変わった距離
表彰式は終われば、日常に戻る。
だけど、私だけが戻っていない。
あの日以来、私はおかしくなってしまった。
あの日私は友人に絡まれて、それを野上楓に助けてもらった。
それだけなら、良くはないけど、まだよかった。
野上楓が私と賞を取るって話は、多分友達の間に広まるから、今度どんな風に話そうか悩む。
でも問題はそこではない。
事もあろうに、私は野上楓の胸で泣いてしまった。
その行為に大きな意味はない。
子供が泣いていたら誰だってあやそうとするのと同じだ。
だけどあれから私たちの距離が変わった。
何をするのも以前より距離が近い。食事をするときの距離、話す時の距離、どれも確実に近くなっている。
だけど、その数センチが問題なのではない。
近くなったのは、多分、気持ちだ。
しかも、野上楓ではなくて、私の。
うまく言えない。その距離を落ち着かないと思う。
なのに、ふとした拍子に彼の手に触れたいと思ってしまう。
隣の彼を強く意識してしまう。
そしてとても恥ずかしいような、苦いような、でも嬉しいような気持ちになる。
その気持ちが、どこからくるのか
どんな名前で呼んだらいいのか
私にはわからなかった。
いつものように皆で昼ご飯を食べていると、本田さんがその日の煮物を絶賛してくれた。
「本当にうまい」
そう言って本田さんはジャガイモを頬張った。この人は本当においしそうに食べる。
あまりにもほめてくれるから嬉しくて、私は本田さんに向き直った。
「今度受賞記念で本田さんの希望のメニューで作ります」
本田さんは少し考えてから満面の笑みで
「カレー。いろんなカレーをみんなで囲んでパーティってどうですか」
本田さんらしい楽しい企画だと思うけど、準備が必要だな、と私は考えこむ。
「じゃあ、準備してからにしますね」
「本当?うれしいなあ」
事前に渡されている予算と考えながら、私は頭の中で計画する。
昼食後、片付けをしていると誰かがキッチンに入ってきた気配がして顔を上げた。そこにいたのは本田さんだった。
私が顔を上げると、本田さんは気遣うような顔をした。
「カレー、大変だったら無理しなくていいよ」
「え」
「美波ちゃんの料理、本当にいつも美味しいからそれだけで十分だし」
照れたような姿を見て、こういう気遣いは本田さんらしいなあと思う。
「ちょっと考えます。私が作るといつも給食のカレーになってしまうので」
「あ、俺も給食のカレー好き。大変だったら、給食のカレーでお願い」
そこでようやく本田さんは笑顔になった。
たぶん、作る私の大変さを考えてくれたんだと思う。
本田さんは気遣いのできる人だし、優しいと思うし、だからこそ希望に応えたいと思う。
「あ、あとさ」
「はい?」
本田さんはポケットから紙を取り出した。
「また、展覧会行かない?」
差し出されたその紙を覗き込む。フランスの美術館の展覧会だった。
「いいんですか?」
「いいの。ちょうどチケットもらったからさ。行かないのも良くないし。せっかくだから藤沢さんどうかな、と思って」
「行きたいです」
珍しい美術館の展覧会で興味はある。だけど、本田さんは事務所の方を見つめた。その一点を見る姿に、どこを見ているのだろうと顔を向けたら、その前に目線がそらされた。
「じゃあ、いつ行く?」
チケットを見たら、その会は今週末までだった。
だけど週末の予定は本田さんが埋まっていた。なんとか予定が合うのは今日だけだった。
確かに仕事終わりで急げば、ぎりぎり間に合いそうだ。
「じゃあ、今日」
そう言ったら、本田さんはとても嬉しそうに笑った。
本田さんが戻って、私も作業を再開したら、今度は野上楓がきた。
「どこか行くの?」
「ええと。絵の展覧会。フランスからで今週までなんだって」
「ふうん。今日行くの?」
