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天界を追われたバーテンダー 恩の鎖と最後の神槍  作者: 櫻井克己


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第2章 返せない恩

 瀬尾は朝の始業時間より、少し早く職場へ着いた。

 倉庫の入口で靴底を拭い、出勤の記録をつける。

 昨日教わった伝票の置き場所を確かめる。

 荷物の数を数える。

 それだけのことに、以前ほど時間がかからなくなっていた。


「瀬尾さん、こっちお願いできます?」

「はい」


 返事をして、台車を引く。

 狭い通路を曲がるとき、車輪が段差に引っかかった。

 瀬尾は手を止めて、荷物が崩れないように台車を戻した。

 以前なら、力任せに引いていたかもしれない。

 今は、確かめてから動かす。

 そんなことを、少しずつ覚えている。


 昼休み、支援の担当者へ連絡を入れた。

 仕事は続いていること。

 寝不足ではあるが、出勤に支障はないこと。

 そして、白石という男から連絡があったこと。


『無理に返信せず、届いた内容を保存しておいてください』


 返ってきた言葉を読み、瀬尾は画面を閉じた。

 相談してよかった、と少しだけ思った。


 それでも、白石からの通知を見ると胸が苦しくなる。

 忘れられるはずがない。

 あの人がいなければ、あの頃の自分はどうなっていただろう。


*


 白石に会ったとき、瀬尾には住む場所がなかった。


 働いて得た金を浪費したわけではない。

 金がないから、早く金になる仕事を探していた。

 そうして辿り着いたのが、荷物を運ぶ仕事だった。


 ただの荷運びではないことは、最初からわかっていた。

 それでも瀬尾は、自分で引き受けた。

 金が欲しかった。

 運んだ先で何が起きるのか、考えないようにしていた。


 けれど、いつしか怖くなった。

 仕事を断ることも、続けることも。


 結局、瀬尾は逃げた。

 仕事も住む場所も失って、何日かまともに食事をしていなかった。


 そんなとき、白石が声をかけた。


「大変だったね」


 そう言って、食事を出してくれた。

 数日泊まれる場所を探してくれた。

 働き口を紹介してくれた。


 瀬尾の話を聞いても、顔をしかめなかった。

 何もかも、事実だった。


「ありがとうございます」


 あの日、瀬尾は何度も頭を下げた。


「返せることなら、何でもします」


 そのときの自分は、嘘をついていなかった。


 白石も、嬉しそうに笑っていた。


「そうかい。覚えておくよ」


 瀬尾は、あの笑顔を信じていた。

 今でも、助けられたことを否定したくはない。


 けれど、白石の望むものが、だんだん変わっていった。


 呼ばれれば来る。

 頼まれれば運ぶ。


 以前の仕事と似た話が出たとき、瀬尾は断った。


 白石は声を荒げなかった。

 ただ、寂しそうな顔をした。


「……君も、恩を忘れるのかい」


 あの一言だけで、何日も眠れなくなった。


*


 その前夜、BAR VESPERでは、珍しく女性客が二人並んでいた。


 ひとりは金髪の女性。もうひとりは、仕事帰りによく立ち寄る常連客だった。


「マスター、いつものをお願い」

「かしこまりました。こちらのお客様は?」

「おすすめを」


 レイが差し出したグラスには、氷と黒い炭酸飲料が入っていた。


「コーラ? 子供扱いしないで!」

「おや。ご注文に合わなかったでしょうか」

「……おいしいけど」


 常連客が二人を見比べた。


「ずいぶん仲がいいのね。私にはそんな冗談、言ってくれないのに」

「えっ、そうなの? レイ、ちゃんとこの人にも冗談を言ってあげなよ」

「なかなか難しいご注文ですね」


 女性が吹き出した。サラは不思議そうに首を傾げる。


「……あなた、本当にわからないのね」

「何が?」

「いいわ。今度、女同士で話しましょう」

「うん。ここで?」

「マスターのいないところがいいかしら」

「じゃあ、レイはコーラ係!」

「重要なお役目をありがとうございます」


 今度は二人とも笑った。


 金髪の女性は、常連客が最初に何を気にしていたのかわからないまま、うれしそうに笑っていた。


*


 夕方のBAR VESPERは、開店の準備中だった。


 レイは棚の奥から瓶を取り出し、埃がないか確かめていた。

 その向こうで、金髪の女性がカウンターに頬杖をついている。


「開店前に来るの、癖になりましたか」

「別に」

「それは残念」

「私がいると困る?」

「いえ。美しい女性がおられるのは、店の格が上がりますから」

「……急にそういうこと言う」


 女性は顔を背けた。

 レイは笑い、瓶を戻した。


 最近、この街では妙な噂があった。


 人間離れした力で荷物を持ち上げた男。

 金属の手すりを曲げた男。


 そのどちらも、後になって手や腕をひどく痛めたらしい。


「何だか変な話だよね」


 女性が言った。


「力が強くなるなら、身体も丈夫になるものじゃないの?」

「さて。世の中、そう都合よくできてはおりませんので」

「あなたは知ってるんでしょ」

「何をでしょう」

「こういうこと」


 レイは答えなかった。


 何かを借りれば、代償が生じる。

 誰が払うのかを考えずに借りれば、なおさらだ。


 そのことだけは、よく知っていた。


「見に行くの?」

「少々、気にはなりますね」

「じゃあ、私も行く」

「おや。今日は何もお飲みにならないまま?」

「戻ってから飲めばいいでしょ」

「合理的なご提案です」


*


 夜の路地には、配送用の台車が止まっていた。


 その傍らで、男が一人、息を荒くしていた。

 作業服の袖が裂けている。

 指の関節が腫れ、赤くなっていた。


 少し離れたところでは、荷物を運んでいた若い配達員が、壁に背をつけている。


「頼むから、もうやめてください!」


 配達員が叫んだ。

 男は耳を貸さなかった。


「まだ、足りないんだ」


 低い声だった。


「もっと、やらないと」


 男は台車の取っ手を掴んだ。

 金属が軋む。


 普通なら動かせないほど荷物を積んだ台車が、片側から持ち上がった。


 配達員が顔を覆った。


 金髪の女性が駆け出す。


「こっち!」


 彼女は配達員の腕を引き、安全な場所へ走らせた。


 レイは男の方へ進んだ。


「おや」


 こんなときでも、声は穏やかだった。


「随分と張り切っていらっしゃる」

「邪魔をするな!」


 男が叫んだ。

 台車が大きく傾く。


 男の腕が震え、重い荷物の影が路地を覆った。


 レイは左手を開いた。

 黒い影が集まり、一本のトンファーとなる。


「では」


 レイは一歩、踏み込んだ。


「少しだけ、お手伝いしましょうか」


 台車が傾いた。

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