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悪夢は続く

泳ぎ方を忘れた魚は世界の流れに身を委ねることしか出来ず、もう此処が何処かも分からない。水槽という閉鎖的世界ではその魚は流れもないこの世界で死んだも同然、横たわり、浮かんでいく。彼女はまだ水槽の住人ではない。泳ぎ方を忘れない限り、彼女は生き続ける。しかし夢を見続ける限り、彼女の世界は狭まっていく。水槽よりもまだ小さい、一人分のスペースしかない部屋のように。ドアを開けて手を差し伸べる人はもういないと言うのに。もうそれは内側からしか開けられない。

"目を覚ませ"と声が聞こえる。彼女の意識はまた浮上する。視界に広がるのは見慣れた教室。そこで一人ポツンと結衣は座っていた。二人分の鞄が目に止まり、そういえば放課後に転校生への質問と回答をまとめる話をしていたなと思い出した。

「結衣ちゃーん!やっぱり帰りはトイレが混んでた!遅くなってごめんね!」

晴はハンカチで手を拭いながら大慌てで教室に転がり込み、早速真っさらな地理のノートを広げた。地理は苦手なのではなく、やる気がないだけだと結衣は確信した。テストの際には教科書を丸覚えしてくるため、不安がっていても点数に問題無い。晴の瞬間記憶能力は素晴らしいものだ。新聞部のエースと自称する彼女はスラスラと質問とその回答を地理のノートに綴り、よく覚えてられるなあと結衣は苦笑いを零す。ノートを覗くと『好きな食べ物、特になし』『嫌いな食べ物、甘過ぎるもの』『転校の理由、父親の仕事上の都合』『好きな女の子のタイプ、落ち着いている子』『恋人、いない』『趣味、本屋巡り』『住んでる場所、秘密』『家族構成、秘密』『特技、特になし』『好きな教科、世界史』『好きな男の子のタイプ、興味なし』『部活、元は陸上部』などと新聞の記事にはならなさそうな質問が書かれている。

「……お前らなにやってんの?」と結衣の上から更に覗き込むように掛けられた声に二人は顔を上げた。丸坊主のシルエット。クラスメイトの一人、木下直樹だった。野球部の練習はもう始まっている。掛け声が外からリズム良く聞こえていた。

「直ちゃんじゃん。それにこれは歴とした新聞部の活動です!」

へえ、と興味無さそうな態度で晴のノートを奪い、乱雑に書かれた質問と回答を見て、どうしてここまで覚えてられるのかと結衣と同じ感想を口にした。その言葉を彼女の前で言えば最後、天狗のように鼻を高くして晴は自信満々に「それが私なのだ。」と胸を張る。調子に乗るのだ。

「ああ…、そう…なんだ…。アキはまたこいつに連れ回されてんのか?いくら親友って言っても嫌ならハッキリと言うべきだぜ。新聞部でもないのにさ。」

木下の言うことは正しい。親友と言えども記事のために毎度連れ回されている結衣は迷惑してるのではと。女子のグループで数回断れば省かれるといった光景を彼も結衣も目にしたことがある。そのため彼女は断れないのでは?木下はそう考えていた。

「え?私、結衣ちゃんに結構断られてるよ。ほら一年生の時の学年主任ヅラ疑惑で、後が怖いから無理って断られたもん。私とカメラマンは停学になったし、結衣ちゃんは正しかった…。それと家の用事とかで。」

晴はあれは楽しかったと大笑いしているが、停学中の課題で結衣に泣きついてきた事をすっかり忘れているようで、泣きつかれた本人はしっかり覚えている。鞄に入れ忘れた部活の日誌を取り出しながら温かい目をしている木下の視線にまた溜息を吐いた。

「そう言えば喜多のこと調べてるなら、此処に来る途中ですれ違ったぞ。」

晴はノートを奪い返して鞄に突っ込んで大慌てで教室を出て行った。廊下から「結衣ちゃんも早く!」と大声で急かされ、二人で顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。煩い学年主任と鉢合わせしないよう、忍者の如く足音を消しながら晴たちは学校を後にする。彼女らの足は信号機によって止められた。ズキリと頭に痛みが走った。走り過ぎて頭痛がするのかなとしか結衣は気にも止めず、遠くに見える転校生を青に変わった途端に陸上部さながらのスタートダッシュで彼を追い掛けてゆく晴に、彼女は晴ちゃんは新聞記者になっていそうだなあと笑みを零しながら後を追った。転校生はふと止まって路地の方へと進行方向を変える。晴に追いついた結衣は物陰からその彼の動向を伺い、覗き込んでみるが建物の影で路地の様子は分からなかった。ただ聞こえるのは足場の悪い道を歩く足音。じゃりじゃりと響く音は遠くなり、その路地に入り込もうとする彼女の腕を掴んだ。不思議そうに結衣の名を呼ぶ晴に、もう追いかけるのは止そうと言った。

