新しい感情
野上楓の住むマンションに着いたのは3時になる頃だった。
エントランスで迷うこと5分、ようやく決心して部屋の番号を押して呼び出すと、静かに扉が開いた。
エレベーターから降りて目的の部屋について、扉の前でまた迷っていると、私がインターフォンを鳴らすより先に、目の前のドアが開いた。
「野上くん」
家の扉を開けた野上楓を見て驚いた。ぐったりして、顔色が悪かった。かなり具合は悪いことはすぐにわかった。
赤い顔でぼうっとした目で私を見て
「藤沢さん」
弱い声を出すから、私は彼の体を支えながら家の中に入った。
リビングのソファに座った野上楓に、買ってきたスポーツドリンクを開けて手渡すと、ゆっくりそれを飲んで、大きく息を吐いた。
私は隣に座って部屋の中を見渡す。
部屋は思っていたより片付いていた。
リビングにはテレビと本棚とソファ、それから白い電子ピアノがあった。
その白いピアノに、視線を止めてしまう。
それは圧倒的に存在感があって、どうしたって目に入るのに、私はそれから目を逸らせた。
なんだか見ていられなかった。
私は野上楓へ向き直る。
とにかくだるいらしく、体を動かすのが辛そうだった。
予想通り今日は何も食べていなかったし、病院でもらった薬もまだ飲んでいないという。
私は買ってきた物を片付けて、食事を作ることを伝えた。
「食事作るから、それまで休んでていいよ」
でもそれに首を横に振る。
「せっかく藤沢さんが来てくれたから、ここにいたい」
離れたところから、私をじっと見つめる。
具合が悪いのに、それなのに私のことはじっと見つめる。
私は歩いて近づいて、彼の肩にブランケットをかけた。
「ここにいるよ」
野上楓が私をじっと見た。熱のせいか目尻が赤くて、のぼせたみたいな顔をしていた。
「本当は昨日の夜、藤沢さんに電話しようと思った」
野上楓は座ったまま手を伸ばして、私の手を、正確には指を握った。
そのまま私の顔へ視線をあげる。
「でも連絡先を知らなかったから、できなかった」
そして小さく、だけど苦く笑った。
私はそれを聞いて悲しくなる。
だって、私もそう思ったから。
野上楓の具合が悪いと知って最初に思ったのは、どうして私に連絡くれないのかということだった。
そこでようやく気が付いた。
私は彼の連絡先を知らない。
そして、彼も私の連絡先を知らない。
私は事務所に来れば、いつでも絶対に野上楓に会えると思っていた。
いつも、近くにいると思っていたから、連絡先なんて交換しようなんて思わなかった。
でも、彼がいつも事務所にいるということも、私と彼の関係も、同じようにとても頼りない物だって、ようやく気が付いた。
「私も同じこと考えた。ごめんね」
野上楓は責めるように私を見て口元だけで笑う。
「本田さんには連絡先教えてたのに、僕には教えてくれなかった」
「それは……」
急に変なことを言うから、反論しようとして止める。
代わりに私はそっと彼の指を握り返した。
「今日教えるし、教えて」
「うん」
「いつでも連絡していいから。朝早くても夜遅くても、いいから」
野上楓はそれには返事をしないで、黙って指を握り返す。
「でも」
「うん?」
「こんな風に藤沢さんが来てくれるなら、具合悪くなるのもいいね」
弱々しく笑った彼に私はきつい声を出してしまった。
「心配するから、それは嫌」
「心配してくれた?」
繋がれた指が、少しだけ野上楓の方へ引かれる。
見上げて問いかけてきた瞳は、ゆらりと揺れていた。
私は頷いた。
「心配した。すごく」
「本当?」
「本当。たくさん、たくさん心配した」
「嘘だ」
そう言って苦い顔をするから、私は即座に首を横に振った。
この人はわかっていない。
とても心配した。
そのせいで、今日一日仕事が手につかなかった。
昼ごはんの味が決まらなかったり、仕事を間違えそうになったり、散々だった。
ずっと悪い想像ばかりしていた。
ずっとずっと、この人の事ばかり考えていた。
野上楓は静かに体を起こすと両腕を伸ばす。私の背中で手を組んで、私の体を引き寄せると、そのまま私のお腹に自分の額を付けた。
「野上くん?」
思わぬ行動に胸がどきどきして、体が固まる。
野上楓は大きく息を吐いた。
「来てくれてありがとう」
背後で組まれた彼の手が私の背中に触れて、また少し自分の方へ引き寄せた。
「心配、したよ。たくさん」
「うん……」
小さな声で返事があった。視線を下げたら、真っ黒い髪が見えた。
