特別な…
私は野上楓にマグカップをプレゼントした。
雑貨店で見かけた温かみのあるベージュのマグカップで、見た瞬間に野上楓の顔が浮かんで買ったものだった。
私がもらったものに比べたら、値段は安い。だけど野上楓はとても喜んでくれた。
「ありがとう」
「いや、先にもらったのは私だから」
だけど野上楓は、それに丁寧に触れて、またお礼を言う。
「大事にするね」
あまりにも嬉しそうに反応するから、つい恥ずかしくなって素っ気ない返事をしてしまった。
本当は彼の笑顔が嬉しくて、自然に私も笑顔になった。
だけど、それを見ておかしいな、と思った。
私と野上楓の間の最初のギスギス感は無くなって、普通に仲が良いと思う。
普通の同期、という間柄よりも少し上をいっていると思う。
話すことすら嫌がっていたのに、いつからこんな風になったのか?と考えてしまう。
私は彼と親しくならないつもりだったのに。
こんなの、おかしい。
そう思ったのが始まりだった。
それからしばらくして、朝にいつものように事務所に泊まった野上楓の世話を焼いていたら、そこに涼子さんがやってきた。そして交互に私と野上楓を見る。
「二人はいつも仲が良いわね」
そう言って笑った。
何気ない一言だった。
涼子さんはよそよそしい私たちを心配していたから、安心から出た言葉だと思う。
だけど、私はそれに過剰に反応してしまった。
「いや、これは別に」
「え?」
「藤沢さん?」
しどろもどろになる私を、涼子さんと野上楓が訝しげに見つめた。
「藤沢さん、どうしたの?」
落ち着いて、と私の肩に野上楓が手を置く。
「いや、別に。これは野上くんが朝ごはん食べていないから気になっただけで、ええと……」
オロオロする私を見て、涼子さんは苦笑いした。
「楓くんと美波ちゃんの二人はお互いを苗字で呼んでいるのね」
「え?」
思わぬ指摘を受けて、お互い顔を見合わせた。
涼子さんは私たちの顔を見た。
「なんだか逆に特別な感じがするわね」
確かにこの職場は下の名前で呼び合っていることが多い。
私も野上楓も、周りから下の名前で呼ばれている。
だけど私たちはお互い苗字で呼んでいる。
だけど、本田さんだってそうだし、別におかしくない。
そう反論したいのに、否定しきれない。
隣を見上げたら、野上楓も私を見ていたから、私たちの視線はバッチリあってしまった。
そうしたら、本当に予期せず、私の顔は真っ赤になってしまった。
私は動揺していた。
『特別』という単語に。
野上楓が私の特別であるということに。
「わ、私、買い物行ってきます!」
そう言って、その場から走って飛び出した。
事務所を出て、小走りで道路を歩く。しばらく歩いて立ち止まる。
呼吸を整えて、頬に手を当てる。まだ驚くほど熱かった。
「なんなの、一体」
私はつぶやいた。
あの人は特別でもなんでもない。
自分に言い聞かせる。
その時から私は野上楓と距離を置くようにした。
ごく普通の、ただの同じクラスの同級生くらいの距離感に戻ろうとして、だけどそれを物足りなく感じる自分がいて、だから意地になってこれが普通と思い込んだ。
私は怖かったのだ。
これ以上あの人に強い気持ちを持ちたくないと思った。
それがどんな感情であっても。
だけど、そんなことをすると、絶対によくないことが起きる。
私は自分の行動を、とても後悔することになる。
***
「え?楓くん大丈夫?」
涼子さんが電話で大きな声を出していた。
週終わりの金曜日の朝9時半。
まだ野上楓は事務所に顔を出していなかった。それ自体は多くはないけど、あることではある。
だけど、ついさっき、事務所の電話に連絡をしてきた。
具合が悪いから、今日は休む、と。
隣で聞いていた私は、思わず涼子さんへ顔を向けた。
「ねえ?大丈夫なの?」
まだ電話中の涼子さんは興奮していて、声がどんどん大きくなっている。しばらく電話をして、それを終えると涼子さんは、落ち着かない様子で椅子に座った。
「野上くん、具合悪いんですか?」
声をかけると、涼子さんが苦い顔をして頷いた。
「かなり辛そうなの、大丈夫かしら?」
その言葉に、私は息を呑んだ。
昨日、いつもと野上楓の様子が違うことに気が付いていた。
昼ごはんの時に野上楓の口数が少なくて、食事するペースが遅くて、それからおやつのお菓子を食べていなかった。
本当に些細なことで、だけどしっかり気がついていたのに。
私には、わかっていたのに。
声をかけようとして、やめてしまった。
それから目を逸らせてしまった。
声をかけたら、きっと私は彼の世話を焼いてしまう。あっという間に私たちの仲も元に戻ってしまう。
それが悔しかった。
だから私はそれから目を逸らせてしまった。
私のとてもくだらない意地のために。
だから、これは私のせいだ。
それなのに、都合よく後悔する。
自分から離れたくせに、勝手すぎる。
少し離れたところで涼子さんと社長が話していた。
「あいつ、ずっと休みなしで頑張ってたからな」
報告を聞いて社長がつぶやいた。涼子さんがそれに返す。
「ちょっと働きすぎだったわよね」
それを聞いて、また辛い気持ちになる。
最近の野上楓は仕事に集中していた。
その理由の一つは、賞を取ると宣言したからだと思う。
努力しないで賞が取れるはずもない。それを叶えるために、頑張っている。
私のために。
「楓くん大丈夫かしら?病院には行くっていうけど、あの子何もできないから心配だわ」
涼子さんの言葉には、心当たりがありすぎる。
飲まず食わずで仕事して倒れたのは4月の事だった。あの生活能力のない人が、ちゃんとできるか、なんて聞くのがおかしい。
もしかしたら、この合間にも倒れていることだって、あり得る。
それはとてもいやな考えだけれど、十分にありそうで怖い。
思わず手を握りしめた時、社長を話をしていた涼子さんが私へ顔を向けた。
「美波ちゃん、あとで様子見に行ってきてくれない?」
「え?」
驚いて顔を上げる。
涼子さんと社長が私を見ていた。
「楓くん、絶対一人だとダメでしょう?様子を見に行ってあげて?」
私たちも心配だし、美波ちゃんもそうでしょう?
涼子さんはそう付け加えた。
少しだけ、迷った。
でも、その時間は本当に少しだった。
実際はカウントするのが難しいくらいの短い時間だったかもしれない。
やっぱり私は彼のことが心配で。
居ても立っても居られないくらい、ひたすら心配だったのだ。
「わかりました。行きます」
私は二人を見て頷いた。




