連弾
翌日の午前に野上楓の家に向かう。
出迎えてくれた野上楓の顔色はよくなっていて、具合が良いことがすぐにわかった。
「具合、良くなった?」
念の為聞いたら
「うん。良くなった」
満面の笑みが返ってきた。
リビングのソファに並んで座って、野上楓の額に触れて熱を確認する。
「もう熱もないね」
「うん、藤沢さんのおかげ」
野上楓は笑って私を見た。
その顔をなんだかまっすぐ見られないのは、自分の気持ちに気が付いたからかもしれない。
いつもと同じようにしようとしても、できない。
だけど、目の前の野上楓は悔しいくらい、いつもと同じだった。
いつもと同じように笑って、いつも通りに私の隣に座っている。
腕が触れるたびに、ドキドキしてしまう私とは違う。
いつものように野上楓は私の顔を覗き込んできた。
「今日は仕事しないで、ゆっくりしようと思って」
体を動かしてテレビ台の扉を開くと私を振り返った。
「どうしようか、ゲームとかする?」
「え?」
「だってもう寝てるのも飽きたし」
そう言って棚の中を覗く。
「ゲームとかするんだ」
仕事ばかりしているイメージがあったから、つい呟いてしまった。だけどそれを聞いて、楽しそうな顔で振り返った。
「僕、意外とゲーム上手いんだよ。一緒にやる?」
嫌な予感がした。
多分、かなり上手いのだと思う。
私はゲームは苦手だ。
ただでさえ苦手なのに、この人に勝てる自信はない。
「いや。ゲーム以外で」
そう返事すると、うーんと考え込んだ。
「じゃあ、映画とか見る?」
そういうと今度は映画を検索し始める。
なんだか普通におうちデートみたいだ。そう思って恥ずかしくなって立ち上がる。
「お茶淹れようか」
「うん」
私はキッチンでお湯を沸かす。機械をセットした後に、色々買ってきた物があるから、それを伝えるために野上楓に声をかける。
「ねえ」
返事がないからキッチンを出て、ソファへ歩きながらもう一度声をかけようとして、足を止めた。
野上楓はピアノを見ていた。
その表情はさっきまでと違って、とても静かだった。
だけど、野上楓は立ち止まった私に気がつくと、ピアノから視線を逸らせて私を見た。
私はどうしていいかわからなくて、誤魔化すように笑った。
「すごい寝癖ついてる」
そう言って指差すと、しまったという顔をした。
「あ、そうか」
慌てて手櫛で髪を直そうとする。いつもの事務所の朝と同じ動きだった。だから私もほっとして笑う。
「僕、シャワー浴びてくる」
野上楓はそう言って立ち上がった。
一人取り残された私は、視線を動かした。
部屋にある白い電子ピアノに。
普段、彼が使っている、ピアノ。
昨日、私が目を逸らせた物だった。
だけど、今日は目を逸らさなかった。
そしてそこまで引き寄せられるように歩いていった。
ピアノの前で立ち止まる。
私は腕を伸ばして、そっと触れてみた。
ひんやりとした感触が、何だか心地よかった。
ピアノをやめてずっと触ることも、見ることもしていなかった。
触りたいなんてずっと思っていなかったのに、久しぶりに触れたら、浮かんできたのは懐かしいという感情だった。
ずっと会っていなかった友達と再会したような気持ちで、むしろどうして今まで避けてきたのか、わからなくなってしまった。
ピアノの上に無造作に楽譜が載せられている。昨日は楽譜が開かれていなかったから、弾いていたのかもしれない。
それは有名な曲で、私も好きな曲で、だけど今の私にはどうしたって弾けない曲だ。これを弾いているのだと驚いた。あの人はこれをどんなふうに弾くのだろうと想像する。
ピアノの電源を入れて、目の前の椅子に座る。
久しぶりで、かなり緊張する。
私は大きく深呼吸すると、ゆっくりと人差し指を伸ばして鍵盤に触れた。
小さな音が、静かな部屋の中に響いた。
指1本載せただけで、なんの意味もない音だった。
だけどそれはとても私にとって、大きな意味のある音だった。
それを聞いたら、昔、ピアノを弾くのがとても好きだったこととか、難しい曲を弾けるようになった喜びとか、褒められた時の嬉しさとか、たくさんの思い出が蘇ってきた。
