現実の狭間で
プロローグ
まだ女と呼べる年齢ではない少女はベッドに横たわりながら数日前から位置を変えないリモコンに手を伸ばし、テレビのチャンネルを変える。連日報道されていた話題が嘘のように息を潜めた。息を止めた。今度は"介護疲れの果てに夫を殺害した妻"という話題で息をし始める。話題という心臓から送られる血液は知ったような口振りでへらへらと語るのだ。それを視聴していた細胞達はああだ、こうだ、と主張する。身を寄せ合って群れる事しか出来ない、次の日には誰かが死に、そして生まれる存在だというのに、顔も名前も報道されるまで知らなかった赤の他人の死に敏感なのだ。"次は自分かもしれないのにな"と彼は語る。しかし彼らは気づかない。
涙で枕を濡らし、嗚咽混じりに少女は親友の名前を呼ぶ。死人に口無し。幾ら名前を呼ぼうとも、応える声は今はもうない。枯れることを知らぬ涙が少女の瞼を赤く腫れさせる。未だ冷めない熱は涙に伝わり、温かな雫が流れ落ちる。親友の死に少女の胸が張り裂ける。その傷口から染み出すのは熟した柘榴とは程遠い紺碧の海。水泳が得意だと笑う少女は沈んでいく。海底に潜んでいた禍々しい黒い何かは少女の身体を雁字搦めにして、自我を取り込もう、身体を奪ってしまおうと躍起になっている。少女は僅かに抵抗を見せて、自分を覗き込む影に手を伸ばす。その様子を水面から見下ろすのは何者か。
***
目覚まし時計が鳴る数秒前。少女の意識は急上昇し、気分は急降下した。そのまま飛び起きれば、ぺたりと肌に張り付くTシャツ。不快感を覚えて、今すぐにも脱ぎ捨ててしまいたいがそうする気も起きないこの精神状態。今の夢は──
部屋にけたたましく鳴り響き始めた音に思考は邪魔され、考えるよりも先にうるさい!と目覚まし時計に手が置かれていた。眠気が一気に覚めると同じくして、身体を覆う倦怠感は剥がれ落ちた。嫌な夢でも見たのだろうとだけ心を落ち着かせるが、私の意思と反して心臓はドクドクと脈打つままである。溜息を吐いて、濡れる寝間着を脱ぎ捨てた。
「あら!今日は一人で起きられたのね!」と下へ降りると母が微笑みながら朝食を作っていた。耳の痛い言葉をスルーして、いつもより少し早い支度に掛かった。
鏡に映る私が結い上げた髪は相変わらず何処か曲がっていて、この不器用さは父親似である。髪を結ぶたびに溜息が出てしまうのだ。
「結衣ちゃんおっはよう!」
朝食をのんびりと食べ終えた頃にはもう夢の事は忘れており、待ち合わせの場所へと足を急がせていた。この一際大きく明るい声は私の頬を緩ませる。幼馴染であり親友である井崎晴の声だ。此方に手を振る姿はまさに元気の塊だったが、晴の元へと行くと彼女の目元にはくっきりとした隈が出来ていた。
「おはよう、晴ちゃん。隈がくっきりだよ。もしかしてまた徹夜?」
学生である私達にとって最も忌み嫌われる定期考査が一週間後に行われるのだ。井崎晴は勉強が大の苦手である。得意な教科は体育だけという絵に描いたような体育会系だ。彼女とは反対に結衣は特に秀でるものはなく平均的で、強いて言うならば晴と同じく体育が得意と言えよう。
「…うん!えへへ。……地理が全く分からないんだ。」
一瞬何かを考え込むような素振りを──いや気のせいかもしれない。気のせいでは無いとしても、晴ちゃんには晴ちゃんなりの事情があるのだろう。間に合うかなあとやや眉を下げるも笑みを絶やさない彼女を私は「晴ちゃんなら大丈夫だよ。いつもそうでしょ。」と普段とは少し様子の違う親友を心配しつつ励ます。
「もうテストなんて知らない!
