告白
私は家を出て走った。
まだ時間が経っていないから、あっという間に目当ての人は見つかって、呼び止めるために私は声を出した。
「野上くん!」
その声に足を止めた。振り返って驚いた顔をする。
「あれ、どうしたの?」
私は彼の隣で立ち止まって、息を整える。
「送るよ」
「え、でも」
送る、というほど遠くもない。遅い時間でも、わかりにくい道でもない。
戸惑ったような彼に、だけど私は首を振った。
「今日はあんまり話せなかったから。もう少し、一緒にいたい」
言っている途中で、野上楓が驚いた顔をした。
それで自分がかなり思い切ったことを言っていることがわかった。
だから恥ずかしくなって、途中から声が弱くなった。
「いや、親も喜んでたし、そのお礼もちゃんと言いたかったし、それに」
「僕も、もっと話したかった」
私が言い訳のように言葉をつなげていたら、野上楓がそれに被せるように言って、そしてとても自然に私の手を取った。
「じゃあ、行こう」
まだ明るい夕方の時間にゆっくり二人で並んで歩く。いつも家の中で会うばかりだったから、こうして一緒に歩くのもとても新鮮だ。
「今日、緊張した?」
そう聞いたら、即座に頷いた。
「もちろん」
「落ち着いていたから、そんな風に見えなかった」
私の言葉に野上楓は苦笑いした。
「好きな子の親に会うのに、緊張しない人はいないよ」
それを聞いて、胸が大きく鳴った。
「そう、か」
「そうだよ」
野上楓はそう言って、繋いだ手に力を込めた。
駅までは近いからあっという間にたどり着いてしまった。駅前の小さな公園で子供達が遊んだり、犬が散歩している。私達は手を繋いだまま、端の空いているベンチに座った。
「今日、ありがとう」
「うん?」
私は野上楓の顔を見上げた。
「お父さんもお母さんも喜んでたし、本当に来てくれてありがとう」
「喜んでくれてたなら、よかった」
一度息を吸って呼吸を整えてから、私は口を開いた。
「ピアノも、ありがとう」
野上楓は驚いたように目を丸くした。
「一緒に弾いてくれてありがとう」
「僕も弾きたかったし」
そう言って笑うと、空を見上げた。次は何を一緒に弾こうか、と呟いた。
私は繋いだ手をぎゅっと握った。
「私、ずっとピアノを弾いていなかったの」
ぽつりと話し始めた私を野上楓は驚いた顔をして見つめた。
昔の話をしたのは初めてだった。
不思議と私たちは、大学よりも前の話をしたことがなかった。私も、野上楓もしなかった。
綺麗に、その話を避けていた。
この間ふと思った。
それは、この人がその理由を知っているからではないかと思った。
多分何かを察して、そのままにしてくれたのだと思う。
それはこの人の優しさだけれど、だけど、これから私たちが一緒にいるのなら、この話を避けられないと思う。
私は視線を下げた。その先で、私と野上楓の影が、並んで長く伸びていた。
「昔は本当にピアノが上手かったんだよ。コンクールで優勝した事もあったし。だけどね、色々あって辞めちゃったの。ずっと弾いていなかったの。多分……弾くのが怖かったんだと思う」
あの時の私はあんなにはっきりと負けたことがなかった。
負けたことがショックで、きっとまた負けることが怖くて辞めたのだ。
自分の弱さを彼のせいにしていただけだ。
なんでもないように話したけれど、やっぱり少しだけ声が強張ってしまった。
「親はね、私にまた弾いて欲しいって言っていたから、だからすごく喜んでくれた」
下手だけどね、そう言って私は笑った。
父も母も喜んでいる。だけど一番嬉しいのは私かもしれない。
「ずっと弾くのが怖かったけど、野上くんのおかげでまた弾けるようになった」
隣の野上楓を見たら、静かに私を見ていた。
手を握りしめて、私は笑いかけた。
「私にもう一度ピアノを弾かせてくれて、ありがとう」
野上楓に負けてピアノを辞めた。
だけど、またこの人と出会わなかったら、もう一度ピアノを弾きたいと思わなかったかもしれない。
「あのね」
顔を上げた。視線の先に野上楓がいた。
私は彼をちゃんと真っ直ぐに見つめた。
「ずっとずっと昔に、私たち会った事があるんだよ」
繋いでない方の手に力を込めた。
「野上くんは覚えてないと思うけど、ここで出会ったのは2回目なんだよ」
野上楓は黙ったまま、私を見ていた。
とても長いような、だけどとても短くも感じるような時間、彼が口を開くまでを、それを息を止めて見ていた。
「覚えてるよ」
野上楓は笑った。
「藤沢さんのこと、ちゃんと覚えているよ」
