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世界で一番相性の悪い人  作者: 史音
21/26

再生

私の予想が当たったのが分かったのは、野上楓が玄関で親に挨拶した時だった。

「野上楓と言います」

今日はありがとうございます、そう言い添えて頭を下げた姿を、母は本当に信じられないと言った顔で見ていた。

だけど父が、ほら言っただろうという顔で母を見て笑って、それから野上楓に向き直って挨拶を返した。母が気まずそうに苦笑いして野上楓に挨拶する。その恐ろしいほどぎこちない挨拶を、私はヒヤヒヤしながら見守った。


父が野上楓をリビングに連れて行く。その後を追おうとしたら

「女の子かと思ってたわよ」

母がそう言って私をつついた。私は苦笑いする。

「そんな気がした」

「じゃあ、早く言ってよ。気持ちの準備ってものがあるのよ」

「お父さんはわかってたよ」

母は苦笑いして台所に向かった。



リビングを覗くと、父と野上楓はテーブルを挟んでソファに座って話していた。意外にも父は緊張した様子はなくて、もしかしたら野上楓の方が緊張していたかもしれない。

ゴールデンレトリバーが尻尾をぶんぶん振って野上楓の周りを忙しなく歩いていた。初めて家に来た人だから、気になるんだと思う。


でも、それは私も同じだ。

野上楓が家にいるなんて、本当に不思議な気持ちだった。


予想通り、野上楓はうちの両親と、とてもうまく接してくれた。

聞き上手だし、色んな話題にも通じているし、気遣いも完璧だった。

事前に教えたわけでもないのに、お土産で持ってきてくれたバウムクーヘンは父の好物だった。

まず父が、続いてあんなに緊張していた母が野上楓と打ち解けていて、なんだか本当に不思議だった。



お酒は弱いらしく、ほとんど飲まなかった。だけど母の料理は美味しいとたくさん食べてくれたから、母が喜んで食べきれない量を出してきて、慌てて止めた。

嬉しいのかもしれないけど、はしゃぎすぎていてなんだか恥ずかしい。


食後のデザートとお茶を用意していると、母が私に話しかけてきた。

「すごくいい人じゃない」

「あ、うん。そう、だね」

「お父さんがあんなに楽しそうに話しているの、久しぶりに見たわよ」

やっぱり男同士なのね、母は笑ってリビングを見た。だけど母のそんな笑顔も久しぶりに見た気がする。


最初と同じように父と野上楓がソファに座っている。だけどお互い慣れたのか、雰囲気はずっと和やかで、二人とも自然に笑っていた。

ゴールデンレトリバーが当たり前のように野上楓の隣に寝そべって、勝手に彼の膝に頭を載せてくつろいでいた。

あっという間に、昔から一緒にいたみたいに馴染んでいる。


「お父さんも話が合っているし、結婚しても大丈夫そうね」

その発言に私はとても驚いて、慌てて否定する。

「そんなんじゃないってば」

顔があっという間に赤くなる。だけど母は笑った。

「そうなの?」

「そう。そんなんじゃないから」

わざと乱暴に私はティーカップを載せたトレイを持ってリビングへ向かった。



だけどタイミングが悪くて、ちょうど二人はピアノの話をしていた。

ずっと置きっぱなしの、使われていないピアノの話を。


思わず、足が止まりそうになって、咄嗟になんでもない様に振る舞う。いつも通りにトレイをテーブルに置いてお茶を置く。



「野上くんもピアノを弾くの?」

赤い顔をした父が尋ねると、野上楓は首を振った。

「まあ、少しだけです」

「あら、本当?いいわね」

私が何か言うより先に、後ろから来た母がとても嬉しそうな声を出した。

「よければ弾いてくれない?もうずっと使ってないの、このピアノ」

母はそう言ってピアノの蓋を開けて、野上楓を振り返る。


母は懐かしそうにピアノに触れた。

「昔はね、この子も弾いたんだけど、やめちゃって」

「ちょっとお母さん」

その話はやめてほしい。一番嫌な話題だから、私は急いで止めた。

だけど母は止まらなかった。


「すごくうまかったのよ、この子。コンクールで賞を獲ったこともあって。才能があったのに、急にやめちゃったの」

「やめてよ」

「すごくうまくて、このままピアニストになるって期待されてたのに」

写真もあったんだけど、どこにいったのかしら?と棚を開けようとする。

「その話はもうやめて」

私は慌てて母のそばに行って、その手を止めた。


私はこれ以上、過去の話をされるのが嫌だった。どうしても止めたかった。

これ以上話していたら、きっと昔の私のことがわかってしまう。

野上楓との繋がりだってわかってしまう。

