第5章 明日の靴
レイから返信が届いたとき、瀬尾は靴屋の前にいた。
『仕事が終わったら、いつもの店へどうぞ。今日は軽いものを用意しておきます』
画面を読んで、瀬尾は少しだけ肩の力を抜いた。
店のガラスには、黒い革靴が並んでいる。
仕事で履いている靴は、踵の外側だけがひどくすり減っていた。雨の日には、底から水が染みる。昨日、段ボールを運んでいるときにも、床で一度滑った。
買い替えなくてはと思いながら、ずっと先延ばしにしていた。
ガラス越しに値札を見る。
手が届かない金額ではない。
次の給料が入れば、買えるはずだった。
ただ、今月はまだ少し厳しい。
瀬尾はショーウインドーから目を離し、自分の靴を見下ろした。
昔、靴を買う金がなかったとき、白石が一足用意してくれたことがある。
あれは、本当にありがたかった。
今でも、そのことまで嘘だったとは思いたくない。
スマートフォンが震えた。
白石からではなかった。
それでも瀬尾は、反射的に画面を伏せた。
店先に立っている理由が、急に恥ずかしくなった。
瀬尾は歩き出した。
新しい靴は、また今度だ。
今は、レイに会わなければならなかった。
*
「いらっしゃいませ」
BAR VESPERの扉を開くと、いつもの声がした。
レイはカウンターの内側に立っていた。白いシャツに黒いベスト。相変わらず、少しも疲れを感じさせない格好だった。
ただ、グラスを取る手がいつもと違った。
「……腕、どうかしたんですか」
「おや。今日は皆さん、そこからお入りになるんですね」
「皆さん?」
「いえ、こちらの話です」
レイは右手だけでグラスを持ち、カウンターに置いた。
奥の席には、あの金髪の女性がいる。
彼女は瀬尾を見ると、小さく手を振った。
「こんばんは」
「……どうも」
「ご心配なく。この方は当店の常連です」
「常連って言われるほど来てないけど」
「では、熱心なお客様」
「それもなんか違う」
いつもと変わらないやり取りに、瀬尾はかえって言葉を失った。
自分だけが、昨日からずっと同じところで立ち止まっている気がした。
「お仕事、お疲れさまでした」
レイが椅子を引いた。
「まずは、座ってください」
瀬尾は言われるまま腰を下ろした。
差し出されたのは、ジンジャーエールだった。
「今日は食事もありますよ。仕込みを少々間違えまして」
「またですか」
「なかなか学習能力のない店主でして」
レイは小皿を出した。
温めたパンに、鶏肉と野菜が挟んである。皿の端には、湯気の立つスープも添えられていた。
瀬尾はそれを見つめた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
レイは笑った。
「ただし、食べる前に一つだけ」
瀬尾の指が止まる。
「お代はいただきませんが、食器はご自分で下げてください。肩が少々痛むもので」
「……それくらい、やりますよ」
「助かります」
レイは満足そうに頷いた。
瀬尾はパンを一口かじった。
温かかった。
喉に引っかかっていたものが、少しずつ下りていくようだった。
「それで」
レイは急がせるでもなく尋ねた。
「職場で、何があったんです?」
瀬尾はパンを皿に戻した。
「白石さんから電話があったんです」
「瀬尾さんのスマートフォンではなく?」
「はい。会社の代表番号に」
倉庫の仕事は、ようやく慣れてきたところだった。
派手な仕事ではない。朝、決まった時間に出勤し、伝票を確認し、荷物を運ぶ。終われば報告して帰る。
それだけのことが、瀬尾にはありがたかった。
「事務の人が取り次ごうとしたら、白石さんは名前だけ伝えて、折り返しを頼んだそうです」
「会社は何と?」
「個人的な話なら本人に連絡してほしいって。それで、俺に教えてくれました」
「適切な対応ですね」
「でも、今の職場を知られました」
瀬尾の声が小さくなる。
「知られたら、終わりだと思ってたんです」
レイは否定しなかった。
「白石さんは、昔の俺のことを知っていますから」