この路地に入れば最後、戻って来れないような気がしたのだ。奥にはきっと"彼"がいる。誰かは分からない。妙な既視感のある光景に結衣はこの路地に入ることを恐れた。

「ふっ…、結衣ちゃんってば怖がりだね!そういう時にはこうするんだよ!」

強引に掴まれた手は死人のように恐ろしく冷たい。ぞわりと寒気が走った。幾ら腕を引っ張られようと結衣の足は地面に縫い付けられたように動くことを拒むが、晴の手はぎりぎりと結衣を路地へと引きずり込もうとしており、その異様さに結衣は腕を振りほどいた。強引なところもある晴だが、人が嫌がることをする人ではない。

不意に結衣は彼女の腕を見た。そこには一昨日、色違いで買ったお揃いのブレスレットは無かった。自分の腕には橙色のブレスレット、晴の腕にあるはずの桃色のブレスレットがきらりと光っていた。

「結衣ちゃん、これでもう終わりにしよう?」

視界がぐにゃりと歪む。今まで立ち尽くしていた私はただただ広い薄暗い空間に座り込んでいた。立ち上がる気も起きない。私はどうして此処に居るんだろう。私は今まで何をしていたんだろう。ああ、そうだ。晴ちゃんとともに転校生を追い掛けていたんだ。路地に入って、それから──

「俺を目覚めさせ、そして出会った。」

何処からともなく聞こえてきた声に結衣は顔を上げた。そこには見覚えのあるシルエットがあった。だらしなく肩まで伸びた黒髪は水の中のようにゆらりゆらりと揺れており、髪の間から覗く三白眼気味の瞳は外人のような碧眼である。

「いつまでこうしている気だ。お前の親しい者は次々と死んで行くぞ。」

"目覚めたばかりの俺は、お前の周りに影響を及ぼすだろう。覚悟が決まれば此処に来い。そして俺と契約を交わせ。"

男の声が蘇る。…、一度彼とは此処で会っている。名もなき男。自分を魔力と自称する。漫画や小説の中で頻繁によく現れる言葉だ。フィクション及びファンタジーである。私はこれは私の夢の中の登場人物だろうと思っていた。彼女が死んでしまうまでは。この男の忠告をしっかりと聞いていなかったからだ。

…そうだ、どうして大事なことを覚えていなかったのだろう。井崎晴を殺したのは自分だと言うのに。親友を殺しておいて何故夢の中に居続けていたのか、現実を受け止めることもせずに。頭が割れるように痛んだ。忘れたままでいなさいと母の悲しむ声がする。それに相反する、現実を受け止めろと父の厳しい声がする。身体が思い出してはいけないと警告する。耳を塞いでも塞いでも、その声は続いた。逃げたくても逃げられない。起こってしまったものは変えられない。

「死んだ彼女の分まで生きればいい。」と男の声がした。

***

息をすうと吸い、結衣は目蓋を開いた。永遠とも感じられる夢を見ていた気がする。テレビ画面は砂嵐に覆われ、時計の針は仕事を終えてまた新たな仕事へと就ている。音も何も聞こえない此処は果たして現実か。それは冷めた晩御飯が教えてくれた。いつもと変わらない母の味。もうこれで最後である。私は親友を殺した。このままではあの男の言う通り、親しい者…両親や友人を殺してしまうだろう。いつもは甘い厚焼き卵はしょっぱかった。夢に落ちる前にしたためた手紙を食卓テーブルに、そして用意した紙に母へ大好きな甘い厚焼き卵つくってくれてありがとうと一言書き置いた。

広くも狭くもない温かい家を見上げた。チョコレート色のカーテンは私が布を選んで、母が作ったものだ。両親は甘いもの好きなため、大いに喜んでくれた。出窓に置かれた観葉植物はヘビースモーカーな父が副流煙や受動喫煙などと心配しつつも煙草をやめられずに空気清浄機を買えば良いもの、何故か観葉植物を買ってしまい、仕方がなく此処に置かれたものだ。観葉植物を買った理由を必死に説明する父の姿に母と二人で笑ってしまったのをよく覚えている。もうこの家にはいられない。


真夜中の通学路は人通りはもちろん、車通りも全くない。いつも晴と待ち合わせする木の下には忘れ去られたように萎れた花束が一束だけ供えられていた。ざらりとする木肌を撫でる。彼女との出会いをもたらした大切な思い出の詰まった木だ。その木にも別れを告げて、結衣は当てもなくふらふらと夜道を歩く。だが足は自然にあの路地へと向かっており、気がつけば彼女はその前に立っていた。空には太陽は昇っておらず、街灯もないその路地は闇に包まれている。この先に、悪夢が始まった場所がある。

穏やかな町の外観には程遠い洋館。煉瓦造りの壁に這う蔦はいっそう洋館独特の不気味さを際立たせており、僅かに開いた窓の扉からぼおっと光が零れていた。誰かが住んでいるようだ。…喜多くんだろうか。此処に来れば分かると悲しみにくれていた現実の私に転校生が告げた言葉だ。言葉の通りにこの場所にくれば何か分かるかもしれないと来てみたは良いが、静かな洋館に過ぎなかった。ふと、結衣は甘い考えが過った。まだ自分は夢の中にいて、現実の私は眠っているのだと。