昔の事を思い出されたくなかった。


「昔の話はやめてよ」

その気持ちが言葉や態度に出てしまった。

だからとても大きな、とても冷たい言い方になってしまった。

私の言葉は、シンとした部屋に響いた。


私はその勢いで、話し続けた。

「あのね、野上くんはすごくピアノが上手いの。私なんかと違うの」

「でも……」

「すごく、すごく上手いんだから」

みんなの顔を見ることができなくて、私は視線を伏せた。

「こんな所じゃ弾けないし。こんなずっと使ってないピアノで弾くの、勿体ないから」

顔を上げたら、母と目があった。


その目が悲しそうだったから、それでようやく私は自分が言い過ぎたことを悟った。

内容も言い方も悪い。最悪だ。


部屋の中が静かで息が詰まりそうだった。どうしていいかわからなくて、そこから逃げ出したくなった時、野上楓が立ち上がった。そしてそのまま私の隣に歩いてくる。


泣きそうな顔で見上げたら、野上楓は私を見て穏やかに微笑んだ。

「藤沢さん、一緒に弾こうか」

「え?」

「この間、弾いたのにしよう」

私の前に立って、背をかがめた。私を見て大きく頷く。


「この間?」

私は眉を寄せた。

「そう、この間、うちで弾いた曲」

そう言われて、この間の事を思い出す。


だけどあれは野上楓一人で弾いたようなもので、私は指1本で弾いただけだ。

昔の私からは想像できないくらい下手で、人前で弾けるような曲ではない。


「でもあれは……」

「大丈夫。きっと、うまくできる」

ね、もう一度頷いて、そっと私の手を引いた。

つられるように、私はそのままピアノの前に行って、素直に椅子に座ってしまった。


野上楓は私の隣に座って、大丈夫と言うように笑う。

そして手を伸ばして流れるように鍵盤の上で指を滑らすと、私の顔を見た。

「いいピアノだね」

「でも」

「藤沢さんはメロディを弾いて。僕がアレンジするから」


野上楓は相変わらずとても、もしかしたらこの間よりもうまかったかもしれない。

反対に、私は子供みたいに片手でゆっくり弾くだけだった。

上手いも下手もない。だけどひたすら丁寧に弾いた。


だから弾き終わって、私は大仕事をやり遂げた後のように疲れた。


小さく息を吐いて顔を上げたら、野上楓と視線があった。野上楓は笑って

「この間より、うまく弾けたね」

そう言って笑った。


振り返ったら、父も母も笑っていた。母の目は少しだけ潤んでいた。

それを見たら、自分まで泣きそうになってしまった。


「また、練習しようか」

「え?」

「次はもっとうまく弾けるように」

他の曲も弾きたいしね、そう言った野上楓に、私は頷くことで返事した。


声を出したら、涙を堪えているのがわかってしまうと思ったから。


泣きたくなかった。

とても嬉しかったから、嬉し泣きは嫌だった。

ピアノを弾いてこんなに嬉しくなったのは初めてで、だからちゃんと笑いたかった。





あっという間に時間が過ぎて、夜になる前に野上楓が帰ることになった。


帰る気配を察したのかゴールデンレトリバーが引き止めるように野上楓の周りをうろうろして、お父さんに宥められていた。

「色々ありがとうございました」

そう言って靴を履く野上楓に、自分も一緒に行くと犬が玄関に降りる。

野上楓はそれを見てしゃがみ込んで犬の頭を撫でた。

「また来るね」

犬が寂しそうに鼻を鳴らせた。


いつの間にか私よりも懐いているようで、少しずるいと思ってしまう。


なんだか初めて家に来たのに、この人はスッと馴染んでしまった。

「またいつでも来てね」

そういう両親に、野上楓は深く頭を下げた。

そして意外にとてもあっさりと玄関を開けて、出て行った。


ドアが閉まると、一人いなくなっただけなのに、急に家の中が静かになった気がする。

「すごく、いい人だったわね」

母がぽつりと呟いた。それに父が頷いた。

「またいつでも来てって、言っておいてね」

母が私に笑いかけた。


みんなが寂しそうな顔をしている。

寂しくなるのは、残された方だ。




彼が出て行った扉を見つめる。

その時になってようやく、私は彼がいなくなったことを実感した。


さっきまで隣にいた人がいなくなってしまったのを、寂しいと思った。

みんなが寂しがっているけれど。

父よりも母よりも、誰よりも

私が一番寂しがっていることに気がついた。


私は玄関に降りた。そのまま急いで靴を履くと、

「送ってくる」

そう言い残して、走って家を出た。


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