思い出してみたら、その中には辛い事よりも、嬉しい事や楽しい事の方が多い気がした。
仕舞い込んでいた中には、大切な事もたくさん詰まっていた。
置いてあった楽譜を見て、試しに弾いてみる。
だけど、当然の様に全く弾けなくて、以前弾いていた、というのは通用しないのだと苦笑いする。
「思ったより弾けないな」
だけどこれで終わりにする気持ちにはなれなくて、私は以前弾いていた曲を必死に思い出す。
結局、ちゃんと弾けるような曲はなくて、私は子供の時に弾いた曲を弾いた。
それは子供が最初に習うような曲で、習い始めた最初の頃に弾いた曲だった。
本物は天才作曲家の書いたとても難しい曲だけれど、子供むけにアレンジされたその曲を、私は好きで良く弾いていた。この曲で、ピアノが好きになったのかもしれない。
その曲を私は1本の指でゆっくり弾いた。
ぽつりぽつりと音を出すだけの演奏だったけれど、私はとても真剣だった。
それは、今までの空白を埋めるような時間だった。
これを全部弾き終えたら、何かが変わるような気がして、変えられるような気がして、
私は静かに指を動かした。
とても集中していたから、急に後ろから手が伸びてきて驚いた。
私を背中から抱きしめるように両側から伸ばされた手は、ありえないくらい軽やかに鍵盤を滑った。
その手の持ち主が誰かなんて、見なくてもわかった。だけどあまりにも鮮やかな演奏に思わず手を止めた。
「野上くん」
「やめないで」
私の顔のすぐ横で、手の持ち主が声をかけてきた。
「一緒に弾こう」
レベルが違いすぎて、私は手を止めたままでいたら、彼も手を止めた。
隣の彼をみたら、向こうも私をみて視線があった。
急いで出てきたのか、シャツの上にバスタオルを引っ掛けていた。髪はまだ濡れていて、タオルの上に、雫が滴っている。
私は彼を隣に座らせると、肩にかけたバスタオルを使って頭を拭いた。
「また具合悪くなっちゃうよ」
彼は黙っていた。
「せっかく良くなったのに」
ある程度髪を拭いたら、今度は手櫛で髪を整える。彼は子供みたいに、されるままになっていた。
だけど、濡れた髪の隙間から、私を見つめた。
「でも」
「え?」
野上楓は私を見つめた。
「藤沢さんがピアノを弾いてたから」
彼の手が伸びて、私の手首を掴んだ。
「藤沢さんのピアノ、聞きたかったから」
野上楓は私の目を見た。
「藤沢さんのピアノ、好きなんだ」
それを聞いて、私は息を止めた。
驚きとがっかりした気持ちが湧き上がってくる。彼の顔を見ることができなかった。
「いや、下手だから。私」
誤魔化すように言った私を見て、野上楓は私の腕を掴む手に力を込めた。
「好き」
「うん」
違う、そう言って野上楓は首を横に振った。
そうしてまた、私の目を覗き込むようにして見つめる。
「藤沢さんのことが好き」
時が止まったような気がした。
私は自分の手を掴む彼の手に、反対側の自分の手を重ねた。
そうしたら、野上楓が腕を引いて、私は彼に引き寄せられた。
そして静かに彼は私を自分の腕の中に閉じ込めた。
「初めて会った時から、好き」
私を囲う腕の力が緩んだから、顔を上げた。目の前に彼の顔があった。
今までで一番近くに、彼がいた。
抱きしめられたことは、今までもある。
だけどそれは全部、その場の勢いだったり、抱きしめるに近い形ばかりで、未満ではない、こんな風にしっかりと抱きしめられたのは初めてだった。
彼の腕が、そっと私の頬を撫でた。
野上楓の顔が静かに近づいてきて、私たちはそっと唇を重ねた。
だけどあっという間に離れて、彼は照れたように目を伏せて、今度は私の額にもう一度キスをした。
私は彼のシャツを両手で掴むと、彼の胸に額をつけた。
彼の腕が静かに私を引き寄せて、抱きしめる。
まるでとても大事なものを扱うように、優しく。
「好きだ」
それを聞いて、私は目を閉じた。
彼の心臓の音が聞こえてきそうだった。
多分それは私と同じくらい、速かった。
とても恥ずかしくて、緊張していたけれど、同時に穏やかで、心が温かくなるようだった。
離れたくないと思った。
この時間が愛しくて、終わらなければいい。
そう、強く思った。




