メロンパンとカレー
昨日のお礼も兼ねて、今日は本田さんと約束したインドカレーにするつもりだ。
だけど、作り慣れないメニューだし、買い物が必要だから私は少し焦っていた。
「買い物行ってきます」
涼子さんに声をかけて事務所を出ると、野上楓が付いてきた。
「どうしたの?」
「僕、手紙出したいから付き合う」
私は手にしたメモを見ながら早足で歩く。野上楓はゆっくり歩いている。
頭の中で手順を考えていると、隣からのんびりした声が聞こえた。
「ねえ、今日は何?」
「インドカレー」
「本田さんのリクエストのやつ?」
私は頷く。ふうん、と気の無い返事が聞こえた。
「昨日遊びに行った人のリクエストに応えるのって、どうなの?」
「え?」
「そこに意味があるって思うのが普通じゃない?」
「意味?」
スーパーの前に移動販売の車が停まっていて、メロンパンを売っていた。甘い良い匂いがするから、つい見てしまう。
「食べる?」
野上楓の声に、私は慌てて首を横に振った。
「時間ないし、食べたらお昼食べられなくなっちゃう」
それを聞いていたはずなのに、野上楓はその車に近づいて、迷わずメロンパンを買った。
「え、食べるの?」
驚いている私のところに戻ってくると、器用にそれを半分にして私に差し出した。
「はい」
目の前のメロンパンからは甘い匂いがした。
それに釣られて私が受け取ると、野上楓はメロンパンを頬張る。
「美味しい」
あまりにも美味しそうに食べるから、私もつい、それを口に運んでしまった。
メロンパンは皮がサクサクで、中はふわりとして、そして甘かった。
「美味しい」
思わずそう呟くと、野上楓は小さく笑った。
「ね。美味しいね」
私はもう一口食べて、笑って頷いた。
二人で立ったままメロンパンを食べていると、隣から声がかかった。
「昨日、どうだった?」
私より先に食べ終えた野上楓が聞いてきた。
視線だけ動かすと、向こうも同じように私を見ていた。
「すごくよかった。知ってる絵もあったし」
「それだけ?」
「そうだけど」
それを見て、野上楓は眉を寄せた。
「何かあったかと思った」
私はあからさまに嫌な顔をした。
「そんなことないし」
素っ気なく返事しながら、それにほんの少しだけ、反応してしまった。
これからも、と意味ありげに言われたのも、もしこの人と付き合ったら、と想像したのも事実だからだ。
自惚れていると笑われそうだけど、本田さんと付き合った時の自分を想像してしまった。
隣から大きなため息が聞こえた。振り仰ぐと、野上楓は不機嫌な顔をしている。
「顔に答えが出てる」
「え?」
もう一度大きなため息をつくと、私に静かな視線を向けた。
「今日はカレー、嫌だ」
「え。カレー嫌なの?」
野上楓は無表情で続けた。
「嫌だ」
「どうして?嫌いなの」
「嫌いじゃないけど、今日は嫌」
私をチラリと見る。そしてまた視線を前に戻した。
「どうしても」
私は手の中のメロンパンを見つめる。
「でも、お祝いで約束したし」
「じゃあ、僕が今日は肉じゃがって言ったら?」
「肉じゃが、昨日食べたよ」
「カレーにするくらいなら昨日と同じものの方がいい」
私は返す言葉に困ってしまう。
「今日はだめ、絶対にカレーはダメ」
その顔はとても真剣で、強い決意がみえた。
一体どうしたのだろう。
どうして今日のカレーにはこだわるのだろう。
どうしてこんなに必死になるだろう。
私は不思議に思って尋ねる。
「そんなに、カレーが嫌なの?」
「カレーじゃない。今日のカレーが嫌なの」
そう言って肩をすくめてため息をついた。
「いい加減、わかって欲しいんだけど」
相変わらず不機嫌な顔をしてふいと横を向いた。
「いいよ。僕が嫌がったから、カレーをやめたって言って」
私は大きく息を吐いた。
確かにもう時間がない。焦って作れるほど、慣れた料理ではない。
メロンパンを食べなければ、まだ時間に余裕があったかもしれない。私は諦めて息を吐いた。
