抱きしめる未満
「表彰式ですか?」
夏の少し前だった。去年本田さんの作品が賞を取った表彰式が都内で行われて、全員でそれに出ることにした。
といっても、その会の後にみんなで食事に行くのが目的なのだけれど…。
社長と本田さんは表彰式の前から出かけて、涼子さんは一度家に帰ってから向かうというから、結局私と野上楓の二人で表彰式の会場まで行くことになる。
その日はネイビーのワンピースを着ていたら、野上楓が
「今日はリクルートスーツじゃないんだ」
とボソッとつぶやいたから、思わずじとっとした目で見てしまった。
いつまでもリクルートスーツが私の正装だと思われても困る。
野上楓はスーツを着ていて、それがサマになっていた。
この人は体のバランスがいいから、スーツが似合う。
そこがまた、ちょっとずるいと思う。
地下鉄の駅から出て並んで歩く。反対側の道路にランニングをする人達が見えた。
もう少しで会場、というところで私を呼ぶ声がした。声の方を見ると、信号の反対側から走ってくる人を見つけた。
「わ…」
思わず声が固まってしまった。
走ってきたのはこの間私に苦い思いをさせた大学の同期の彼女だったから。
私はぎこちない笑顔で応える。彼女は私へと駆け寄ってきた。
「どうしたの?藤沢さんの会社ってこの辺なの?」
その顔は興味津々といった感じだ。でも、興味があるのは私よりも、隣の野上楓かもしれない。
スーツ効果でよく見える野上楓をチラチラと見ている。
それがなんだか嫌だった。
だから私は一歩足を出して、野上楓の前に立つ。
彼女と、野上楓の間に。
「あ。今日はこの辺で用事があって」
彼女はあたりへ視線を送って、そして表彰式の看板を目ざとく見つけた。
「すごいね。有名事務所に勤める人は違うね。華やかだね」
その言い方には、間違いなく嫌な感情が込められていて、私は視線を落とした。
タイミングが悪い。だけど彼女の職場はこの辺りだから、偶然会うのは仕方ないかもしれない。
だけど彼女はそのまま私に言葉を投げつけてくる。
「あれ、でも藤沢さんは事務なんでしょう?でも表彰式とかくるの?それともデザインとかもしてるの?」
言葉全てに棘がある。
そのせいで思い切り気持ちが波立った。
「いや、私はただの事務だから」
「そうだよね。大学の時だって、全然興味なかったよね。でもいいなあ、今はこんなに充実してるんだもんね」
そして、また大きくわざとらしくため息をついた。
「いいよね、コネって。人生を変えてくれるもんね」
咄嗟に思ったのは、これを隣の野上楓に聞かれたくないって事だった。
私がこの事務所に、親の紹介で勤めるようになった事は話してある。
それをどう捉えるかは、その人次第だと思う。
だけどこんな言い方をされたら、彼の私を見る目が変わってしまうかもしれない。
コネ、なんて言葉を使って欲しくない。
期待されて入社した野上楓の前でそんな事を言われたら、自分がとても小さくて嫌な人間な気がしてしまう。
野上楓の前では、そんな自分を見せたくなかった。
「なんか華やかだよね、いいなあ。私なんて地味に働いているだけなのにさ。羨ましい」
彼女が私を見る。
その顔が悪意に満ちている気がした。逃げたいけど、逃げられなくてどうしようもなかった。
頭の中がいっぱいで、もう耳を塞いでしまいたかった。
その時私の前に黒い人影が現れた。顔を上げたら、私の前に野上楓が立っていた。
彼女から、私をかばうように。
そしてとても丁寧な口調で彼女に話しかける。
「同じ事務所の野上といいます。久しぶりに会えて嬉しいのはわかりますけど、僕たち急いでいるので、もう失礼させてもらいます」
藤沢さん、行こう、そう言って私の腕を引いた。そして体の向きを変えて一歩足を踏み出したところで、立ち止まると、彼女を振り返った。
「藤沢さんは大切なうちのスタッフです」
彼女がその目を丸く見開いた。私も驚いて野上楓を見た。
野上楓だけは、迷いのない目で彼女を見ていた。
「僕は彼女と一緒に作品を作っています。彼女がいるからいい仕事ができてます」
野上楓はそこまで言って、私の手を強く握った。
「いつか僕たちも賞を獲りますから、楽しみにしていてください」
