変わった事と変わらない事
あの日以来、私と野上楓の関係は大きく変わった。
休みの日も自然に会うようになったし、今までは仕事が終わってすぐに帰っていた私が、遅くまで事務所にいたり、帰る時に野上楓が駅まで送ってくれたり……、一つ一つは小さいけど、たくさんのことが変わってしまった。
一つ言えることは、私と野上楓を見たら、何かがあったことはすぐにわかってしまうってことだ。
だから、丸わかりだとわかっていても、その日の昼食後に片付けをしていて、本田さんに話しかけられた時は、やっぱり驚いた。
「美波ちゃん、楓と付き合ってるんだよね」
しかも疑問形でなく断定形。
咄嗟に顔を見ると、大丈夫、ちゃんとわかっていますよ、という顔をしていた。
私は驚いて、思わず洗おうとしていた食器をガチャリとシンクに落としてしまった。
「あ、」
「あれ、大丈夫?割れちゃった?」
大きな音に本田さんが苦笑いして、シンクを覗き込んでセーフ、と笑った。
「あ、あの……付き合ってるっていうか」
固まって意味のない言葉しか言えなくなっている私を見て、本田さんは今度こそ笑った。
「ちょっと、動揺しすぎじゃない?」
「いや、まだ、多分そういう……」
「今は違っても、きっとすぐそうなるでしょう?」
私たちが付き合っているのか、と聞かれたらわからないとしか言えない。
そんなことを宣言してもいないし、その事について話しあってもいない。
でも、こんなことに形や手順なんてないから、そういうことなのかもしれない。
だけど、周りから見たらそれが当然でも、ちょっと受け止めきれない。
それに、私はまだ彼に自分の気持ちを伝えてはいないのだ。
本田さんはコーヒーサーバーからコーヒーを注いだ。
「君たちわかりやすいから、見てればわかる。むしろわからない人がいないと思う」
「え、そうですか?」
「美波ちゃんより、楓の方がわかりやすいかな」
「で、ですかね……」
「美波ちゃんのこと、すごく好きだって顔で見てるからね」
その言われ方に、こっちが恥ずかしくなってしまう。
「でも、美波ちゃんも楓のこと好きでしょう?」
あまりにもあっさりと言われてしまうと、自分が戸惑う。
自分だって、自分の気持ちがわかっていないのに、周りの方がわかるなんて、おかしい気がする。
「楓はずっと美波ちゃんのこと見てたしね」
本田さんはそっと事務所の方へ顔を向けた。その顔が苦笑いになる。
「もう最初から。まだ君たちがこんなに仲良くなる前から」
本田さんはコーヒーにミルクを入れると、私を見た。
「本当に、初対面だったの?」
「え?」
「いや、楓を見てるとそんな感じしないから」
私は驚いて、それから首を傾げた。
昔、私たちが会った時のことは話していない。
だけど、きっと私の事なんて忘れていると思っている。
突然、事務所を見ていた本田さんがおっと声を上げた。
「これ以上話していると、楓に怒られるから、俺、いくわ」
「え?あ、はい」
だけど、本田さんは私を見て、少しだけ真剣な顔をした。
「悪いけど、これからはもう展覧会とか誘わないよ」
「あ……」
また、誘うね。そう言ってくれたのは、まだそんなに遠くない日のことだ。
それはそれで、嬉しかったのも事実だ。
「これからは行きたいなら、楓を誘って。楓もそのほうが嬉しいよ」
「野上くんとは……意見合わなそうです」
思わずそう言ったら、本田さんは笑った。
「そう?でもどんな答えでも、受け止められるでしょう?」
好きなんだから。
本田さんはそう言って出て行った。
その姿を目で追っていたら、こっちを見ている野上楓と目があった。
その姿を見たら、本田さんの言葉がスッと胸に落ちた。
同じ感想でなくても、好きな絵が違っても、
それでも私はこの人が好きだ。
そんなことで、この気持ちは変わったりしない。
そっと手を振ったら、野上楓は困ったような顔をして、それから笑った。
***
「え?また出かけるの?」
私の言葉に母があからさまに嫌な顔をした。
「ええと、うん。まあ、そう」
それはその日の夕食後。母に週末の予定を聞かれた時だった。
この週末も、事務所で野上楓と一緒に過ごすだろうと思って、予定を空けている。
誘われたら断らないつもりだ。だけど誘って欲しいと思っているのは、私だ。
そんな感じで週末はいつも出かけているし、最近は以前より帰る時間も遅くなっている。
親からしたら急に出かけてばかりいる娘に思うことなんて一つだろう。
恋人ができたと思っているのだ。
