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世界で一番相性の悪い人  作者: 史音
18/26

新しい感情

野上楓の住むマンションに着いたのは3時になる頃だった。

エントランスで迷うこと5分、ようやく決心して部屋の番号を押して呼び出すと、静かに扉が開いた。

エレベーターから降りて目的の部屋について、扉の前でまた迷っていると、私がインターフォンを鳴らすより先に、目の前のドアが開いた。


「野上くん」

家の扉を開けた野上楓を見て驚いた。ぐったりして、顔色が悪かった。かなり具合は悪いことはすぐにわかった。

赤い顔でぼうっとした目で私を見て

「藤沢さん」

弱い声を出すから、私は彼の体を支えながら家の中に入った。


リビングのソファに座った野上楓に、買ってきたスポーツドリンクを開けて手渡すと、ゆっくりそれを飲んで、大きく息を吐いた。

私は隣に座って部屋の中を見渡す。


部屋は思っていたより片付いていた。

リビングにはテレビと本棚とソファ、それから白い電子ピアノがあった。


その白いピアノに、視線を止めてしまう。

それは圧倒的に存在感があって、どうしたって目に入るのに、私はそれから目を逸らせた。

なんだか見ていられなかった。


私は野上楓へ向き直る。

とにかくだるいらしく、体を動かすのが辛そうだった。

予想通り今日は何も食べていなかったし、病院でもらった薬もまだ飲んでいないという。

私は買ってきた物を片付けて、食事を作ることを伝えた。

「食事作るから、それまで休んでていいよ」

でもそれに首を横に振る。

「せっかく藤沢さんが来てくれたから、ここにいたい」

離れたところから、私をじっと見つめる。


具合が悪いのに、それなのに私のことはじっと見つめる。

私は歩いて近づいて、彼の肩にブランケットをかけた。

「ここにいるよ」


野上楓が私をじっと見た。熱のせいか目尻が赤くて、のぼせたみたいな顔をしていた。

「本当は昨日の夜、藤沢さんに電話しようと思った」

野上楓は座ったまま手を伸ばして、私の手を、正確には指を握った。

そのまま私の顔へ視線をあげる。

「でも連絡先を知らなかったから、できなかった」

そして小さく、だけど苦く笑った。


私はそれを聞いて悲しくなる。

だって、私もそう思ったから。


野上楓の具合が悪いと知って最初に思ったのは、どうして私に連絡くれないのかということだった。

そこでようやく気が付いた。

私は彼の連絡先を知らない。

そして、彼も私の連絡先を知らない。


私は事務所に来れば、いつでも絶対に野上楓に会えると思っていた。

いつも、近くにいると思っていたから、連絡先なんて交換しようなんて思わなかった。


でも、彼がいつも事務所にいるということも、私と彼の関係も、同じようにとても頼りない物だって、ようやく気が付いた。



「私も同じこと考えた。ごめんね」

野上楓は責めるように私を見て口元だけで笑う。

「本田さんには連絡先教えてたのに、僕には教えてくれなかった」

「それは……」

急に変なことを言うから、反論しようとして止める。


代わりに私はそっと彼の指を握り返した。

「今日教えるし、教えて」

「うん」

「いつでも連絡していいから。朝早くても夜遅くても、いいから」

野上楓はそれには返事をしないで、黙って指を握り返す。


「でも」

「うん?」

「こんな風に藤沢さんが来てくれるなら、具合悪くなるのもいいね」

弱々しく笑った彼に私はきつい声を出してしまった。

「心配するから、それは嫌」

「心配してくれた?」

繋がれた指が、少しだけ野上楓の方へ引かれる。

見上げて問いかけてきた瞳は、ゆらりと揺れていた。

私は頷いた。


「心配した。すごく」

「本当?」

「本当。たくさん、たくさん心配した」

「嘘だ」

そう言って苦い顔をするから、私は即座に首を横に振った。


この人はわかっていない。


とても心配した。

そのせいで、今日一日仕事が手につかなかった。

昼ごはんの味が決まらなかったり、仕事を間違えそうになったり、散々だった。

ずっと悪い想像ばかりしていた。

ずっとずっと、この人の事ばかり考えていた。


野上楓は静かに体を起こすと両腕を伸ばす。私の背中で手を組んで、私の体を引き寄せると、そのまま私のお腹に自分の額を付けた。

「野上くん?」

思わぬ行動に胸がどきどきして、体が固まる。

野上楓は大きく息を吐いた。

「来てくれてありがとう」

背後で組まれた彼の手が私の背中に触れて、また少し自分の方へ引き寄せた。


「心配、したよ。たくさん」

「うん……」

