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世界で一番相性の悪い人  作者: 史音
19/26

連弾

翌日の午前に野上楓の家に向かう。

出迎えてくれた野上楓の顔色はよくなっていて、具合が良いことがすぐにわかった。

「具合、良くなった?」

念の為聞いたら

「うん。良くなった」

満面の笑みが返ってきた。


リビングのソファに並んで座って、野上楓の額に触れて熱を確認する。

「もう熱もないね」

「うん、藤沢さんのおかげ」

野上楓は笑って私を見た。


その顔をなんだかまっすぐ見られないのは、自分の気持ちに気が付いたからかもしれない。

いつもと同じようにしようとしても、できない。


だけど、目の前の野上楓は悔しいくらい、いつもと同じだった。

いつもと同じように笑って、いつも通りに私の隣に座っている。


腕が触れるたびに、ドキドキしてしまう私とは違う。


いつものように野上楓は私の顔を覗き込んできた。

「今日は仕事しないで、ゆっくりしようと思って」

体を動かしてテレビ台の扉を開くと私を振り返った。

「どうしようか、ゲームとかする?」

「え?」

「だってもう寝てるのも飽きたし」

そう言って棚の中を覗く。

「ゲームとかするんだ」

仕事ばかりしているイメージがあったから、つい呟いてしまった。だけどそれを聞いて、楽しそうな顔で振り返った。

「僕、意外とゲーム上手いんだよ。一緒にやる?」


嫌な予感がした。

多分、かなり上手いのだと思う。

私はゲームは苦手だ。

ただでさえ苦手なのに、この人に勝てる自信はない。


「いや。ゲーム以外で」

そう返事すると、うーんと考え込んだ。

「じゃあ、映画とか見る?」

そういうと今度は映画を検索し始める。

なんだか普通におうちデートみたいだ。そう思って恥ずかしくなって立ち上がる。

「お茶淹れようか」

「うん」


私はキッチンでお湯を沸かす。機械をセットした後に、色々買ってきた物があるから、それを伝えるために野上楓に声をかける。

「ねえ」

返事がないからキッチンを出て、ソファへ歩きながらもう一度声をかけようとして、足を止めた。


野上楓はピアノを見ていた。

その表情はさっきまでと違って、とても静かだった。


だけど、野上楓は立ち止まった私に気がつくと、ピアノから視線を逸らせて私を見た。

私はどうしていいかわからなくて、誤魔化すように笑った。

「すごい寝癖ついてる」

そう言って指差すと、しまったという顔をした。

「あ、そうか」

慌てて手櫛で髪を直そうとする。いつもの事務所の朝と同じ動きだった。だから私もほっとして笑う。

「僕、シャワー浴びてくる」

野上楓はそう言って立ち上がった。



一人取り残された私は、視線を動かした。

部屋にある白い電子ピアノに。




普段、彼が使っている、ピアノ。


昨日、私が目を逸らせた物だった。

だけど、今日は目を逸らさなかった。

そしてそこまで引き寄せられるように歩いていった。



ピアノの前で立ち止まる。

私は腕を伸ばして、そっと触れてみた。

ひんやりとした感触が、何だか心地よかった。


ピアノをやめてずっと触ることも、見ることもしていなかった。

触りたいなんてずっと思っていなかったのに、久しぶりに触れたら、浮かんできたのは懐かしいという感情だった。

ずっと会っていなかった友達と再会したような気持ちで、むしろどうして今まで避けてきたのか、わからなくなってしまった。


ピアノの上に無造作に楽譜が載せられている。昨日は楽譜が開かれていなかったから、弾いていたのかもしれない。

それは有名な曲で、私も好きな曲で、だけど今の私にはどうしたって弾けない曲だ。これを弾いているのだと驚いた。あの人はこれをどんなふうに弾くのだろうと想像する。



ピアノの電源を入れて、目の前の椅子に座る。

久しぶりで、かなり緊張する。

私は大きく深呼吸すると、ゆっくりと人差し指を伸ばして鍵盤に触れた。


小さな音が、静かな部屋の中に響いた。


指1本載せただけで、なんの意味もない音だった。

だけどそれはとても私にとって、大きな意味のある音だった。


それを聞いたら、昔、ピアノを弾くのがとても好きだったこととか、難しい曲を弾けるようになった喜びとか、褒められた時の嬉しさとか、たくさんの思い出が蘇ってきた。

