第二十話 守る
ガルディアからの使者の件が片付いてから、屋敷は何事もなかったように静かだった。
俺には、侯爵からの指示で、詳細は伏せられていた。外交上の動きについては、知らせすぎないほうがいいという判断だった。
俺は、その判断を知らないので、普段通りの日々を過ごしていた。
朝、食事を取る。師団に週一回出向く。カサル翁のところに時々顔を出す。レイアと中庭で話す。それが日課になっていた。
この日の昼下がり、俺はレイアと、次の依頼の話をしていた。
「第九層に挑む前に、一度ルートを確認したい。地図を見せてもらえるか」
「第九層まで行くんですか」
「八層は突破した。次がある」
「レイアは、上限がないですよね。目標に」
「あなたも同じだろう」
「俺は……ないかもしれない。今まで、目標を持つ余裕がなかったので」
「今は持てるか」
俺は、少し考えた。
「持てる気がします。今は」
レイアが地図を広げた。二人で、ダンジョンの図を見ながら、第九層のルートについて話し合った。どこで大型魔物と遭遇する可能性があるか、どこで休憩できるか、想定される戦闘の形。
俺は、地図を見ながら、ふと思った。
ここにいていいのかもしれない。
「いていいのか」という疑問ではなく、「いていいのかもしれない」という、少し重心の落ちた言葉として。
三年間、自分がどこかに属している感覚がなかった。ガルディアのギルドにいても、「いてもいなくても同じ場所」に、俺はいた。でも今は違う。今日ここで、地図を見ながらレイアと話していることが、自然だった。
「何を考えていた」
レイアが聞いた。
「ここにいてもいいのかもしれない、と思っていました」
「また同じ問いか」
「違います。今回は疑問じゃないです。そうかもしれない、という感じで」
レイアが、少し間を置いた。
「……成長したな」
「笑いごとみたいに言わなくていいです」
「笑っていない」
確かに、笑っていなかった。むしろ、どこか真面目な顔をしていた。
◇
その夜、レイアは父の書斎に呼ばれた。
俺は、そのことを知らない。自室で、翌日の師団同行の準備をしていた。
書斎では、ライナードとレイア、そして執事のセバンが、深刻な話をしていた。
「ガルディアから、正式な外交文書が届いた」
ライナードが言った。
「予測通り、非公式の打診が却下されたことで、公式ルートに切り替えてきた。内容は、アインの返還要求だ」
「返答は」
「当然、拒否する。ただし、拒否の声明を出す必要がある。侯爵家として、そして王国として、立場を明確にする必要がある」
ライナードが、娘を見た。
「レイア。お前に一つ、確認したい」
「なんですか」
「あの男を、どう思っている」
レイアは、すぐには答えなかった。
「レイア」
「……厄介なことになったと思っています」
「そうか」
ライナードが、静かに言った。
「お前が、誰かのためにそういう顔をするのを、初めて見た」
「父上」
「いい。ただ、確認したかった」
ライナードが、書類に視線を戻した。
「あの男を守れ。お前の判断で動いていい」
レイアは、短く「はい」と答えて、書斎を出た。
◇
翌朝、ガルディアからの公式文書への対応が、正式に決まった。
ライナード、レイア、そしてセバンの三人が、書斎で話し合った。俺は、その時間、自室で準備をしていた。
廊下を通る際、書斎の扉が薄く開いていた。中の声が、漏れていた。
俺は、聞くつもりではなかった。
ただ、足が止まった。
「アインは私が守る。それだけだ」
レイアの声だった。
議論の途中の、ある一文だけが、廊下に漏れてきた。他の文脈は聞こえなかった。
俺は、動けなかった。
守る、という言葉を、自分のために使われたのは、初めてだった。
二十年間生きてきて、初めてだった。
三年間、ガルディアで、誰も俺を守らなかった。エランは俺を陥れ、ギルドマスターは俺を見捨て、仲間は誰一人、声をかけなかった。処分の日、誰も扉を開けなかった。城門の外で、俺は一人だった。
なのに、今。
この屋敷で、一人の女が、俺のために「守る」と言っている。
廊下に立ったまま、俺は、しばらく動けなかった。
胸の奥に、何かが落ちてきた。
温かいものが、じわじわと、広がった。
足音が近づいてくる気配があって、俺は慌てて、自室の方向へ歩いた。
部屋に戻り、扉を閉め、ベッドに腰を下ろした。
俺は、自分の手を見た。
いつもそこに、何かが流れていく感覚がある。誰かに向かって、何かが出続けていく感覚。
その感覚が今、どこを向いているか。
俺には、分かる気がした。
レイアだ。
俺が今、一番強く付与をかけているのは、間違いなく、レイアだった。
カサル翁が言っていた。付与は、相手をよく知るほど深くなる、と。相手を思う気持ちが、付与の密度に出るのかもしれない、と。
だとすれば、俺は。
俺は、レイアのことを――。
そこまで考えて、俺は、顔を伏せた。
まだ、言葉にするのは、早い気がした。でも、その気持ちの輪郭が、少しずつ、はっきりしてきていた。
守る、と言ってくれた。
あの一言だけで、俺は、この人のためなら何でもできると思った。
眠れない夜になりそうだった。
でも、今夜の眠れなさは、不安からではなかった。
全く別の種類の、眠れなさだった。
◇
数日後、アルヴェイン王国は、ガルディアの返還要求に対して、正式な拒否声明を出した。
侯爵家の名において、そして、レイア個人の名において。
声明の内容は、シンプルだった。
アインは、レイアの判断でアルヴェインに来た。冤罪を目撃したレイアが、自らの意志で連れてきた。その判断を、レイアは正しいと信じており、撤回する理由がない。アインの身柄について、いかなる外交的要求も受け入れない。
ガルディアが、これをどう受け取るかは、向こうの問題だった。
こうして、ガルディアとの最初の攻防は、アルヴェインの完全な勝利で幕を閉じた。
俺を追放した国が、俺を返せと頭を下げ、それを、俺を拾った国が、突っぱねた。
三年間、荷物番だった俺を巡って、二つの国が動いていた。
その事実を、俺は、まだ完全には飲み込めずにいた。
でも、一つだけ、はっきりしていることがあった。
俺には、守ってくれる人がいる。
もう、一人じゃなかった。