……そんなことより大ちゃん先生から聞いた大ニュースでーす!結衣ちゃんが風邪で欠席してたときの話だけど、なんと!今日は転校生が来るって!新聞部の次期エースの血が騒ぎます!」
晴はわッと応援団並みに声を張り上げ、横断歩道で立ち止まっていた中年男性は驚いて振り向くが和気藹々と会話に花を咲かせる子ども達を見て、俺にもああいう頃があったなあと微笑ましく思いながら信号機が青く染まったと同時に歩き始める。温かい視線を送られた彼女らも見え始めてきた校舎へと横断歩道を渡り始めていたときだった。自分らよりも数秒早く前に出た学生が結衣の横を通り過ぎる。結衣の視界の端で揺れた黒髪。そしてセーラー服。晴と結衣が通う学校の制服はブレザーだ。丸みのある小さめの襟、その下には赤いリボンタイ。セーラー服を見るとやはり憧れるものがある。それにしても私の住む地区に制服にセーラーが指定されているところはあっただろうか?
「結衣ちゃん?どうかしたの?」
考え込んでいれば晴の手がひらひらと、結衣の顔の前で振られていた。考え事をしているうちに学校に着いたようだ。テストのことを考えてたと言えば、真面目なんだから!と晴は不貞腐れた。…先程の違和感達は間違えかもしれない。きっと転校生の話に浮き足立っているのだろう。晴ちゃんも、そして私も。
彼女らが所属するクラスのSHRは大坪大貴という男の惚気によって始まる。時には惚気話で終わることもあり、うんざりする者やもっともっとと合いの手を入れる者も居る。晴は断然後者で、結衣の場合は段々と眠気に襲われていく。しかし今日は不気味なことに惚気の"の"の字も無く、大半の生徒は喧嘩でもしたのだろうかと首を傾げて、一部の生徒はこの後に起こる一大イベントを今か今かと待っていた。
「今日も元気に惚気たいところだが…、なんと今日は転校生が来ています!女子は必見、男子は覚悟!」
カタンと小さく響いた音の方向に視線が一斉に移った。女子は男子生徒を望み、男子は女子生徒を望む。そんな願望と期待が入り混じった中で扉に手をかけた転校生は男子生徒であった。彼はクラスにもちらほらと居る"制服に着られている"生徒ではなく、着崩すこともせずにさも私服のようにキャメルのブレザーを着こなしている。髪は襟足に掛からないよう刈り上げたみたく短めに切り揃えられており、見た目は非の打ち所が無い優等生である。
女子生徒は大喜び。男子生徒は消沈するも我が部活に引き入れようと虎視眈々と狙い始めていた。
「喜多修也です、宜しく。」
明るくも暗くもない平坦で静かな声音。スタンダードな挨拶は彼をクールだと印象付ける。喜多の声に対応したように場が静まり返った中で一人の男子生徒が「ヘイ!」と元気良く手を挙げた。彼はお調子者でありクラスのムードメイカーまたはムードブレイカー。その名は木下直樹。
そのお調子者に釣られたのか担任は「お、質問か。」と呑気に答える。今日は惚気話に代わって転校生への質問大会になり、このままSHRは終わるだろう。だが次の授業は大坪が担当する数学である。生徒が楽しければ良いと教師らしくないポリシーを掲げる大坪は授業を潰して続行するだろう。そのため生徒からは大人気であるが、その反面学年主任に嫌味を言われている場面をちょくちょく目にすることもある。
質問大会はこれにより開幕した。参加しているのはほぼ全員で一部の男子は拗ねたように、机に顔を擦りつけている。いっぽう結衣は次々とクラスメイトがする質問と考えていた質問が全て被ってしまい、聞きたいことは聞けてしまったので新たに考えることもなく外に目を向けていた。グランドでは組も学年も分からない生徒達がのんびりと外周している。春を終えて、夏を迎える季節。桜は既に散ってしまい、青々とした葉が蒸し暑くなりゆく風に吹かれて揺れている。その刹那、突風に吹かれて葉が二枚、枝から離れ去っていく。彼女らは何処へ行ってしまったのだろうか。
