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天界を追われたバーテンダー 恩の鎖と最後の神槍  作者: 櫻井克己


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第3章 強すぎる男

 男が腕を振り下ろすより一瞬早く、レイは左足を引いた。


 黒いトンファーの柄を、台車の金属部分へ滑らせる。

 受け止めるのではない。

 倒れていく方向を、ほんの少し変える。


 重い台車はレイの肩をかすめ、壁際の空いた場所へ転がった。

 金属音が路地に響いた。


 レイの左腕に、鈍い衝撃が走る。


「……これは、なかなか」


 レイは一歩退いた。


 男が次の動作に移ろうとしていた。

 力を込めるたび、腕の筋肉が不自然に盛り上がる。

 けれど、皮膚の下で何かが軋むように、指が震えていた。


「まだだ!」


 男が叫ぶ。


「恩を、返さないと……!」


 レイは目を細めた。


「どなたへの恩でしょう」

「白石さんだ!」


 男の拳が振り上がる。


「俺を助けてくれた! 俺には、あの人しか……!」


 レイは踏み込みを半歩ずらした。


 拳が背後の金属柵に当たり、太い支柱が曲がった。


 男が唸り声を上げる。


 レイは左のトンファーで男の手首へ軽く触れ、身体を外へ逃がした。


 男は自分の力に引きずられ、二歩よろめいた。


「痛いでしょう」

「うるさい!」

「そうですか」


 レイは穏やかに頷いた。


「では、痛みの話はやめましょう」


 男は息を荒くしていた。


 その顔にあるのは怒りだけではない。

 恐怖だった。


 止まってしまえば、何かを失う。

 動き続けなければ、見捨てられる。


 その思いが、男を立たせていた。


 レイは、相手の目を見た。


「あなたは、本当に、このまま続けたいのですか」


 男の動きが、わずかに鈍る。


 言葉と視線に、ごく小さな働きかけを重ねる。


 新しい感情を植えつけることはできない。

 人の気持ちを別のものに変えることも。


 ただ、その人の内側にすでにあるものを、少しだけ強くする。


 死にたくない。

 痛いのは嫌だ。

 このままでは壊れてしまう。


 男の中にあったその思いを、レイはそっと拾い上げた。


「……でも」


 男の声が揺れた。


「やめたら、恩を返せない」

「その恩は、命で返さなければならないものですか?」


 男は答えなかった。


「助けてもらったことを、なかったことにする必要はありませんよ」


 レイは続けた。


「ですが、そのために死ぬ必要があるとも思えません」

「……白石さんが」

「ええ」

「白石さんは、俺に期待してる」

「そうでしょうね」


 レイは否定しなかった。


「では、あなたはどうしたいんです?」


 男の拳が震えた。

 いったん上げかけた腕が、止まる。


「……俺は」


 息を吸った。


 それから、かすれた声で言った。


「……もう、やめたい」


 男は拳を下ろした。


 その瞬間、膨れ上がっていた筋肉が元へ戻るように見えた。


 男の膝が折れた。


 レイは、倒れかけた身体を無理に支えようとはしなかった。

 腕も関節も傷んでいる。

 不用意に動かせば、悪化するかもしれない。


「ゆっくり」


 レイは男が身体を横たえられるよう、足元の荷物を除けた。


 男の顔が青ざめていた。


「腕が……」

「今は動かさない方がいいでしょう」


 レイは金髪の女性へ声をかけた。


「救急車をお願いできますか」

「もう呼んだよ」


 彼女は配達員を安全な位置に座らせていた。

 スマートフォンを握る若者は、まだ顔色が悪い。


「警察にも連絡してあります」

「ありがとうございます」


 レイは男の呼吸と意識を確かめた。


「もう、止まっていますよ」


 男は目を閉じた。


「……でも、白石さんに」

「今は、あなたの身体の方が大事でしょう」


 レイは静かに言った。


「白石さんへのお返事は、後で考えても遅くありません」


 男の目から、涙が零れた。


 誰かを脅かした事実は消えない。

 柵も台車も壊れている。

 配達員は、ひどく怖い思いをした。


 それでも、男が自分で攻撃をやめたこともまた、事実だった。


*


 救急隊が到着すると、レイは見た範囲を説明した。


 壊れた柵と台車。

 男の負傷。

 配達員がいた位置。


 白石という名前は耳に残っていたが、負傷者を問い詰める理由にはならなかった。


 警察に事情を伝え、レイは金髪の女性と路地を離れた。


「……すごかった」


 彼女が言った。


「何がでしょう」

「さっきの。普通なら直撃してたよ」

「ええ。私もそう思います」

「それをあんな簡単に……」

「簡単ではありませんよ」


 レイは左腕をさすった。


「とても痛いです」

「……でも、あの人を倒したんでしょ」

「いいえ」


 レイは首を振った。


「止まったのは、あの方ご自身です」

「あなたが何かしたんじゃないの?」

「少しだけ、背中を押したのかもしれません」


 女性は眉を寄せた。


「背中?」

「押す方向を決めたのは、私ではありませんけどね」


 レイは笑った。


「その程度のことですよ」


 女性は納得していない様子だった。


 ふいに、彼女がレイの左腕を見た。


「痛いんでしょ」

「ええ」

「どうして、そんなやり方をするの?」

「相手を壊したくありませんので」

「でも、自分が壊れたら意味ないじゃない」


 レイは、すぐには答えなかった。


「……おっしゃるとおりかもしれませんね」


 女性は驚いたように彼を見た。


 レイは肩をすくめた。


「ですから、次はもう少し上手にやるつもりです」

「またそんなこと言って」


 彼女は顔をしかめた。


 レイは何も言わなかった。


 あの男の力は、異常だった。

 同時に、その身体は力に耐えられていなかった。


 強くなったというより、強くさせられていた。


 誰かの思いに、誰かが付け入っている。


 しかも、あの男が口にした名前には覚えがある。


 白石。


 瀬尾の恩人と、同じ名だった。


「……困りましたね」


 レイは小さく呟いた。


「何が?」

「少々、気になることができまして」


 女性はレイの顔を見た。


「私も、気になってる」

「おや。お気が合いますね」

「そういう意味じゃないよ」


 レイは笑った。


 その笑顔を、女性はしばらく見つめていた。


 路地に残った金属音が、まだ耳の奥に響いていた。

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