野上楓が少し体を動かして、私へ顔を向けた。
「もう少しだけ、こうしていていい?」
思わず言葉に詰まる。甘えられている事が恥ずかしくて、どうしていいかわからなくて、だからつい、私は可愛くないことを言ってしまう。
「甘えてる」
「いいよ、具合悪いんだから。そんな時は甘えていいんだよ」
不貞腐れたように言って、野上楓はまた顔を下げた。
「わがまま」
思わず責めるように言ったら、野上楓も笑った。
「わがままだよ。僕、藤沢さんのことなら、世界で一番わがままになれる自信がある」
「何それ」
返事の代わりに背中の腕が私を引き寄せた。
嫌がったふりをしているけれど、本当は嬉しかった。
こうして彼と寄り添っていたら、今日の不安とか心配が一気に無くなって、代わりに新しい感情が湧き上がってきた。
それは『愛しい』って気持ちだった。
この人のことが好きだって思った。
もしかしたら、この感情にはずっと前から気付いていたのに、見ない振りをしていたのかもしれない。
昔の事にこだわって、本当の気持ちから目を逸らせていた。
今の私はこの人のことが好きだ。
この人は才能の塊みたいな人だ。昔の私はそれが嫌だった。
だけど実際は恐ろしいほど生活能力がなくて、そしてとても努力家で、優しくて、再会してから私はこの人に助けられたり、驚かされたり、泣くほど嬉しくなったりさせられた。
この人と過ごすようになってから、毎日が色鮮やかになった。
いつの間にか、彼のことが好きになっていた。
好き、じゃない。大好きだ。
下を向くと野上楓の真っ黒い髪が見えた。
ちょっとためらった後で右手を伸ばして、そっと彼の頭を撫でた。
「早く、よくなるといいね」
「うん」
本当は彼のことを抱きしめたいと思った。
だけどそんな勇気はないから、だから私は彼の頭を撫でる手に、少し力を込めた。
私たちはしばらくそのままじっとしていた。
その後、お粥を作って食べてもらった。そろそろ帰ることを伝えると
「泊まればいいのに」
そう言って不貞腐れた顔をする野上楓に苦笑いで返した。
流石に、泊まるのはちょっと……勇気がいる。だから明日も来ることを約束すると、野上楓は頷いた。
かなり顔色は良くなった。心配だけど、そろそろ帰ろうと隣に声をかける。
「じゃあ、よく休んでね」
「ねえ」
「何?」
「藤沢さんが大丈夫って言ってくれたら安心するから、大丈夫って言って」
それを聞いて私は驚いた。
「そんなこと、言ったことあったっけ?」
働いてから、そんな場面はなかった気がする。それに私が大丈夫と言っても、ほとんどの人は不安だろう。どちらかというと、野上楓が言った方が安心だ。
だけど野上楓は笑った。
「あったよ。だから、言って」
改めて言われると、とても恥ずかしい。だから私は俯いて、小さな声で言った。
「大丈夫」
そして手を伸ばして、さっきみたいに彼の頭を撫でる。
「明日には良くなるから」
だけど野上楓は満足そうに笑った。その顔が昔と同じで、我が家の犬を思い出してしまった。
「何?」
それが顔に出てしまったのか、不思議そうな野上楓に私は笑う。
「なんでもない」
「なんでもない感じじゃないよね」
じとっとこっちを見るから、私はちょっと気まずくなる。
「うちの犬を思い出した」
野上楓は驚いたように目を丸くした。
「犬?犬を飼ってるの?」
「そう。ゴールデンレトリバー」
へえ、と意外にも野上楓はそれに食いついてきた。
「僕、犬好きなんだ」
「そうなの?意外」
「今度会ってみたいな。犬飼うのが夢なんだ」
へえ、と今度は私が驚いた。動物が好きだなんて意外だった。
「そうだね、今度……」
会わせるね。そう言いかけて、止まる。
犬を事務所に連れて行けるわけもないから、会うには野上楓がうちに来るしかない。
この人が家に来るなんて……。
そんなこと、ないだろう。
私は笑って立ち上がった。
「犬の写真も送るね」
ついさっき、私たちはお互いの連絡先を交換した。私の言葉に野上楓も頷いてくれた。
それから家に帰って眠るまで、私たちはたくさんメッセージを送り合った。
犬の写真を送ったり、なんでもないことを話し合った。あっという間に時間が経ってしまって、野上楓は早く眠るはずだったのに、と思って、急いでお休みのメッセージを送った。
『また明日』
すぐにきた返事を見て、とても幸せな気持ちになった。
また会える約束があることが、嬉しかった。