「じゃあ、今日はカレーはやめる」
だけど、野上楓は本当にほっとしたような顔をして、大きく息を吐いた。
「そんな大袈裟な」
そう言った私を、じろりと見る。
「藤沢さんには事の重大さがわかってない」
「変なの」
「変でいい」
その返事がおかしくて思わず笑ったら、野上楓が私を睨むように見て、でもその後に笑った。
その顔を見ると機嫌が直ったみたいだから安心する。
私は残ったメロンパンを食べながら、呟いた。
「昨日の夜ね。野上くんのこと思い出したよ」
「え?」
私の言葉に野上楓は驚いて振り返った。私は顔をあげて野上楓を見る。
「昨日の展覧会、野上くんならどの絵が一番好きかなあって」
視線を上げると、野上楓はまだ驚いた顔をしていた。
「きっと私が一番好みじゃない絵を好きと言いそうだと思ったけど」
きっと、じゃなくて絶対そうだ。
意見の合わない、相性の悪い私たち。
なんだかおかしくなってしまう。
「違っても、いいんじゃない?」
「え?」
隣から返ってきた思いがけない返事に私は驚いた。だけど野上楓は当たり前のような顔をして私を見た。
「だって違う人間だし。人の数ほど好みはあるし、普通のことだよ」
そして私を見て笑った。
「だから、話していて楽しいんだよ」
そういう考えは今までなかった。
だからとても驚いて、すぐには受け止めきれなかった。
「そう、かな」
そうだよ、と野上楓は笑った。
「僕はそう思うけどね」
なんだか不思議な感じだった。
それを聞いたら、私が今まで悩んでいたことは、もしかしたらとても小さな事なのかもしれないと思った。
なんだか新鮮な気持ちで野上楓を見たら、ちょっと眉を寄せて私を見た。
「何?」
私は首を横に振ると、メロンパンの最後の一口を頬張った。
「メロンパンおいしかった」
ありがとう、と言って見上げたら、嬉しそうな笑顔が返ってきた。
「食べてよかった」
それにとても嬉しそうな顔をした。
私は時計を見る。流石にもう帰らないといけない時間だ。
「お昼のメニュー、一緒に考えてよ」
「いいよ」
私たちは並んでスーパーに入った。
事務所に戻ったら、本田さんがキッチンを覗きにきたから、私は声をかける。
「すみません。今日はちょっと……カレーはまた今度にします」
本田さんはいつもみたいに笑った。
だけど本田さんが話す前に、隣の野上楓の声がした。
「僕、今日はカレーの気分じゃないので、変えてもらいました」
「え?」
本田さんは目を見張る。本田さんを見て野上楓はもう一度言った。
「だから、今日はカレーじゃないです」
しばらく野上楓と本田さんは黙ったまま、お互いを見ていた。いつも静かなキッチンにはピリピリした空気が流れる。
どうしようと思いながら二人を見ていると、先に動いたのは本田さんだった。
「そう。じゃあ、今度ね。」
「はい」
本田さんはすれ違いざまに私の頭を軽く叩いた。
「え?」
「また、お願いね」
こんな事は初めてだから驚くと、本田さんは笑った。
「じゃあ、ご飯になったら呼んで」
本田さんが出て行くのを私は見送る。
どうして急にあんなことをしたのだろう。
そう思っていたら隣から不穏な気配がした。
恐る恐る見上げると、今日一番不機嫌な顔をした野上楓と視線があった。
「い、今のは別に」
別に言い訳する必要もないのに、私が口を開くと野上楓がため息をついた。
野上楓は私に一歩近づくと、私の両肩をつかんで自分の方へ向ける。
顔がグッと近づいた。真剣な顔で私を見てくる。
「カレーは僕がいいっていうまで、禁止」
そう言って、キッチンを出て行った。
その言葉通り、しばらく野上楓は昼食のメニューをチェックして、カレーにN Gを出し続けた。
ダメと言われると、急に食べたくなってしまうのが人間だ。
だけど、カレーと言うとあまりにも嫌な顔をするから、言い出せなくなってしまった。