小さな声で返事があった。視線を下げたら、真っ黒い髪が見えた。

野上楓が少し体を動かして、私へ顔を向けた。

「もう少しだけ、こうしていていい?」


思わず言葉に詰まる。甘えられている事が恥ずかしくて、どうしていいかわからなくて、だからつい、私は可愛くないことを言ってしまう。

「甘えてる」

「いいよ、具合悪いんだから。そんな時は甘えていいんだよ」

不貞腐れたように言って、野上楓はまた顔を下げた。

「わがまま」

思わず責めるように言ったら、野上楓も笑った。

「わがままだよ。僕、藤沢さんのことなら、世界で一番わがままになれる自信がある」

「何それ」

返事の代わりに背中の腕が私を引き寄せた。


嫌がったふりをしているけれど、本当は嬉しかった。

こうして彼と寄り添っていたら、今日の不安とか心配が一気に無くなって、代わりに新しい感情が湧き上がってきた。



それは『愛しい』って気持ちだった。

この人のことが好きだって思った。


もしかしたら、この感情にはずっと前から気付いていたのに、見ない振りをしていたのかもしれない。

昔の事にこだわって、本当の気持ちから目を逸らせていた。


今の私はこの人のことが好きだ。


この人は才能の塊みたいな人だ。昔の私はそれが嫌だった。

だけど実際は恐ろしいほど生活能力がなくて、そしてとても努力家で、優しくて、再会してから私はこの人に助けられたり、驚かされたり、泣くほど嬉しくなったりさせられた。

この人と過ごすようになってから、毎日が色鮮やかになった。


いつの間にか、彼のことが好きになっていた。

好き、じゃない。大好きだ。


下を向くと野上楓の真っ黒い髪が見えた。

ちょっとためらった後で右手を伸ばして、そっと彼の頭を撫でた。

「早く、よくなるといいね」

「うん」


本当は彼のことを抱きしめたいと思った。

だけどそんな勇気はないから、だから私は彼の頭を撫でる手に、少し力を込めた。


私たちはしばらくそのままじっとしていた。





その後、お粥を作って食べてもらった。そろそろ帰ることを伝えると

「泊まればいいのに」

そう言って不貞腐れた顔をする野上楓に苦笑いで返した。


流石に、泊まるのはちょっと……勇気がいる。だから明日も来ることを約束すると、野上楓は頷いた。

かなり顔色は良くなった。心配だけど、そろそろ帰ろうと隣に声をかける。

「じゃあ、よく休んでね」

「ねえ」

「何?」

「藤沢さんが大丈夫って言ってくれたら安心するから、大丈夫って言って」

それを聞いて私は驚いた。

「そんなこと、言ったことあったっけ?」


働いてから、そんな場面はなかった気がする。それに私が大丈夫と言っても、ほとんどの人は不安だろう。どちらかというと、野上楓が言った方が安心だ。


だけど野上楓は笑った。

「あったよ。だから、言って」

改めて言われると、とても恥ずかしい。だから私は俯いて、小さな声で言った。

「大丈夫」

そして手を伸ばして、さっきみたいに彼の頭を撫でる。

「明日には良くなるから」


だけど野上楓は満足そうに笑った。その顔が昔と同じで、我が家の犬を思い出してしまった。

「何?」

それが顔に出てしまったのか、不思議そうな野上楓に私は笑う。

「なんでもない」

「なんでもない感じじゃないよね」

じとっとこっちを見るから、私はちょっと気まずくなる。

「うちの犬を思い出した」

野上楓は驚いたように目を丸くした。

「犬?犬を飼ってるの?」

「そう。ゴールデンレトリバー」

へえ、と意外にも野上楓はそれに食いついてきた。


「僕、犬好きなんだ」

「そうなの?意外」

「今度会ってみたいな。犬飼うのが夢なんだ」

へえ、と今度は私が驚いた。動物が好きだなんて意外だった。

「そうだね、今度……」

会わせるね。そう言いかけて、止まる。


犬を事務所に連れて行けるわけもないから、会うには野上楓がうちに来るしかない。

この人が家に来るなんて……。

そんなこと、ないだろう。


私は笑って立ち上がった。

「犬の写真も送るね」

ついさっき、私たちはお互いの連絡先を交換した。私の言葉に野上楓も頷いてくれた。


それから家に帰って眠るまで、私たちはたくさんメッセージを送り合った。

犬の写真を送ったり、なんでもないことを話し合った。あっという間に時間が経ってしまって、野上楓は早く眠るはずだったのに、と思って、急いでお休みのメッセージを送った。

『また明日』

すぐにきた返事を見て、とても幸せな気持ちになった。


また会える約束があることが、嬉しかった。


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