「……、私って馬鹿だなあ。」と彼女は呟く。さっき厚焼き卵の甘さを味わったではないか。夢の中ならば味覚などの感覚は何もない。此処は現実だ。

「そうね…、貴方は馬鹿よ。こんな夜中に出歩くなんてね。」

交差点の中央で横断歩道に染みついた血を眺めていた結衣の背後から、聞き慣れた革靴の足音と共に鋭く感じさせる声が響いた。振り向けば信号機は赤色を灯した。根本から毛先まで真っ直ぐと伸びた艶のある黒髪はうっすらと赤みを帯びており、着崩しされていないセーラー服は彼女の性格を現していると同時に近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。

「貴方は案外行動力があるのね。迎えに行こうと家を訪れたら、ものけのからだもの。驚いたわ。私の周りには虚勢を張る人間が多いの。使い物になるのかはまだ分からないけれども。…貴方が新しい仲間で良かったわ、秋結衣。さあ、行きましょう。」

此方の様子にも構わず話を続ける女の子に結衣は腕を引かれて、半ば連れ去られるように来た道を戻る。彼女の向かう先は先程訪れたばかりの不気味な洋館。ただ一つ違うのは明かりの漏れていた窓は締め切られていたことだ。それ以外には何も変わらず、彼女はさも自分の家のように扉を開けた。その洋館に足を踏み入れる。目の前に広がるのは外観からは想像も出来ないほどの広さで、驚いたように辺りを見渡していれば女の子の歩みは止まる。

「驚いたでしょう?此処はアドルフの魔法で広いの。私も此処に初めて来た時には驚いたわ、こんなことがあるなんて、ね。」

腰まで伸びた髪がさらりと揺れて、女の子の口元には笑みが浮かんだ。もちろん結衣が魔法という言葉に首を傾げていることには気づいておらず、人の事をお構いなしに突き進む姿は何処となく彼女に似ていた。

「貴方はどんな魔法を使うの?私のように魔力を物質化して戦うのかしら。接近系、遠隔系、それとも──」

「ちょ、ま、待って待って!待ってください!あの、よくわからないんですが…、魔法って…?」

慌てふためく結衣の様子にぎょっとして振り向く。知らないの?と言いたげに。…本当に、此処は現実なのだろうか。話が飛躍し過ぎて頭がパンクしてしまいそうだ。…もうパンクしている。

「…ごめんなさい、貴方を契約済みだと勘違いしていたみたい。いきなり知らない話を振られて、困惑したでしょう。……まずは、彼に会いに行きましょう。そして契約を交わしましょう。」

魔力、魔法、契約…私は今度は一体何処へ向かうのだろう。一方的に話す癖のある女の子に連れられる先には不思議で理解出来ないものがきっと待っているのだろう。もしかしたら彼がいるのかしれない。

長い長い廊下を歩く。廊下の壁には肖像画が掛けられており、皆目蓋を閉じて眠っている。これらに共通しているのは結衣と同年代の少年少女達。手に持って眠るのはアネモネの花。絵を眺めている結衣を横目で彼女は見ながら、もうすぐよと声をかけた。

「…この扉の向こうに彼がいるわ。……そのまえに聞きたいことはあるかしら?彼は全てを話してくれると思うけれど、混乱を防ぐためにも予備知識は必要と思ってね。」

早とちりで不快な思いをさせてしまったかもしれないと反省しているらしい。恐る恐る結衣は「貴方の名前を聞いていいですか?」と問い、彼女はきょとんと予想外の質問に驚いていた。

「名前…、言ってなかったわね…。私は暮橋紅葉。貴方とは同年代よ。」

ほっと胸を撫で下ろした。貴方に名乗る名前なんて無いわと言われてしまうのかと身構えていたのが馬鹿のようにあっさりと素直に答えてくれた彼女はただ名乗るのを忘れていただけだったようだ。

「魔力とか契約?はどういう意味なんですか?」「簡単に言うと魔力は私達の命の源よ。」と彼女は胸に手を置いた。

「此方側の世界では魔力は認識もされない余分なものだけれど、彼方側の世界では魔力は私達の命となるの。そして魔力は自分を守る盾となり、敵を切り裂く刃となる。自分の中に魔力の存在を認識すれば、意思とは関係なく魔力が目覚める。…そのまま放置していれば、周囲の人間に影響を与える。影響を受ける人々はどう足掻いても死んでしまうわ。例えば何かに取り憑かれたように狂ったり、突然事故や事件に巻き込まれたりして死ぬのよ。…私の場合は、両親が殺し合って死んだわ。

魔力の影響を周囲に与えないように自分の中だけに留ませるために契約するのよ。…そう聞かされているだけだけどね。」

真っ直ぐと揺らぐことのない瞳は悲しみを帯びて、私に語りかけていた。自分も彼女と同じ思いを。

「貴方が聞きたいことはこれぐらいかしら。…これ以上私が確証を持ち得ないまま語るよりも、……上辺だけでも彼から全て語られる方が良いわよね。もっと詳しく知りたいなら彼に聞きなさい。」


「じゃあ…頑張ってね。……また会いましょう。」

彼女は結衣を安心させるようににこりと笑みを浮かべて、一人踵を返して彼女らの中へと消えていった。

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