天才ではない方の人達
あの時以来、野上楓とは会話らしい会話をしていない。
先に突っかかってきたのは野上楓で、でもその理由は私だから、お互いが悪いとも言えるし、悪くないとも言える。
ちゃんと話せば誤解も解けて、険悪にならずに済んだかもしれない。
だけど今更謝ることも難しい。きっかけを掴めないまま、日が経っている。
昼食は今まで通り隣で食べているけど、かなりぎこちない。
明日の休みを前にキッチンの掃除をしていると涼子さんが来た。
「楓くんと仲直りした?」
涼子さんへ顔をむけると、にっこりとした笑顔で迎えられた。
「してないです…」
わかってた、そう言って涼子さんは苦笑いする。
私は涼子さんに事情を説明する。
野上楓にもらったプレゼントを使わずにいた事が原因だと。
「高価な物だったので、驚いて。しかも初任給で買ったみたいだし。そんな特別な物で買ったのかと思うと簡単に使えなくて」
私は俯く。
「でも、気に入らなかったと誤解されてしまって」
話してしまえば、些細な行き違いだ。
涼子さんは手際良くお茶の準備をしながら苦笑いした。
「美波ちゃんは、どうして値段がわかったの?」
「お返しに、私もマグカップをプレゼントしようと思ったんです」
野上楓にお返しをしようと思った。彼も事務所のカップを使っているから、マグカップがいいかなと思った。
そして知らなくていいことを知ってしまった。
「それ、楓くんに言った?」
私は黙って首を横に振った。
「大事な物を取っておきたい気持ちはわかる。でもプレゼントする人は愛用して欲しいと思うよね」
涼子さんは優しく微笑んだ。
「あのカップ、美波ちゃんに似合ってたから、楓くんも美波ちゃんをイメージして選んだと思うよ。気にいるか心配したんじゃないかな」
プレゼントするなら喜んでもらいたい。
その気持ちはわかる。
だって、私も同じことを考えた。
だからわかる。気に入ってもらえるか、不安になることも。
涼子さんは笑って、お茶とお菓子を載せたミニトレイを私に差し出す。
トレイの上のなんでもない、白いマグカップは野上楓の分だ。
「これは美波ちゃんが渡してきてね」
その笑顔に、私は苦い顔をした。
「でも」
「休み前に仲直りしてきなさい」
涼子さんに強く言われて断れない。
私はそれを持ってキッチンを出ると、勇気を出して野上楓に小さく声をかけた。
「野上君」
消えそうな声はそれでも届いたようで、野上楓が振り返った。
私とお菓子の載ったトレイを見る。それを受け取って
「ありがとう」
そっけなく返事した。
「あの」
弱々しく声をかけると野上楓が振り返った。眉が少し寄せられている。
引き留めたくせに、気の利いた言葉が浮かばないから焦る。
もう一度口を開こうとした時、社長がやってきた。
「楓、ちょっときて」
「はい」
野上楓はトレイを置くと立ち上がった。
「ごめん」
「あ、うん」
その後ろ姿を私はため息と共に見送った。
だけど、その後は話しかけるチャンスはなくて、結局仲直りできずに休みになってしまった。
***
翌日は本田さんと展覧会を見に行った。
建築と言われてビルばかり考えていたけれど、病院や学校のミニチュアや写真も展示されていた。本田さんが丁寧に解説してくれるから勉強になる。
2時間以上かけてじっくり回って、会場を出てから近くのカフェでお茶を飲んだ。
本田さんは話題も豊富で仕事のことから、趣味のギターの話も聞かせてくれた。
いつもそうだけど、この人と話すと笑っていられる。
「本田さんって面白いですね」
笑いながら私が言うと、本田さんは照れたように笑った。
「そうでもないよ。美波ちゃん聞き上手だから」
「仕事もしっかりしていて、すごいですよね」
だけど、私の言葉に本田さんは僅かに表情を固まらせた。それで会話が止まる。
「ああ、ごめん、気にしないで」
本田さんはそう言って笑うと、目の前のコーヒーを飲んだ。そして大きく息を吐く。
「しっかりやっているって言えば聞こえはいいけど、そう見せているだけ。実際は必死だよ」
「え?」
思いもよらないことを言われて、驚いた。
本田さんはいつも明るいし、仕事もちゃんとしている。何にでも余裕がある気がした。
「本田さんは締め切りをきっちり守るし、社長も本田さんの仕事はいつもほめているし、さすがだと思ってます」
社長が事務所を立ち上げてすぐにスカウトしたのが本田さんで、その完成度の高い仕事には厚い信頼があった。あの事務所には欠かせない人だと思う。
ありがとう、そう本田さんは苦笑いした。
「いやあ、もう必死。特に今年からは、一つ一つの仕事を死に物狂いでやらないと、仕事がなくなると思ってるよ」
