第1章 BAR VESPER
扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
レイが顔を上げると、仕事帰りらしい男が入口に立っていた。
瀬尾だった。
上着は少しくたびれ、黒い靴は片側の踵だけが減っている。男は店の奥を見回してから、ようやくカウンターへ歩いてきた。
「……まだ、やってますか」
「もちろん。閉店までは、あと少々ありますので」
瀬尾は椅子に腰を下ろした。
「いつもの、いいですか」
「ジンジャーエールですね」
「はい」
バーに来て酒を注文しない客も珍しくはない。
少なくとも、この店では。
レイは氷を落としたグラスを差し出し、瀬尾の前に小皿を置いた。
温めたパンと、鶏肉を使った簡単な料理だった。
「……頼んでませんけど」
「ええ。少々、仕込みを間違えまして」
「またですか」
「困ったものですねえ」
瀬尾はレイの顔を見た。
店主は困っているようには見えなかった。
けれど、せっかくの食事を断る理由も思いつかない。
「いただきます」
「どうぞ」
レイは磨きかけのグラスを手に取った。磨いた表面に、黒と銀、二色に分かれた髪が映った。あの夜に染まった一房は、長い年月を経て、今では頭の半分ほどに広がっている。
店を開いてから、何度も繰り返してきた光景だった。カウンター越しに客が食事をする。
その光景に、特別なことは何もない。
男がここへ来るようになってから、レイは何度か同じ食事を出していた。
男も、何度か同じ礼を言った。
そうしているうちに、瀬尾は少しずつ自分の話をするようになった。
「仕事には、もう慣れましたか」
「まだですね」
瀬尾は苦笑した。
「毎日、教えてもらってばかりで」
「教えてくださる方がいるのは、結構なことですよ」
「……そうですかね」
「ええ。知らないことを知っているふりで通すよりは、ずっと」
瀬尾は食事の手を止めた。
「今日も、伝票を間違えたんです」
「直せましたか」
「はい。先輩が気づいてくれて」
「では、明日は一つ間違えずに済みますね」
「そうだといいんですけど」
瀬尾は照れくさそうに笑った。
レイはその笑い方を、悪くないと思った。
誰かに許しを請うような顔ではない。
ようやく、自分の一日を自分の言葉で話せる人間の顔だった。
またベルが鳴った。
「こんばんは」
金髪の女性が、遠慮なく店へ入ってきた。
白を基調とした服に、透き通った青い瞳。
年齢の見当がつかないというほどではないが、整った顔立ちと軽い足取りには不思議な落ち着きがあった。
「おや。今夜もいらっしゃいましたか」
「来ちゃ駄目?」
「とんでもない。お客様は歓迎いたします」
「本当に?」
「もちろん、お代をいただけるなら」
「ケチ」
「経営者として最高の褒め言葉ですね」
女性はカウンターの端に座り、瀬尾へ小さく会釈した。
瀬尾も頭を下げた。
「お水でよろしいですか」
「まだ何も言ってないよ」
「では、何をお飲みになります?」
女性は考えた。
「……お水」
「承知しました」
レイはごく真面目な顔でグラスを用意した。
瀬尾が吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。
金髪の女性はそれを見逃さなかった。
「笑ったでしょ」
「い、いえ」
「絶対笑った」
「すみません」
「謝らなくてもいいですってば」
「そういえば、何とお呼びしたらいいですか?」
瀬尾が尋ねると、女性は少し目を丸くした。
「サラ。サラでいいよ」
「サラさん、ですね」
「もう、好きに呼んで」
そう言ってから、彼女も少し笑った。
レイは水を差し出した。
「こちらのお客様も、お仕事帰りですか」
「まあ、そんなところ」
「何のお仕事を?」
「……見てる仕事」
「それはまた、随分と幅広いですねえ」
女性は返事をしなかった。
レイも、追及しなかった。
初めて会ったときから、この女性には少し奇妙なところがあった。
客としてやって来るのに、酒には興味がない。
店よりも、レイ本人を観察しているように見える。
しかし、それを不審に思うほどレイは自分の容貌に無頓着でもなかった。
ただ、彼女の目に時折浮かぶ懐かしさだけが、気になった。
「ところで、瀬尾さん」
レイは話を戻した。
「支援の担当の方とは、連絡を取っていますか」
「はい。今週も面談があります」
「それは結構」
金髪の女性が瀬尾を見た。
「……何か、あったの?」
瀬尾の手が止まった。
「昔、ちょっと」
女性は続きを待った。
瀬尾はジンジャーエールを一口飲んだ。
「前は、ちゃんと働いてなくて。よくないこともしました」
「よくないこと?」
「……いろいろです」
レイは彼女に向かって首を振った。
問い詰めない方がいい。
その仕草を見て、女性は口を閉じた。
「でも、今は働いてるんだよね」
「はい」
「それだけで、昔のことが消えるわけじゃないと思うけど」
瀬尾は俯いた。
「……そうですね」
「おっしゃるとおりです」
レイが言った。
女性は少し驚いた顔をした。
「でも、今日働いたことまで消えるわけでもありませんよ」
「……どういうこと?」
「昔の話も、今日の話も、どちらも本当だというだけです」
レイはグラスを磨いた。
「どちらか一方だけで、その人を全部決めてしまうのは、些か早計でしょう」
金髪の女性は考え込んだ。
瀬尾はパンの最後の一口を食べた。
「……そう言ってもらえると、助かります」
「何も免除していませんよ」
レイは微笑んだ。
「私は、あなたが明日も仕事へ行くかどうかを決められる立場ではありませんので」
「……はい」
それでも瀬尾の声は、少しだけ明るかった。
*
店を出る間際、瀬尾の携帯電話が震えた。
画面を見た途端、男の顔から表情が消えた。
レイはグラスを置いた。
「どうかなさいましたか」
「……白石さんです」
その名前を口にするのに、瀬尾は少し時間をかけた。
「恩人なんです。昔、仕事も住む場所もなかったとき、助けてくれた人で」
「そうでしたか」
「本当に世話になったんです」
「ええ」
瀬尾は画面を伏せた。
「でも、今は……あまり、連絡を取りたくなくて」
「取らなくてもよい、という選択もありますよ」
「……そんな簡単じゃないんです」
レイは頷いた。
「でしょうね」
瀬尾は、店を出るのをやめて椅子へ戻った。
スマートフォンが再び震えた。
呼び出しは止まった。
代わりに、短い文章が届く。
『そろそろ、お返しいただきたいのです』
瀬尾はその文面を見つめていた。
レイは何も尋ねなかった。
返事をするかどうかも、瀬尾には決められる。
ただ、その決断を一人で抱える必要まではない。
「瀬尾さん」
レイが言った。
「お困りでしたら、またお話を伺いますよ」
「……いいんですか」
「ええ」
レイは微笑んだ。
「もっとも、飲み物だけは注文していただきますが」
瀬尾は、小さく笑った。
窓の外には、まだ夜の街が広がっていた。
金髪の女性は、二人のやり取りを黙って見つめていた。レイが手首をさすったとき、何かを言いかけて、結局口を閉じた。