「ええ」
「会社に何か言われたら、俺は……」
そこで言葉が途切れた。
瀬尾は両手を膝の上で握った。
「今の仕事、なくしたくないんです」
レイは頷いた。
「それは、よくわかります」
金髪の女性が黙って二人を見ていた。
レイは瀬尾のグラスにジンジャーエールを足した。
「白石さん本人からは?」
「連絡が来ました」
瀬尾はスマートフォンを取り出した。
画面には短い文章が並んでいる。
『元気そうですね』
『新しい仕事も順調なようで安心しました』
『そろそろ、私にも力を貸してもらえませんか』
瀬尾は、最後の一文を指で隠した。
「これだけなら、悪いことは何も書いてないんです」
「そうですね」
「でも、俺にはわかるんです。あの人が言う『力を貸して』って、どういう意味なのか」
レイはスマートフォンに目を落とした。
文字自体は丁寧だった。
その丁寧さが、かえって瀬尾を追い詰めている。
「返信は?」
「してません」
「では、そのままにしておきましょう。消さずに」
「……はい」
「会社へ連絡が来た日時も、覚えているうちに書いておくといい。何かを頼まれたら、すぐ返事をする必要はありません」
「警察に行った方がいいんでしょうか」
「脅しや犯罪への勧誘が続くなら、相談する理由は十分あります。今のところ、まずは支援の担当の方にも連絡しましょう」
「迷惑じゃないですかね」
「相談を受けるのが、その方のお仕事でしょう」
レイは少し首を傾げた。
「私に一人で全部解決しろとおっしゃるなら、それはそれで大変な迷惑ですが」
瀬尾は思わず笑った。
短い笑いだった。
それでも、笑えたことに自分で驚いたようだった。
*
「俺、前にも話しましたよね」
スープが半分ほど減った頃、瀬尾が口を開いた。
「昔、悪いことをしてたって」
「ええ」
「……ちゃんとは言ってませんでした」
レイはグラスを置いた。
瀬尾は、視線を上げなかった。
「運んでたんです。荷物を」
少し間があった。
「中身が、違法な薬だって知ってました」
金髪の女性の表情が変わった。
瀬尾はそれに気づいたようだったが、顔を上げなかった。
「知らずに巻き込まれたんじゃないんです。金が欲しくて、自分で引き受けました」
言い終えてから、瀬尾は唇を噛んだ。
「何に使われるのかも、だいたいわかってた。それでも、俺が使うわけじゃないからって……そういう言い訳をして」
レイは何も言わなかった。
「途中で怖くなりました。やめたら、もう金も入らない。やめるって言い出すのも怖い。でも続けるのも怖くて」
「それで?」
「逃げました。仕事も住むところも失って、どうしようもなくなって」
瀬尾は両手を見た。
「そこに、白石さんが来たんです」
食事と寝場所、働き口。それに、言えなかった過去を聞いても追い払わなかったこと。瀬尾は白石に助けられた日々を語った。
「本当に助かったんです」
瀬尾は言った。
「だから、何でも返しますって言いました。あのときは、本気でそう思ったんです」
「そうでしょうね」
「でも……今になって、できないなんて言うのは」
レイはしばらく考えてから尋ねた。
「白石さんに助けられたことは、嘘だったんですか?」
「違います」
「では、感謝していることも?」
「それも、違います」
「なら、それでいいのでは?」
瀬尾は顔を上げた。
「……それで、いいんですか」
「少なくとも、感謝したことを取り消す必要はありません」
「でも、恩を返さないと」
「返す方法は、白石さんが決めるものですか?」
瀬尾は答えなかった。
レイは続けた。
「あなたが運んだ荷物については、あなた自身に責任があります。そのことは、今ここで何を話しても消えません」
「……はい」
「ですが、その責任を理由に、別の誰かを傷つけなければならないという話にはならないでしょう」
瀬尾は唇を結んだ。
「白石さんを助けたいと思った気持ちまで、間違いだったとは言いませんよ」
レイは声を和らげた。
「ただ、その気持ちを持ち続けるために、もう一度罪を犯す必要はない」