彼女の目を見て、そう挑戦的な口調で言って、今度は私の手を引いてそのまま会場に入っていった。
振り返ることを許さない勢いで。
繋いだ手から、彼の体温が伝わってくる。
驚くほど熱かった。
会場に入ると、野上楓はようやく立ち止まった。
大きく息を吐くと
「ちょっといいすぎたかな」
そう、私を振り返った。野上楓は珍しく、怒った顔をしていた。
「だって、なんか感じ悪かったから、聞いていられなくて。もし、あの子と仲良かったらゴメン」
あんなに強気なことを言ったくせに、野上楓は今更困ったような顔をする。
俯いたまま、私は小さく声を出す。
「なんであんなこと言ったの?」
「え?」
「私と一緒に作品を作ってる、なんて、あんな嘘」
私は野上楓の腕を払うと、そのまま彼の胸を叩いた。
「私なんて何もしてないのに、あんな嘘…」
私を庇ってくれたことが嬉しかった。
だけど、その場の勢いとは言え、一緒につくっている、は言い過ぎだ。
どうしてそんな嘘を言ったんだろう。
「私なんてただの事務員なのに」
自分が情けなくて、涙が出そうだった。
「そんなことないよ」
頭の上で声がした。
「僕は毎日藤沢さんの料理を食べてるから、僕の体はほとんど藤沢さんの料理で出来てる」
振り仰ぐと、そこには笑った野上楓がいた。
「だから、僕の作品は藤沢さんがいないと出来ない。もし僕の作品がいいものだとしたら、それは藤沢さんのおかげだよ」
野上楓は表彰式の会場の方を見つめた。
「僕、賞を獲るよ」
「え?」
「できるだけ早く、賞を獲る。だからさっき言った事は、嘘じゃない」
私は目を見張った。
野上楓は小さく頷いて、私の目を真っ直ぐに見て、頷いた。
「全部、本当のことにするよ」
私にはわかる。
彼は絶対にそれを叶えるだろうし、そのためにとてつもない努力をするのだろう。
多分、寝る間も惜しんで働くのだ。
だから、きっと、さっきの言葉は現実になる。
そう思ったら、突然、目の前の野上楓の顔がふにゃりと歪んだ。
「え?!藤沢さん、ちょっと」
焦った野上楓の声がした。
私の頬を涙が伝っていた。それを見て野上楓がありえないくらい動揺する。
「え、ゴメン…え、藤沢さん」
私は慌てて涙をぬぐった。だけどどんどん溢れてくる。
会場へ向かう人たちが私たちを見ている。こんな目立つところで泣いたらよくない。わかっているのに、止められなかった。
「藤沢さん」
野上楓が私の手を引いて、私は俯いたまま後をついていく。
私たちは大きな柱の影で立ち止まった。
「泣かせて、ごめん」
そんな言葉と共に、私の後頭部に手が添えられて、私は野上楓の胸に引き寄せられた。
私の額は彼の肩の上で、そして頭に添えられた手が、あやすように優しく撫でた。
「落ち着くまで、いいから」
それを聞いたら、止めようとした涙が溢れてきた。
初めて会った時、私よりも背が低くて、女の子みたいにかわいらしかった男の子は、成長して大人になっていた。
大人の、男の人になっていた。
背は私より高くて、細身に見えて体つきもしっかりしていたから、私は彼の体にすっぽり隠れてしまった。
魔法みたいに作品を生み出せるその手は、意外に大きくて温かかった。
そのせいなのか、私は彼の胸で思い切り泣くことができた。
「抱きしめる」までいかない。
胸に額をつけただけの「抱きしめる」未満のその体制は、不安定なようで、その時の私にはしっくりきた。
一番落ち着ける気がした。
抱きしめられていたら、逆に泣けなかったかもしれない。
本当は彼に伝えたいことがあった。
私は悔しくて泣いているのでも、悲しくて泣いているのでもない。
ただ、嬉しかったのだ。
野上楓が、ちゃんと私をスタッフだと言ってくれたこと。
一緒に作品を作っているって言ってくれたこと。
いつか二人で賞を獲るって言ってくれたこと。
なんでもない自分が、何か大きな役割をもらえてみたいで嬉しかった。
そう思わせてくれた彼の言葉が全部嬉しかったのに、私はそれを伝えられなかった。
本当は今だって。
こうして支えてくれる彼の胸を、とても頼りにしている。
彼が支えてくれるから、私は安心して泣いている。
だけどそれをうまく言えなかった。
どう伝えたらいいのか、わからなかった。




