再生
私の予想が当たったのが分かったのは、野上楓が玄関で親に挨拶した時だった。
「野上楓と言います」
今日はありがとうございます、そう言い添えて頭を下げた姿を、母は本当に信じられないと言った顔で見ていた。
だけど父が、ほら言っただろうという顔で母を見て笑って、それから野上楓に向き直って挨拶を返した。母が気まずそうに苦笑いして野上楓に挨拶する。その恐ろしいほどぎこちない挨拶を、私はヒヤヒヤしながら見守った。
父が野上楓をリビングに連れて行く。その後を追おうとしたら
「女の子かと思ってたわよ」
母がそう言って私をつついた。私は苦笑いする。
「そんな気がした」
「じゃあ、早く言ってよ。気持ちの準備ってものがあるのよ」
「お父さんはわかってたよ」
母は苦笑いして台所に向かった。
リビングを覗くと、父と野上楓はテーブルを挟んでソファに座って話していた。意外にも父は緊張した様子はなくて、もしかしたら野上楓の方が緊張していたかもしれない。
ゴールデンレトリバーが尻尾をぶんぶん振って野上楓の周りを忙しなく歩いていた。初めて家に来た人だから、気になるんだと思う。
でも、それは私も同じだ。
野上楓が家にいるなんて、本当に不思議な気持ちだった。
予想通り、野上楓はうちの両親と、とてもうまく接してくれた。
聞き上手だし、色んな話題にも通じているし、気遣いも完璧だった。
事前に教えたわけでもないのに、お土産で持ってきてくれたバウムクーヘンは父の好物だった。
まず父が、続いてあんなに緊張していた母が野上楓と打ち解けていて、なんだか本当に不思議だった。
お酒は弱いらしく、ほとんど飲まなかった。だけど母の料理は美味しいとたくさん食べてくれたから、母が喜んで食べきれない量を出してきて、慌てて止めた。
嬉しいのかもしれないけど、はしゃぎすぎていてなんだか恥ずかしい。
食後のデザートとお茶を用意していると、母が私に話しかけてきた。
「すごくいい人じゃない」
「あ、うん。そう、だね」
「お父さんがあんなに楽しそうに話しているの、久しぶりに見たわよ」
やっぱり男同士なのね、母は笑ってリビングを見た。だけど母のそんな笑顔も久しぶりに見た気がする。
最初と同じように父と野上楓がソファに座っている。だけどお互い慣れたのか、雰囲気はずっと和やかで、二人とも自然に笑っていた。
ゴールデンレトリバーが当たり前のように野上楓の隣に寝そべって、勝手に彼の膝に頭を載せてくつろいでいた。
あっという間に、昔から一緒にいたみたいに馴染んでいる。
「お父さんも話が合っているし、結婚しても大丈夫そうね」
その発言に私はとても驚いて、慌てて否定する。
「そんなんじゃないってば」
顔があっという間に赤くなる。だけど母は笑った。
「そうなの?」
「そう。そんなんじゃないから」
わざと乱暴に私はティーカップを載せたトレイを持ってリビングへ向かった。
だけどタイミングが悪くて、ちょうど二人はピアノの話をしていた。
ずっと置きっぱなしの、使われていないピアノの話を。
思わず、足が止まりそうになって、咄嗟になんでもない様に振る舞う。いつも通りにトレイをテーブルに置いてお茶を置く。
「野上くんもピアノを弾くの?」
赤い顔をした父が尋ねると、野上楓は首を振った。
「まあ、少しだけです」
「あら、本当?いいわね」
私が何か言うより先に、後ろから来た母がとても嬉しそうな声を出した。
「よければ弾いてくれない?もうずっと使ってないの、このピアノ」
母はそう言ってピアノの蓋を開けて、野上楓を振り返る。
母は懐かしそうにピアノに触れた。
「昔はね、この子も弾いたんだけど、やめちゃって」
「ちょっとお母さん」
その話はやめてほしい。一番嫌な話題だから、私は急いで止めた。
だけど母は止まらなかった。
「すごくうまかったのよ、この子。コンクールで賞を獲ったこともあって。才能があったのに、急にやめちゃったの」
「やめてよ」
「すごくうまくて、このままピアニストになるって期待されてたのに」
写真もあったんだけど、どこにいったのかしら?と棚を開けようとする。
「その話はもうやめて」
私は慌てて母のそばに行って、その手を止めた。
私はこれ以上、過去の話をされるのが嫌だった。どうしても止めたかった。
これ以上話していたら、きっと昔の私のことがわかってしまう。
野上楓との繋がりだってわかってしまう。
