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天界を追われたバーテンダー 恩の鎖と最後の神槍  作者: 櫻井克己


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序章 あの日の剣

寝静まった街に、似つかわしくない金属音が響き渡った。


一度。続けて、もう一度。


ぶつかり合う刃が閃光を散らし、夜の静寂を切り裂いた。


「なぜ止める。自分が何をしているのか、理解しているな」


怒気も疑問もない声だった。


抑揚に乏しく、それが質問なのか、単なる事実の確認なのかさえわからない。


声の主が女であることだけは、辛うじてわかった。


男は少女を背に庇いながら、事もなげに答えた。


「こんな年端もいかない女の子が、何をしたっていうんです? 何も殺さなくたっていいでしょうに」


軽口を叩くような口調だった。


だが、その目は少女と路地の出口までの距離を測っていた。


十数歩。


少女の足なら、走っても数秒はかかる。


その数秒を稼ぐことさえ、容易ではなかった。


何しろ、技量の差は圧倒的だった。


女の姿が消えた。


そう錯覚した瞬間には、もう目の前に立っていた。


大上段からの一撃。


受ければ槍ごと断たれる。いや、自分どころか背後の少女まで真っ二つだろう。


男は長槍を掲げた。


刃と柄が噛み合う、その寸前。


槍をわずかに寝かせ、剣の勢いを横へ逃がした。


凄まじい衝撃が腕を伝う。


まともに受ければ、腕ごと持っていかれていた。


男は女の体勢が崩れることを期待した。


わずかでも隙ができれば、牽制を入れて少女を逃がせる。


だが、女の重心は揺らがない。


返す刃が、今度は横薙ぎに襲いかかった。


「……っ!」


槍の石突きを下げ、刃の軌道を逸らす。


それでも勢いを殺しきれなかった。


足が滑り、背後の少女に激突する。


「すまない、大丈夫か!」


振り返った男は、思わず息を呑んだ。


少女は逃げようともしていなかった。


それどころか、胸の前で両手の指を組み、女をじっと見つめている。


まるで祈りを捧げるように。


神の裁定を、誇りをもって受け入れようとしているのか。


あるいは、逆らうことなど思いつきもしないのか。


「逃げろ!」


男が叫んだ。


それでも少女は動かなかった。


黒い瞳が、まっすぐに女を見つめている。


「……チッ」


男は舌打ちした。


神の裁きが絶対だというのなら、この子は自分が殺されることさえ正しいと信じているのかもしれない。


だが、それはこの子が選んだことなのだろうか。


男は長槍を握り直した。


柄に、残された力を注ぎ込む。


空気が変わった。


男を中心に、目には見えない何かが膨れ上がる。


長槍の根元に刻まれていた文字が、一つ、また一つと光を帯びた。


光は柄を這い、穂先へと駆け上がる。


その輝きに、女が初めてわずかに目を細めた。


「少女一人、見逃してもらえませんかね。あの子が罪を犯したわけじゃないでしょう」


「裁定は下っている」


「でしょうね。あんたなら、そう言うと思いましたよ」


男は笑った。


「だったら、この槍はお返しします!」


言い終わるより早く、長槍を投げ放った。


銀の穂先が一直線に女へ向かう。


必中の名を持つ神槍。その力を今の男がどこまで引き出せるかはわからない。それでも、残された最大の一撃だった。


この一撃で倒せるとは思わない。


だが、受け止めるなり避けるなり、ほんの一瞬でも足を止められればいい。


その隙に少女を逃がす。


しかし。


女は避けなかった。


光り輝く長剣を、ただ一度薙ぎ払った。


それだけだった。


銀の軌跡が折れ曲がる。


伝説の槍は女に届くことなく、夜の闇へと弾き飛ばされた。


「……冗談でしょう」


男の膝が揺らいだ。


当然だった。


残る力のすべてを、今の一投に込めていた。


それでも、槍は届かなかった。


女が一歩踏み出す。


男は少女の前から退かなかった。


弾かれた長槍が、銀の光を引きながら戻ってくる。


男はそれを掴んだ。


だが、握り直すのが精一杯だった。


女の剣が振り下ろされる。


再び、神槍で受ける。


鋭い音がした。


今までの剣戟とは違う、何かが砕ける音。


長槍が折れた。


衝撃で男の身体が宙に浮く。


背後の少女を巻き込みながら、二人は路面へ叩きつけられた。


肺から空気が押し出される。


立ち上がろうとしても、腕に力が入らない。


女はゆっくりと近づいてくる。


その右手には、なお光を放つ長剣が握られていた。


男は少女を探した。


すぐ傍らで、小さな身体がうずくまっていた。


まだ息はある。


だが、もう一撃を防ぐ力は残っていなかった。


その時だった。


「なかなか楽しそうなことをしているな」


路地の出口から声がした。


黒いコートを羽織った男が、こちらへ歩いてくる。


両手をポケットに突っ込んだまま、散歩の途中にでも立ち寄ったような足取りだった。


街灯の光が届いているはずなのに、男の顔だけが妙に暗い。


黒い。


ただ、そうとしか言いようがなかった。


まるで夜そのものが、人の形を借りて歩いてきたようだった。