瀬尾の目が赤くなった。
「……俺は、何を返せばいいんでしょう」
「それを、私が決めてしまっては同じことです」
レイは微笑んだ。
「返せるものがあるなら、あなたが考えればいい。返せない要求なら、断る。それだけのことです」
「そんなに簡単に、できませんよ」
「ええ」
レイは素直に頷いた。
「簡単なら、こんなところまで相談にいらっしゃらないでしょうから」
瀬尾は俯いた。
金髪の女性が口を開いた。
「……でも、罪を犯したのは本当なんだよね」
「はい」
「それは、なかったことにはならないよ」
瀬尾の肩が小さく震えた。
レイは彼女を見た。
女性はまっすぐに瀬尾を見ていた。
責めるためだけの声ではなかった。
ただ、そこだけは曖昧にしてはいけないと考えているようだった。
「ええ。なりません」
レイが応じた。
「あなたのおっしゃるとおりです」
女性が少し驚いたように目を開いた。
「だからこそ、私は瀬尾さんに、また罪を重ねてほしくないんですよ」
「……罪を犯した人でも?」
「罪を犯した人だから、次も同じことをするとは限らないでしょう」
レイは瀬尾の方へ視線を戻した。
「昨日のお仕事、どうでした?」
突然話題を変えられ、瀬尾は戸惑った。
「え?」
「失敗はしませんでしたか?」
「……伝票を一枚、間違えました。でも、すぐ確認して直しました」
「そうですか」
「あと、荷物の積み方を教わりました」
「なるほど」
「今日は……今日は、ちゃんと時間どおりに終わりました」
「結構なことです」
レイは頷いた。
「昨日の瀬尾さんは、そういう一日を過ごした。今日も働いて、ここへ来た。それも事実です」
瀬尾は顔を上げなかった。
「昔のことだけで、今日一日がなかったことになるのは、少々もったいないと思いませんか」
しばらく、誰も喋らなかった。
やがて瀬尾が、かすれた声で言った。
「……明日も、仕事に行きたいです」
「ええ」
「来週も」
「はい」
「給料が入ったら、靴を買いたいんです」
レイは瀬尾の足元を見た。
すり減った黒い靴。
何度も磨いた跡だけはあった。
「それはいいですね」
「店で見たんです。黒いやつで、今のより少し丈夫そうなの」
「お似合いになるでしょう」
「まだ買ってないですけど」
「では、その日を楽しみにしておきます」
瀬尾は少し笑った。
「……今度は、自分の金で買います」
レイは、頷くだけにした。
*
瀬尾は店の端で、支援先の担当者に連絡を入れた。
電話はすぐにはつながらなかったが、折り返しを頼む短いメッセージを残した。白石から届いた文面も、削除せずに保存した。
レイはそれを傍で見届けただけだった。
瀬尾が戻ってくると、金髪の女性が尋ねた。
「明日、本当に仕事に行くの?」
「はい」
「怖くない?」
「怖いです」
瀬尾は正直に答えた。
「会社の人に何か言われるかもしれないし、白石さんがまた電話してくるかもしれない。でも、休んだら休んだで、もっと怖くなりそうだから」
女性は黙って聞いていた。
「ちゃんと相談もします。自分一人じゃ、どうにもならないこともあるので」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「……そっか」
その言い方に、いつもの勢いはなかった。
瀬尾は皿とグラスを自分で下げ、レイに礼を言った。
「ごちそうさまでした」
「こちらこそ。片づけのご協力、感謝いたします」
「……普通、逆じゃないですか」
「当店は少々、変わった店ですので」
瀬尾は扉のところで立ち止まった。
「レイさん」
「はい」
「白石さんに会えって言われたら、俺、どうしたらいいですかね」
レイは、しばらく瀬尾を見つめた。
「会いたくないのですか?」
「……今は、会いたくないです」
「では、そう伝えることもできます」
「怒ると思います」
「怒るかもしれませんね」
レイは否定しなかった。
「ですが、相手が怒るかどうかまで、あなたの責任にする必要はありません」