昔の事を思い出されたくなかった。
「昔の話はやめてよ」
その気持ちが言葉や態度に出てしまった。
だからとても大きな、とても冷たい言い方になってしまった。
私の言葉は、シンとした部屋に響いた。
私はその勢いで、話し続けた。
「あのね、野上くんはすごくピアノが上手いの。私なんかと違うの」
「でも……」
「すごく、すごく上手いんだから」
みんなの顔を見ることができなくて、私は視線を伏せた。
「こんな所じゃ弾けないし。こんなずっと使ってないピアノで弾くの、勿体ないから」
顔を上げたら、母と目があった。
その目が悲しそうだったから、それでようやく私は自分が言い過ぎたことを悟った。
内容も言い方も悪い。最悪だ。
部屋の中が静かで息が詰まりそうだった。どうしていいかわからなくて、そこから逃げ出したくなった時、野上楓が立ち上がった。そしてそのまま私の隣に歩いてくる。
泣きそうな顔で見上げたら、野上楓は私を見て穏やかに微笑んだ。
「藤沢さん、一緒に弾こうか」
「え?」
「この間、弾いたのにしよう」
私の前に立って、背をかがめた。私を見て大きく頷く。
「この間?」
私は眉を寄せた。
「そう、この間、うちで弾いた曲」
そう言われて、この間の事を思い出す。
だけどあれは野上楓一人で弾いたようなもので、私は指1本で弾いただけだ。
昔の私からは想像できないくらい下手で、人前で弾けるような曲ではない。
「でもあれは……」
「大丈夫。きっと、うまくできる」
ね、もう一度頷いて、そっと私の手を引いた。
つられるように、私はそのままピアノの前に行って、素直に椅子に座ってしまった。
野上楓は私の隣に座って、大丈夫と言うように笑う。
そして手を伸ばして流れるように鍵盤の上で指を滑らすと、私の顔を見た。
「いいピアノだね」
「でも」
「藤沢さんはメロディを弾いて。僕がアレンジするから」
野上楓は相変わらずとても、もしかしたらこの間よりもうまかったかもしれない。
反対に、私は子供みたいに片手でゆっくり弾くだけだった。
上手いも下手もない。だけどひたすら丁寧に弾いた。
だから弾き終わって、私は大仕事をやり遂げた後のように疲れた。
小さく息を吐いて顔を上げたら、野上楓と視線があった。野上楓は笑って
「この間より、うまく弾けたね」
そう言って笑った。
振り返ったら、父も母も笑っていた。母の目は少しだけ潤んでいた。
それを見たら、自分まで泣きそうになってしまった。
「また、練習しようか」
「え?」
「次はもっとうまく弾けるように」
他の曲も弾きたいしね、そう言った野上楓に、私は頷くことで返事した。
声を出したら、涙を堪えているのがわかってしまうと思ったから。
泣きたくなかった。
とても嬉しかったから、嬉し泣きは嫌だった。
ピアノを弾いてこんなに嬉しくなったのは初めてで、だからちゃんと笑いたかった。
あっという間に時間が過ぎて、夜になる前に野上楓が帰ることになった。
帰る気配を察したのかゴールデンレトリバーが引き止めるように野上楓の周りをうろうろして、お父さんに宥められていた。
「色々ありがとうございました」
そう言って靴を履く野上楓に、自分も一緒に行くと犬が玄関に降りる。
野上楓はそれを見てしゃがみ込んで犬の頭を撫でた。
「また来るね」
犬が寂しそうに鼻を鳴らせた。
いつの間にか私よりも懐いているようで、少しずるいと思ってしまう。
なんだか初めて家に来たのに、この人はスッと馴染んでしまった。
「またいつでも来てね」
そういう両親に、野上楓は深く頭を下げた。
そして意外にとてもあっさりと玄関を開けて、出て行った。
ドアが閉まると、一人いなくなっただけなのに、急に家の中が静かになった気がする。
「すごく、いい人だったわね」
母がぽつりと呟いた。それに父が頷いた。
「またいつでも来てって、言っておいてね」
母が私に笑いかけた。
みんなが寂しそうな顔をしている。
寂しくなるのは、残された方だ。
彼が出て行った扉を見つめる。
その時になってようやく、私は彼がいなくなったことを実感した。
さっきまで隣にいた人がいなくなってしまったのを、寂しいと思った。
みんなが寂しがっているけれど。
父よりも母よりも、誰よりも
私が一番寂しがっていることに気がついた。
私は玄関に降りた。そのまま急いで靴を履くと、
「送ってくる」
そう言い残して、走って家を出た。