その言葉の意味が咄嗟に理解できなかった。本田さんは肩をすくめてそんな私を見た。
「楓だよ」
本田さんはもう一度大きくため息をつくと、窓の外を見た。
「あいつ、すごいからさ。本当にあっさり、いいもの作っちゃうんだよね。あんなの目の前で見せられたら、かなりキツイよ。プレッシャーがすごい」
口調は軽いけれど、顔は真剣だった。
「あいつ、まだ大学生の時に賞を取って、その賞だってかなりすごい賞なんだよ。それでスカウトされて…正直まだ学生あがりだし、すぐに抜かされないだろうと思っていたけど、最初っからすごいの作るから」
それは、最初のあの仕事だ。あのホームページの仕事だ。
確かに素人の私が見てもいい物だった。
社長も涼子さんも褒めていた。だから本当にいい物なのだろう。
何年もこの仕事をしている先輩が思わず焦ってしまうほど。
先輩が自分の居場所がなくなってしまうのではないかと、不安に思うほど。
すごい事だけど、逆に残酷とも言える。
「俺はさ。凡人だから」
本田さんはそう言って笑った。
「必死にやらないとあいつみたいな天才には、すぐに抜かされちゃうんだよね」
そしてもう一度視線を窓の外へ向けた。
「きっと今もあいつは仕事してて、この間にすごいものを作っているのかと思うと、ちょっと怖い」
そこにいつもの明るい笑顔はなかった。
遠くを見て、わずかに口をあげて笑う。
人間は楽しくなくても笑える生き物で、怒っていても、悲しくても笑顔を作る事ができる。
今の笑顔はまさにそうだった。
楽しくもうれしくもない。辛いのに笑う顔。
いつもあんなに楽しそうに笑う人だから、反対にその笑顔が印象的だった。
「本当、ツライよ」
私と本田さんは、多分同じなんだと思う。
天才“ではない“方の人間。
天才にあっという間に抜かされてしまう人間。
野上楓に置いて行かれてしまう、人間。
野上楓と戦っていた時の私も、いつも怖かった。
また、簡単に負けるのではないかって。
頑張ってもダメなんじゃないかって。
あの時の自分が、今の本田さんに重なった。
「私、本田さんがいてくれてよかったって思います」
私の言葉に本田さんは我に帰ったように顔をあげる。
「本田さんのこと、みんなが頼りにしてます。私もそうです。勉強の相談にものってくれるし。そうだ、ホームページ、すごくよくできてました」
私は頭の中をフル回転させて、いろんな出来事を振り返る。
全部事実だ。
みんながこの人が好きで、この人と仕事するのが好きだ。
社長も涼子さんも本田さんには絶対の信頼を持っている。
この間のホームページはとても良かった。
本田さんが撮った写真はどれも色鮮やかで、人も生き生きしていた。あれはこの人でないと作れない物だと思う。
そんなたくさんの、小さいけど大切な事を伝えたかった。
本田さんには本田さんのいいところがあると、頑張る姿を見ているって思って欲しかった。
「今日も解説してもらって勉強になりました。とても楽しかったです」
すごい勢いで話し続ける私を、本田さんは驚いてみていた。
「本田さんは事務所のムードメーカーだと思ってます」
私はそれでも話し続けた。
「ええと、そうだ!本田さんいつもたくさん、しかもおいしそうにご飯を食べてくれるし。あんな風に食べてくれると、作る甲斐があるっていうか…」
そこまで言ったところで、本田さんが笑った。それをみてようやく、私は話すのをやめた。
確かに話が飛びすぎて、かなりおかしな流れになっていた。
気が付いて顔が赤くなる。
「……変なことを言って、すみません」
「ありがとう」
本田さんはそう言って笑った。
「美波ちゃんが来てくれて、事務所が明るくなったよ」
「そうですか?まだ全然ちゃんと働けてないし、まだまだです」
私は少し落ち込みながら笑った。
あの事務所の人はみんな、代わりの効かない人ばかりだと思う。
いなくなったら、物事が進まない。
だけど、私だけはそうじゃない。
私がいなくても、きっと事務所はいつも通り動いていく。
私だけが、なんでもない人間だ。
でも私以外の人はみんな、重要な人だ。
本田さんは首を横に振った。
「ご飯も美味しいし、仕事の効率も上がった気がする。みんな感謝してるよ」
そう言って本田さんは頷いた。
その顔に少し元気が戻っている気がして、安心する。
「ありがとう、美波ちゃん」
本田さんは荷物を持って立ち上がった。
「今日、美波ちゃんを誘って正解だったな」
先を歩く本田さんが私を振り返った。
「私も来てよかったです。勉強になりました」
そう言ったら、本田さんは大きく頷いた。
「また、誘うね」
その顔はいつも見せる、明るい笑顔だった。