繋いだ手に力がこもった。
「忘れるわけないよ」
大きく息を吐いた。安心したってわかる態度だった。
「よかった。もう僕のこと忘れちゃったのかと思っていたから」
なんだか泣きそうになった。
だけど、どうしても言いたいことがあったから、私は頑張って涙を堪えた。
「好きだよ、野上くんのピアノ」
野上楓が驚いた顔をして、それから静かな顔になった。
私はもう一度口を開いた。
「初めて聞いた時から、好きだったよ」
そう言って笑ったら、涙がぽろりと目からこぼれ落ちた。
「なら、良かった」
野上楓が笑って、そっと繋いでいない方の手を伸ばして私の涙を拭った。
「あの時は藤沢さんのために弾いたんだよ」
そのまま手を伸ばして、優しく私を抱きしめた。
「だから、藤沢さんにそう言ってもらえて、すごく嬉しい」
私は彼の背に手を伸ばした。
「好き」
私はようやくこの人に聞こえるくらいの声で言った。
「野上くんのこと、好き」
そうしたら、すぐ近くで安心したような声がした。
「よかった」
上げた視線の先で、私を見ている彼と視線があった。
「ようやく、藤沢さんが好きって言ってくれた」
ほっとしたような、だけど満面の笑みで私を見る。
「すごく、嬉しい」
私は自分の腕を伸ばして、彼を強く抱きしめた。
「僕、今までにやり残した事がたくさんあって」
「やりたいけど、出来なかったってこと?」
野上楓は頷いた。
「まずはね、バスケット」
「バスケット?」
それを聞いて、私は昔の記憶を思い出す。
バスケットもとても上手だったって、聞いた気がした。
「そう、実はね、バスケットがすごく上手かったの。だけど手を怪我するかもしれないからって、辞めさせられた。ピアノの方が大切だからって」
それをいう時だけ、苦い顔をした。
なんでも全部上手くいっているような人だけど、それでもこんなことがあるのだと思った。
「結構、好きだったんだけどな。バスケット」
その顔がやっぱり少し寂しそうだったから、私は励ますように繋いだ手を握りしめた。
「あとは?」
野上楓はうーんと考え込んだ。
「ピアノのレッスンが最優先だったから、塾も行けないし、中学の時はコンクールで修学旅行に行けなかった」
それを聞いて、私まで残念な気持ちになった。
「それから」
野上楓は夕日を見て目を細めた。
「本当は、藤沢さんとしたいことがたくさん、あった」
「私と?」
うん、と野上楓は頷いた。
「おんなじ学校に通って、たくさん話したり、一緒に勉強したり。一緒に学校に通うとかもしてみたかった」
「勉強?」
「そう。ピアノも一緒にやってみたかったな」
私が寂しそうな顔をしたら、野上楓はそれにすぐに気がついて
「今日も一緒に弾けたからいいけど」
全部、なんでもないことばかりだった。
とても平和な、何気ない学生同士の恋愛で見られるような光景だった。
それを聞いたら、私もそうしたかったと思ってしまった。
「だから、仕事を始めて再会した時すごく嬉しかったよ」
でも、と野上楓は責める様な顔をした。
「初めまして、とか言うから、忘れられたってすごいショックだった」
「だって私のことなんて覚えてるはずないから」
つい言い返してしまったら、野上楓は大きく首を横に振った。
「絶対忘れないよ」
野上楓は私の目を見た。
そうして、手を回転させると指を絡めるようにして私の手を握りしめた。
「だから僕の事覚えていてくれて、嬉しかった」
私は手を握りしめて彼を見あげた。
「じゃあ、これから一緒にやろうか」
そう言って彼の目をしっかり見つめた。
「もう学生じゃないけど。今までやりたかったこと、これから全部、やろう」
私は大きく頷いた。
「一緒に」
そう言ったら嬉しそうに笑ってくれた。
「たくさんあるから、全部やるまでに時間がかかるよ」
「え?」
「そうだよ。学生の時の分もあるし、今やりたいこともあるし」
「そんなにたくさんあるの?」
思わず笑ってしまうと、野上楓は当然というような顔をした。
「そうだよ。前も言ったけど、僕は藤沢さんのことには世界一わがままだからね」
そして素早く顔を近寄せて、私の唇に本当に触れるか触れないかのキスをした。
すぐに離れて笑うと、それからそっと私を抱きしめた。
「好きだよ」
地面に伸びた私たちの影が、ぴたりと重なった。
もしかしたら私も、この人に関しては世界で一番わがままになるかもしれない。
彼の腕の中で、ふとそう思った。
顔を上げたら視線があって、私たちはもう一度、笑い合った。




