第八話 怖くない場所
国境を越えてから、二日後の午後。
俺たちは、ヴォルドハルト侯爵領に入った。
最初に気づいたのは、道の両側に広がる畑だった。
ガルディアの農村も、貧しいわけではなかった。でも、ここの畑は、質が違った。麦の背丈がきれいに揃っていて、水路が丁寧に整備されている。畑で働いている農民たちが、通りかかった俺たちを見て、軽く頭を下げてくる。
旅人に頭を下げる習慣があるということは、それだけ、日々の暮らしに余裕があるということだ。俺は、そう感じた。
街に入ると、その違いは、もっとはっきりした。
市場が立っていて、商人が大きな声で客を呼び込んでいる。子供たちが、通りを駆け回っている。露店の品揃えは豊富で、食材はどれも新鮮そうだった。建物の壁はきちんと補修されていて、街灯の台座も新しい。
細かいことだけれど、全体として、この街は「ちゃんと機能している」という印象を受けた。
「いい街ですね」
俺が言うと、レイアは、短く「父が長く治めている」と答えた。それ以上の説明はしなかったけれど、俺には、それで十分だった。
この街を治めている人が、どういう人なのか。街を見れば、少しだけ分かる気がした。
◇
侯爵の屋敷は、街の中心から少し北、緩やかな丘の上にあった。
石造りの門、手入れの行き届いた庭、控えめだけれど品のある外観。派手さはないけれど、長い年月を経てきた、堅牢な建物だった。
門の前で、一人の老人が出迎えた。六十代くらいだろうか。姿勢がよく、穏やかな表情をしている。執事のようだった。
「お帰りなさいませ、レイア様。ご無事で何よりでございます」
「ただいま、セバン。父はいるか」
「はい、書斎におられます。お連れの方は?」
レイアが、俺を見た。俺は、慌てて馬から降りた。
「アルヴェインに同行してもらった。名前はアイン。付与魔法師だ」
「承りました。お部屋の用意をいたします」
セバンと呼ばれた執事は、一礼して、俺を見た。値踏みするような視線ではなく、ただ、静かに確認するような目だった。
「アイン様、ようこそヴォルドハルト邸へ。何かご不便がございましたら、何なりとお申し付けください」
「……ありがとうございます」
アイン様。
そう呼ばれたのは、生まれて初めてだった。「様」という言葉が、自分に向けられていることに、俺は違和感を覚えた。三年間、俺は「荷物番」か、せいぜい「アイン」としか呼ばれてこなかった。
屋敷の中に通されると、廊下の広さと天井の高さに、少し圧倒された。王都の大きな建物とは違う、生活感のある広さだった。人が、ちゃんと暮らしている場所の広さ、とでも言えばいいのだろうか。
通された部屋は、二階の客間だった。窓から、街が見えた。日が傾きかけていて、街の石畳が、橙色に染まっていた。
俺は、しばらく、その景色を眺めていた。
ここが、俺のいていい場所なのかどうか、まだ分からなかった。でも、少なくとも、今夜は寝る場所がある。明日のことを考える余裕がある。それだけで、昨日までとは、ずいぶん違った。
◇
夕食は、食堂で、レイアと二人だった。
侯爵は、今夜は書斎で食事を取るのだという。明日、俺に会うと言っているらしい。
「緊張するか」
レイアが、スープを飲みながら聞いた。
「します」
「正直でいい。父は、正直な人間を好む」
「どんな話を、するんですか」
「あなたのことを聞く。どこから来て、何ができて、これからどうしたいか。それだけだ」
「これからどうしたいか、が、一番答えにくいですね」
「分からなければ、分からないと言え。それも正直さだ」
俺は、スープを一口飲んだ。温かかった。食材がいいのか、味付けがシンプルなのに、深い味がした。
「レイアは、こういう仕事ばかりしてるんですか。外交交渉とか」
「冒険者の仕事もある。本職は、そちらだ」
「両方、やるんですか」
「侯爵家の嫡女という立場と、S級冒険者という立場が、両方ある。使い分けている」
S級冒険者。
その言葉に、俺は改めて、この人がどれだけすごい人間なのかを実感した。S級というのは、冒険者の最高位だ。国に数えるほどしかいない。あの野盗を三分で片付けた強さも、当然だった。
「大変じゃ、ないですか」
「慣れた」
それだけだった。
俺は、その答えに、何か聞いてはいけないものに触れた気がして、次の話題を探した。
「明日の測定、楽しみにしてていいですか」
俺が言うと、レイアは、珍しく、少しだけ笑った。
「ぜひ」
その笑顔を見て、俺は思った。この人は、笑うと、こういう顔になるのか。
いつもは表情の少ない人だけれど、笑うと、少しだけ、年相応の顔になる。それが、なんだか、意外だった。
俺は、その笑顔を、もう少し見ていたい気がした。
でも、そんなことを考えている自分に気づいて、俺は慌ててスープに視線を戻した。
◇
その夜、俺は、なかなか寝つけなかった。
明日、俺は測定を受ける。
三年間「効果不明」だった俺のエンチャントが、ちゃんとした測定器で、初めて測られる。
もし、何かが出たら。もし、レイアの言う通り、俺の力が本物だと証明されたら。
俺の人生は、変わるのかもしれない。
でも、もし何も出なかったら。
俺は、また、行き場を失う。今度こそ、本当に。
どっちに転ぶのか。俺には、分からなかった。
ベッドの中で、俺は、母の護符を握りしめた。手のひらの中で、その小さな石が、少しだけ温かく感じた。
母さん。俺は、明日、自分の力を、初めて知る。
いい結果でも、悪い結果でも、俺はそれを受け止めるよ。
そう心の中でつぶやいて、俺は、目を閉じた。
窓の外では、アルヴェインの街の灯りが、静かに揺れていた。
三年間過ごしたガルディアとは、違う街の灯りだった。
でも、不思議と。
この街の灯りのほうが、俺には、温かく見えた。