瀬尾は何か言いかけて、やめた。
「……また、連絡してもいいですか」
「もちろん」
レイはいつもの笑みを浮かべた。
「ただし、営業時間内ですと助かります。夜更かしは美容の大敵ですので」
「……夜の店でしょう」
「鋭いご指摘です」
瀬尾はようやく、声を出して笑った。
扉が閉まる。
レイはその音を聞いてから、ゆっくり息を吐いた。
「……あの人、また来るかな」
金髪の女性が訊いた。
「来てくださるといいですね」
「白石って人が、放っておかないんじゃない?」
「でしょうね」
「あなた、何かするつもり?」
「それは、まだ」
レイは左肩をわずかに動かした。
傷が疼く。
彼女はそれを見逃さなかった。いつもなら軽口を返すレイが、ほんのわずかだけ眉を寄せたからだ。
「その体で?」
「なかなか手厳しいですね」
「昨日、段ボールに吹っ飛んだ人に言ってるんだけど」
「おや。そこは忘れていただきたいものです」
女性は笑わなかった。
「ねえ、レイ」
「はい」
「私は……あの人の罪が消えるとは思わない」
「ええ」
「でも、明日も仕事に行きたいって言ったのは、嘘じゃないと思う」
レイは彼女を見た。
その青い瞳は、まっすぐだった。
「そうですね」
「……変かな」
「いいえ」
レイは微笑んだ。
「とても自然な感想だと思いますよ」
女性はグラスに残った水を見つめていた。
それから、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、レイ」
「何でしょう」
「私の名前、まだ聞いてなかったよね?」
「そういえば、そうですね」
「気にならなかったの?」
「お客様のお名前を無理に伺うのは、当店の方針に反しますので」
「……やっぱり変な店」
彼女は小さく笑った。
「サラ」
「はい?」
「私の名前。サラっていうの」
レイは一度だけ目を瞬いた。
それから、いつもの笑みを浮かべた。
「では、改めまして。サラさん」
「うん」
「今後とも、BAR VESPERをご贔屓に」
「……そういうところ、ほんと変だよね」
サラは笑った。
レイも笑った。
名を知っても、謎は残る。天界の監視役で、大天使を敬い、レイの働きかけも受けつけない。それでも今は、瀬尾の明日を気にかけていた。
「さて、サラさん」
「何?」
「今夜は、何をお飲みになります?」
「……お水以外」
「おや。随分と難しいご注文を」
「普通に何かあるでしょ!」
「ありますとも」
レイは棚から小さな瓶を取り出した。
柑橘の香りが、カウンターに広がる。
*
閉店後、レイは瀬尾からの連絡をもう一度読み返していた。
白石の文面は丁寧だった。
直接脅さずとも、今の職場と昔の罪、それに受けた恩を並べれば、瀬尾は怯える。
スマートフォンに、新しい通知が届いた。
瀬尾からだった。
『また連絡が来ました』
その下に、画像が添付されていた。
白石からのメッセージの画面だった。
『明日の仕事が終わったら、以前の倉庫へ来てください』
『難しいことは頼みません。少し力を貸していただくだけです』
『あなたも、恩知らずにはなりたくないでしょう?』
レイは最後の一文を、しばらく見つめた。
恩知らず。
便利な言葉だ。
返せない者を責めるにも、返したつもりの者からさらに奪うにも使える。
レイは瀬尾へ短く返信した。
『今夜は返事をせず、明日の勤務先と支援先に相談してください。私からも一度、お話をしてみます』
送信してから、しばらく考える。
以前の倉庫。
瀬尾が教えてくれた場所だった。
レイは左手を開いた。
何もない掌に、昨夜の衝撃が戻ってくる。
剣を受ければ、この身体は簡単に壊れる。
それでも、明日も誰かの言葉だけで縛られる人間を、黙って見ているつもりはなかった。
「……さて」
レイはスマートフォンを伏せた。
「そろそろ、お礼の品を考えないといけませんね」
誰への、何の礼なのか。
それを口にする者は、店にはもういなかった。
レイは消灯し、BAR VESPERの扉に鍵をかけた。