思い出してみたら、その中には辛い事よりも、嬉しい事や楽しい事の方が多い気がした。

仕舞い込んでいた中には、大切な事もたくさん詰まっていた。


置いてあった楽譜を見て、試しに弾いてみる。

だけど、当然の様に全く弾けなくて、以前弾いていた、というのは通用しないのだと苦笑いする。

「思ったより弾けないな」

だけどこれで終わりにする気持ちにはなれなくて、私は以前弾いていた曲を必死に思い出す。

結局、ちゃんと弾けるような曲はなくて、私は子供の時に弾いた曲を弾いた。



それは子供が最初に習うような曲で、習い始めた最初の頃に弾いた曲だった。

本物は天才作曲家の書いたとても難しい曲だけれど、子供むけにアレンジされたその曲を、私は好きで良く弾いていた。この曲で、ピアノが好きになったのかもしれない。

その曲を私は1本の指でゆっくり弾いた。


ぽつりぽつりと音を出すだけの演奏だったけれど、私はとても真剣だった。

それは、今までの空白を埋めるような時間だった。

これを全部弾き終えたら、何かが変わるような気がして、変えられるような気がして、

私は静かに指を動かした。



とても集中していたから、急に後ろから手が伸びてきて驚いた。

私を背中から抱きしめるように両側から伸ばされた手は、ありえないくらい軽やかに鍵盤を滑った。

その手の持ち主が誰かなんて、見なくてもわかった。だけどあまりにも鮮やかな演奏に思わず手を止めた。


「野上くん」

「やめないで」

私の顔のすぐ横で、手の持ち主が声をかけてきた。

「一緒に弾こう」


レベルが違いすぎて、私は手を止めたままでいたら、彼も手を止めた。

隣の彼をみたら、向こうも私をみて視線があった。


急いで出てきたのか、シャツの上にバスタオルを引っ掛けていた。髪はまだ濡れていて、タオルの上に、雫が滴っている。

私は彼を隣に座らせると、肩にかけたバスタオルを使って頭を拭いた。


「また具合悪くなっちゃうよ」

彼は黙っていた。

「せっかく良くなったのに」

ある程度髪を拭いたら、今度は手櫛で髪を整える。彼は子供みたいに、されるままになっていた。

だけど、濡れた髪の隙間から、私を見つめた。


「でも」

「え?」

野上楓は私を見つめた。

「藤沢さんがピアノを弾いてたから」


彼の手が伸びて、私の手首を掴んだ。

「藤沢さんのピアノ、聞きたかったから」

野上楓は私の目を見た。


「藤沢さんのピアノ、好きなんだ」


それを聞いて、私は息を止めた。

驚きとがっかりした気持ちが湧き上がってくる。彼の顔を見ることができなかった。

「いや、下手だから。私」

誤魔化すように言った私を見て、野上楓は私の腕を掴む手に力を込めた。


「好き」

「うん」

違う、そう言って野上楓は首を横に振った。

そうしてまた、私の目を覗き込むようにして見つめる。



「藤沢さんのことが好き」



時が止まったような気がした。


私は自分の手を掴む彼の手に、反対側の自分の手を重ねた。

そうしたら、野上楓が腕を引いて、私は彼に引き寄せられた。

そして静かに彼は私を自分の腕の中に閉じ込めた。


「初めて会った時から、好き」


私を囲う腕の力が緩んだから、顔を上げた。目の前に彼の顔があった。

今までで一番近くに、彼がいた。


抱きしめられたことは、今までもある。

だけどそれは全部、その場の勢いだったり、抱きしめるに近い形ばかりで、未満ではない、こんな風にしっかりと抱きしめられたのは初めてだった。



彼の腕が、そっと私の頬を撫でた。

野上楓の顔が静かに近づいてきて、私たちはそっと唇を重ねた。


だけどあっという間に離れて、彼は照れたように目を伏せて、今度は私の額にもう一度キスをした。


私は彼のシャツを両手で掴むと、彼の胸に額をつけた。

彼の腕が静かに私を引き寄せて、抱きしめる。

まるでとても大事なものを扱うように、優しく。



「好きだ」



それを聞いて、私は目を閉じた。

彼の心臓の音が聞こえてきそうだった。

多分それは私と同じくらい、速かった。


とても恥ずかしくて、緊張していたけれど、同時に穏やかで、心が温かくなるようだった。

離れたくないと思った。


この時間が愛しくて、終わらなければいい。


そう、強く思った。


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