少女が身を強張らせた。


今まで神の刃を前にしても動かなかったその身体が、初めてはっきりと震えていた。


女の足が止まる。


「……何者です」


黒い男は答えなかった。


代わりに、倒れている男を見下ろす。


「助けてやろうか?」


まるで散歩にでも誘うような口調だった。


男は申し出の意味を悟った。目の前の相手が、何の見返りもなく助けるはずはない。


それでも、少女が生き延びる道があるのなら、代償を承知で借りをつくると決めた。


「彼女を逃がしてくれ!」


「それは自分でやってくれ」


「は?」


「俺が助けると言ったのは、あんただ」


黒い男は愉快そうに笑った。


それから、路面に転がった折れた長槍へ目を向ける。


銀の穂先を残した一片と、柄の側の一片。


黒い男は柄の方を左手で拾い上げた。


「ほう」


何かを見つけたように、唇の端を吊り上げる。


「面白いものを持ってるじゃないか」


その指が槍の断面をなぞった。


途端に、銀色だった柄が黒く染まり始めた。


墨を流し込んだような色が、根元から先端へ広がっていく。


やがて柄の一部が折れ曲がり、直角に伸びた握りが現れた。


黒いトンファー。


もはや、先ほどまでの神槍の面影はほとんどなかった。


「ほらよ」


黒い男が、それを放ってよこした。


反射的に左手で受け取る。


ずしりとした重みが掌に残った。


「こいつは……」


「使い方くらい、わかるだろ?」


男が答えるより早く、黒いコートが翻った。


「あとは自分で何とかしな」


「待て! あんたは――」


「貸しはいずれな」


黒い男は笑った。


「忘れるなよ。印は残した」


こめかみを、冷たい指でなぞられたような感覚が走った。銀の髪の一房が、墨を落としたように黒く染まる。


それだけ告げて、路地の闇へ消えていった。


まるで最初から、そこには誰もいなかったかのように。


男は手の中の武器を見下ろした。


黒く変わった神槍の片割れ。


その向こうでは、女が長剣を構えたまま立っている。


何が起きたのか、理解できなかった。


しかし、一つだけ確かなことがあった。


まだ終わっていない。


男はトンファーを支えに身体を起こした。


「……まったく」


乾いた笑いが漏れた。


「とんでもない拾い物をしましたね」


その時、路地の出口から足音が聞こえた。


一人ではない。


仕事帰りらしい男女が数人、こちらへ向かってくる。


「何の音だ?」


「おい、誰か倒れてるぞ!」


男は目を見開いた。


この時間、この路地を人が通ることは滅多にない。


偶然だろうか。


それとも。


先ほどの黒い男が消えた方向へ、視線を走らせる。


だが、そこにはもう何もなかった。


女が動いた。


通行人の方へ向きかけ、その足を止める。


神剣の先がわずかに下がった。


男はその一瞬を見逃さなかった。


「今だ!」


少女の肩を押す。


「そこの人たちと一緒に逃げろ!」


「でも……」


初めて少女の声を聞いた。


小さく、か細い声だった。


「いいから、行け!」


少女は男を見上げた。


何かを言いたそうに唇が動く。


それでも、今度は走り出した。


よろめきながら路地の出口へ向かう。


駆け寄ってきた女性が、少女の肩を抱き寄せた。


「大丈夫? どうしたの、こんなところで」


少女は答えない。


ただ一度だけ振り返った。


黒い瞳が男を捉える。


その顔に浮かんでいたものが何なのか、男にはわからなかった。


少女は女性に手を引かれ、ほかの通行人たちとともに路地を離れていった。


女は追わなかった。


いや、追えなかったのかもしれない。


男には、その違いさえわからなかった。


ただ、少女の小さな背中が見えなくなるまで、黒い武器を手放さずにいた。


「……逃がしましたね」


女の声がした。


「おかげさまで」


男は笑おうとした。


しかし、うまく口元が動かなかった。


女の右手から、長剣が消える。


「神性を剥奪します」


冷たい声だった。


いや、初めからそこに感情などなかったのかもしれない。


「裁定は、追って伝えられるでしょう」


男は何か言い返そうとした。


だが、声が出なかった。


身体の奥から、何かが引き抜かれていく。


自分を自分たらしめていたもの。


いつしか自分の一部だと思っていた力が、音もなく消えていく。


膝が折れた。


掌から、黒いトンファーが滑り落ちる。


その向こうで、折れた神槍の銀の穂先が、街灯の光を鈍く返していた。


やがて穂先が淡く光り、輪郭を失った。次の瞬間には、路面から姿を消していた。


そういえば、あの黒い男は何と言っただろう。


貸しはいずれな。


男は薄れゆく意識の中で、苦笑した。


少女一人を逃がすために、神槍を失った。


神性まで奪われた。


そのうえ、今度は悪魔に借りまで作ってしまったらしい。


何とも、高くつく人助けだった。


それでも。


あの少女は、まだ生きている。


そのことだけを確かめるように、男は一度だけ目を閉じた。


やがて、意識は深い闇へと沈んでいった。

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