る余裕はない。


左腕が痛む。


左肩も重い。


息が上がり、足が思うように動かなくなってきた。


昔ならもう一度剣を受けられただろう。だが、今は違う。


レイは建物の陰に身を寄せた。


肩で息をする。


通りの向こうを見た。


黒髪の女の姿はない。


金髪の女性も見えなかった。


レイはしばらく動かなかった。


夜風が額の汗を冷やす。


左手の指を、ゆっくり曲げてみる。


痺れは残っていた。


肩の傷からは、まだ血が滲んでいる。


「……いやはや」


レイは壁に背を預けた。


「若い頃のようには、いきませんねえ」


誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。


あの女は神命を忘れない。それでも今夜だけは、追撃を振り切った。


勝ったのではない。生き延びただけだった。


*


翌日。


BAR VESPERでは、開店準備の音がいつもより少なかった。


レイは右手でグラスを磨いていた。


左肩から腕にかけて、鈍い痛みが残っている。


傷は応急処置を済ませたが、腕を上げるだけで顔をしかめそうになる。


「……困りましたね」


棚の上段にグラスを戻そうとした、そのときだった。


「レイ!」


扉が開いた。


金髪の女性が飛び込んでくる。


「生きてた!」


「ご覧のとおり」


レイは笑った。


「ですが、いきなり失礼ですね。まるで死んだ方がよかったように聞こえます」


「そんなこと言ってない!」


女性はカウンターを回り込み、レイの傍へ来た。


左腕を見る。


「怪我してる」


「少々」


「少々じゃないでしょ」


「昨日よりはましですよ」


「……昨日、あれだけ戦ってたのに」


女性は言いかけて、口を閉じた。


「何でしょう」


「あなた、本当に……」


「本当に?」


「……あんなに強いの?」


レイは首を傾げた。


「強そうに見えますか?」


「見えたよ」


女性は即答した。


「大天使様の剣を何度も防いでた。あんなの、普通はできない」


「普通は、やらない方がいいでしょうね」


「そういう意味じゃなくて」


女性は、何かを確かめるようにレイを見た。


そして、右手を上げた。


「ちょっとだけ、いい?」


「何を――」


掌が、レイの胸元へ軽く押し当てられた。


本当に軽い動きだった。


彼女にしてみれば、触れて確かめる程度だったのだろう。


しかし。


「うわっ!」


レイの身体が後方へ吹き飛んだ。


背中が積み上げた段ボール箱へ突っ込む。


箱が崩れ、乾いた音を立てて床に散らばった。


女性が目を見開いた。


「えっ」


床に倒れたレイは、しばらく動かなかった。


「……いてー」


その声は、いつもの優雅な口調からは程遠かった。


「レイ!」


女性が駆け寄る。


「ごめん! そんなつもりじゃ……!」


「……ええ。私も、こんなつもりではありませんでした」


「だ、大丈夫?」


「今のところ、命はあります」


「本当にごめんなさい!」


レイは身体を起こそうとした。


左肩が痛み、顔をしかめる。


女性が慌てて手を差し出した。


レイはその手を見た。


「……今度は、加減してくださいね」


「する! 絶対する!」


手を借りて立ち上がる。


女性は青ざめていた。


「おかしい……」


「そうでしょうか」


「だって、あんなに強かったのに」


「昨日も申し上げたでしょう」


レイは服についた埃を払った。


「重いものを受け止めなければいい、と」


「でも……」


「受け止めれば、私も壊れます」


女性は、レイの左肩を見た。


昨日の傷。


今日、軽く押しただけで吹き飛んだ身体。


それらを見比べて、ようやく理解したようだった。


「……普通の身体なんだ」


「ええ」


レイは頷いた。


「残念ながら、今はただの人間です」


「それなのに、大天使様と戦ったの?」


「戦ったというより、逃げ回ったと言った方が正確でしょうね」


「でも、剣を逸らしてた」


「技術は、身体から消えるわけではありませんので」


レイは微笑んだ。


「もっとも、それを使う腕の方が先に悲鳴を上げますが」


女性は黙り込んだ。


レイは、散らばった段ボール箱を見下ろした。


「さて」


いつもの接客用の笑みを浮かべる。


「お客様」


「……何?」


「当店では、従業員への暴行を禁止しております」


「だから、ごめんってば!」


「それから、店内設備の破損につきましては」


「弁償する!」


「おや。話が早い」


女性は、そこでようやくレイが冗談を言っていることに気づいた。


「もう!」


レイは声を上げて笑った。


しかし、その笑い声は長く続かなかった。


咳き込み、左肩を押さえる。


「……ああ、痛い」


女性はまた慌てた。


「だから無理しないでよ!」