じっとりと探るような目で見てくる母親に、私は観念した。
「実は友達の具合が悪くて、この間はその人の看病に行ったの。今週もその続きで」
間違いではない。今はもう元気になっているけれど、看病していたのは事実だ。
途端に母は心配そうな顔をした。
「あら、その人大丈夫なの?」
「あ、うん。具合はいいんだけど」
うまく言えなくて私がしどろもどろになりながら話していると、母が私に向き直った。
「親しくしている子なの?」
「あ、うん、最近では一番……かな」
母の目は確実に私を疑っていた。
おそらく彼氏だと思っている……。
自分があやふやだからかもしれないけれど、まだそう言えない。
だから、はっきりと言えないのが辛い。
母は少し迷った素振りをしていたけれど、しばらくして気持ちを固めたように私を見た。
「今度その人をうちに連れていらっしゃい」
「え?」
母はもう一度大きく頷いた。
「週末にお肉が届くからすき焼きにしようと思っているの」
「え?」
突然の展開に頭が追いつかなかった。
「どういう事?」
「評判のいいお肉をネットで取り寄せたの。たくさん頼んだから、人が増えても大丈夫よ。せっかくだから、その方も誘って、みんなで食事しましょう」
お肉?何を言っているんだと私は混乱する。
母は大きく頷いた。
「男の人は、やっぱりお肉でしょう?」
「え?」
うちの母はネットショッピングとかに弱くて、お取り寄せなんてしたことがない。その母がお取り寄せしたことにも驚いたし、急に野上楓を呼ぶと言い出したことにもびっくりだ。
私が質問する前に、母は私に向き直った。
その目が真剣だから、もう絶対に断れないと確信する。
勢いがすごいけれど、そこにあるのは心配だろう。
ずっと恋愛の気配のなかった娘だから、どんな人なのか会ってみたいのかもしれない。
そのために、色々母なりに考えたのだろう。
「え、でも向こうの予定聞いてみないと」
「時間は合わせるわよ。おやすみの日だし、昼でも夜でも大丈夫でしょう?」
でも、強引すぎる。だけど母は私に向かって日程を通達する。
結局それを止められなかった。
最後に母は私を見た。
「そうだ。その方のお名前は?」
「え?」
「名前よ。それくらい先に教えてもらってもいいでしょう?」
母は両腕を組んで私を見る。私は渋々口を開いた。
「野上、楓」
それを聞いた途端、急に母の勢いが止まった。
目を見開いて、気が抜けた顔をする。
「か、楓さん?」
「うん」
少し固まっていた母は、しばらくしてあからさまに安心した、というように大きく息をはくと、もう一度私に向き直った。
「じゃあ、楓さんに言っておいてね。よろしくね」
「うん」
「デザートも買っておかないといけないかしらね」
最後は独り言を呟いて、そうして首を傾げながら、部屋を出て行った。
その姿に、すこし嫌な予感がする。
楓さんって……。
楓っていう名前は男でも女でもありうる。もしかして女性と思ったんじゃないだろうか……。
男だからすき焼きにした訳で、女だと思って急にデザートの心配をしたのではないだろうか。
「女性と間違えてる?」
そう呟いたら、いつの間にか隣に父がいた。
「お母さん、美波のことが心配なんだよ」
「それはわかるけど……」
父は私をみて笑った。
「お父さんはちゃんと男が来ると思ってるから、大丈夫だよ」
お母さん、思い込み激しいところあるからね、そう言って笑った。
父の足元で、そろそろシニア犬になる我が家のゴールデンレトリバーがじっと私を見ていた。
困ったような顔で私を見るから、私も困った顔になってしまった。
その翌日に野上楓を誘ったら、最初とても驚いた顔をした。
だけどすぐに、笑って
「いいよ」
と答えた。
そう言った顔は本当に嬉しそうだった。誘ってよかったと思うくらい。
「迷惑じゃ、ない?」
心配で尋ねると、首を横に振った。
「いや。むしろすごく、嬉しい」
それを聞いて、ふっと気持ちが軽くなった。私の反応を見て野上楓は笑った。
「もしかして、嫌がると思って心配だった?」
「あ、うん。少し」
「嫌なはずないよ」
本当は少しじゃないけど、と思いながら返事する。
「緊張はするけど……大丈夫。僕、ちゃんとするように頑張るから」
野上楓にはなんの心配もしていない。
この人はきっととてもうまくこなすだろう。
「そうだ。犬にも会えるね」
楽しみだな、そう言って笑った。
ついこの間、この人が家に来ることなんてないと思っていたのに、野上楓がうちに来るなんてとても不思議だった。