私は頷いた。
「チケットをもらったんだって。せっかくだしって」
それを聞いて、野上楓は呆れたような、いや、明らかに呆れた顔をした。
「そんなの本当に信じてるわけ?」
「え?」
手を止めると、野上楓はじっとこっちをみていた。
「あ、野上くんも行きたかった?」
「は?」
私の返事にとても嫌そうな顔と声で返事した。
「当日券あるか、聞いてみようか?あったら一緒に行く?」
「何、言ってるの?」
野上楓の顔があきれている。
「そんなこと、本田さんが良いっていう訳ないでしょう」
「でも、特別な展覧会だよ」
野上楓は嫌そうな顔のまま、口を開いた。
「絶対、行かない」
そう言って、フイと行ってしまった。
なぜ不機嫌なのかわからない。
だけど、野上楓は本当に機嫌を悪くしてしまったのか、その日はもう口を聞かなかった。
仕事が終わって急いで行ったけど、ついた時間は遅かったから、全部しっかり見るには物足りない気がしてしまった。
「もっと早く来ればよかったなあ」
「時間足りなかったですね」
本田さんがため息をついたから、私も即座に同意した。もう一度来たいと思う会だった。
会場を出て駅まで歩く間も、お互い感想を言い合う。
「お店も閉まってるから、食事もご馳走できなくて悪いけど」
駅まであとすこし、と言うところで信号を待っていると、本田さんが私に謝ってきた。私は首を振る。
「いえ、全然。今日もいい勉強になりました」
今日の会で見た絵を思い出す。お互いの感想を聞くのも面白かった。
結局私はきれい、とかすごい、とかありきたりの感想しか言えないけれど。
同じものを見て感想を言い合うって、楽しいものだと思う。事実、私と本田さんでは一番気に入った絵が違った。
ふと、もし野上楓なら今日の絵のどれを一番いいと言うのだろうと思った。
多分、私の好みと正反対の物だと思う。
あの人とは思考回路が逆だからな、と頭の中で考えていると、隣から少し大きな声がかかった。
「あのさ、藤沢さん」
「ああ、はい!」
私は慌てて返事をした。その勢いに、本田さんは驚いたようだったけど、少しして笑った。
「これからも、こうやって誘っていい?」
私は大きく頷いた。
「機会があったら、ぜひ誘ってください。すごくありがたいです」
本田さんは少しだけ、顔をこわばらせて視線を逸らせた。
だけど最初、私はそれに気がつかなかった。視線を逸らされて初めて、何かおかしいな、と思った。
沈黙から逃げるように私は口を開いた。
「本田さんと来ると勉強になります。今日もありがとうございました」
そう言ってお辞儀をして顔を上げると、本田さんの困った顔が目の前だった。
「いや、あのさ」
本田さんは言いにくそうに口籠もった。
「俺は確かに事務所の先輩、同僚?だし、まあそれは変わらないんだけど」
「え?」
頭の後ろに手を当てて、目の前の顔が少し困った様に笑う。
「まあ、いいや。それはまた、いずれ」
「……はい」
私が返事をすると、本田さんは笑った。
「美波ちゃんと話すの楽しいし、これからも誘うよ」
「よろしくお願いします」
本田さんははっきり言わなかったけれど、言葉の奥に何かがあった。
たぶん、後輩とか勉強のためとか、そういう理由を無しにして誘う、という意味を込めていた様な気がした。
でも、気のせいかもしれない。
だから、どうしていいのかわからなかった。
その夜、本田さんからメッセージが来た。
今日は付き合ってくれてありがとう、というメッセージに、私も今日は楽しかったです、と返事を送る。
すぐに、また誘うからよろしく、とイラスト付きで返事が来た。
それが可愛いもので、思わず笑みがこぼれる。
この人と付き合ったら、毎日とても楽しくて、笑って過ごせるだろうな、と考えてしまった。