「そうですね。今日ばかりは、少々反省しております」


*


崩れた箱を片づけたあと、女性はカウンターの前に腰を下ろした。


レイは右手でグラスに水を注いだ。


彼女はそれを受け取りながら、まだ浮かない顔をしている。


「ねえ」


「はい」


「あなた、どうしてあんなことをしたの?」


「昨日のことですか?」


「うん」


レイはしばらく黙っていた。


「処断対象だから、という理由では納得されませんか」


「違う」


女性は首を振る。


「逃げることだってできたかもしれないのに、どうして最初にわざわざ会いに行ったの?」


「人の多いところで戦うわけにはいかないでしょう」


「それだけ?」


「ほかに何か必要ですか?」


女性は答えなかった。


レイはグラスを磨く手を止めた。


「あなたは、何か聞きたいことがあるのではありませんか」


女性が顔を上げる。


「……私は」


言いかけたところで、彼女は視線を落とした。


「あなたの処断を確認するように言われている」


「存じています」


「それが、私の役目なの」


「ええ」


レイは穏やかに頷いた。


「ですが、今はお客様でもあります」


「……お客様?」


「少なくとも、この店にいる間は」


女性は目を瞬いた。


「お客様には、飲みたいものを選ぶ自由があります」


レイは棚の瓶を指した。


「もちろん、お話ししたいことを話す自由も」


「話したくないときは?」


「そのときは黙っていても構いません」


女性は小さく笑った。


「変な店」


「よく言われます」


レイはグラスを置いた。


女性は何かを考えるように水面を見つめていた。


レイは、その顔をしばらく眺めた。


大天使が現れたとき、この女性は処断を喜んでいるようには見えなかった。レイはその迷いへ、そっと言葉を重ねた。


「随分と、お疲れのようですね」


「そう?」


「ええ。無理に答えを出そうとなさらなくてもいいのでは」


声の調子を落とす。


視線を合わせる。


彼女の内側にあるかもしれない迷いを、ほんの少し強くする。


それだけの、いつもの働きかけだった。


しかし。


「……何の話?」


女性は、きょとんとしていた。


レイは目を細めた。


「いえ。独り言です」


「変なの」


女性は水を飲んだ。


ためらいも、警戒も強まっていない。


レイは、もう一度だけ試した。


「あなたは、本当に自分の役目に納得しているのですか」


「……納得しているかどうかは関係ないよ。命じられたことだから」


真面目な答えだった。だが、レイの働きかけは何一つ届いていない。


レイは微笑んだ。


「そうですか」


この女性には、何かがある。


それが何なのか、まだわからない。


ただ、少なくとも今の自分の力では、彼女の感情に触れられなかった。


「どうしたの?」


「いえ」


レイは肩をすくめた。


「少々、興味深いことがありまして」


「私の顔に何かついてる?」


「いいえ。とてもお綺麗ですよ」


「……なっ」


女性の頬に赤みが差した。


「そういうこと、急に言わないで!」


「おや。事実を申し上げただけですが」


「だから!」


レイは笑った。


その笑いには、もう何の働きかけも込めていなかった。


女性は顔を背け、グラスの水を飲み干した。


レイは新しい水を注いだ。


そのとき、カウンターの上に置いた自分のスマートフォンが震えた。


瀬尾からだった。


『すみません。相談したいことがあります』


短い文面。


続けて、もう一通。


『白石さんが、職場に連絡してきました』


レイは画面を見つめた。


大天使は、また来る。


白石も、瀬尾を手放すつもりはないらしい。


厄介なことというのは、どうしてこうも重なるのだろう。


「……まったく」


レイは小さく息を吐いた。


「人気商売も、楽ではありませんね」


「何かあったの?」


女性が尋ねる。


レイはスマートフォンを伏せた。


「ええ。少々」


そして、いつもの笑みを浮かべた。


「どうやら、もう一人のお客様にも、私の顔が見たくなった方がいらっしゃるようです」


女性は不思議そうに首を傾げた。


レイは彼女のグラスを見た。


「おかわりはいかがですか?」


「……またお水?」


「本日は特別に、氷を二つお付けします」


「ケチ!」


店に、明るい声が響いた。


昨夜の神剣の音が、嘘だったかのように。


しかし、左肩に残る痛みだけは、何一つ嘘ではなかった。


閉店後、鏡の前で髪をかき上げると、銀白色の根元に黒が混じっていた。


「……また増えましたか」


レイは指を離し、襟元を整えた。


「白髪が減るのは、悪いことばかりではありませんね」


鏡の中の男は、いつもどおりに笑っていた。

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