ふと転校生に視線を戻せば、これだけの人数に質問攻めされているのにも関わらず、顔には疲れの色など全く見えもしない。薄っすらと笑みを浮かべて喜多はクラスメイトの質問に簡潔で丁寧に受け答えしている。その様子を至近距離で見つめる晴は何か思いついたらしく、口元を覆った手の下でにたりと笑う。思い立ったが吉日と言うように結衣が座る席の方向に振り向いて、"これ終わったら話そうね!"とジェスチャー。結衣には一応伝わるも、今まで自分を穴が空きそうなまで見つめる視線がいきなり方向転換すれば先程まで涼しい顔をしていた喜多も少し目を見開いた。驚いたように晴を見ていたが視線を辿って、かち合う視線は結衣のもの。何か言いたげに口を開くも校内に響いた時報によって掻き消され、何もなかったように口は閉じられる。
自分のクラスを目を細めて楽しそうに眺めていた大坪は、ああ、もうこんな時間かと呟いた。新たに加わった可愛い教え子にこのクラスの中でも比較的おとなしめの生徒の隣の席を指差す。席の持ち主である転校してしまった酒井という生徒も優等生であったが、あの席は優等生が座る確率が高いらしい。喜多の場合はさておき、俺のクラスは公平を期すために担任である自分が皆の席のクジを引く。席が優等生を引き寄せるのか、左手の運が偏り過ぎているのかは謎である。
「ええと…秋結衣です。困ったことがあったら遠慮なく聞いてね。」
結衣は当たり障りのない挨拶をしたつもりであったが、喜多は目を細めて彼女を見ていた。まるで研究者の眼差しである。
「……早速何か聞きたいことですか?」「…僕は目が悪いんだ。気分を害してしまったのなら謝ろう。」
結衣はふっと脱力した。内心では何かしてしまったのかと冷や汗を吹き出していたが、脱力してもなお汗が引きそうにない。この場から逃げるように晴の元へ駆け込み、そのまま休むことなく彼女に廊下へ連れ出される。
「秋部長は流石仕事が出来る女!あの数分でターゲッツと仲良くなってしまうなんて、なんて子…このままでは私の社長の座が危ういわ……!!」
唇を噛み締めて般若の如く結衣を睨みつける顔は心底悔しそうである。井崎晴には若干だが妄想癖があり、周りには害を与えはしないがその場のノリで付き合うと面倒な事に巻き込まれるのは目に見えている。だが結衣は呆れながらも断りきれず、その場に流されて苦笑を浮かべた。
「今日は何をするの?ターゲットって転校生のこと?」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに彼女は胸を張る。晴は誰もが思わず手に取って読んでしまいたいと思う記事のネタを、優れた運動能力を生かして校内を走り回る新聞部の足であり要である。今回は転校生を記事にしようと考えているらしい…。
「流石!話が早い女、秋結衣部長!授業中の転校生観察お願いするね!」と言われてから仕方がなく観察すること三時限目。欠伸を噛み殺しながら板書を事務的に書き写していく。指の上で踊るものは学生の必需品であるシャープペンシルではなく、今時の学生では珍しい鉛筆で芯は尖ったままである。一限目での質問大会では、彼は勉強は比較的好きなほうだと答えている。しかし手元にあるのは白紙のノート。
踊り続けていたマリオネットは動きを止めた。観客に過ぎなかった少女に彼は語り掛ける。あんなに騒がしかった教室内は静まり返っていた。彼の瞳が哀れな娘を写すと同時にピシャリと声が止む。泣く子供を慰めるように、言い聞かせるように、そして声が響いた。
「早く目を覚ましたほうが良い。それが君のためでもあり──」
誰かの声が途絶える。椅子に座っていたはずの身体は引っ張られるように床に沈み込み、あの夢と同じ黒い何かが彼女の足を掴んでいる。触れられた部分から体温が盗まれていく感じがした。身体を蝕むように恐ろしい冷たさがやってくる。何故だろう。私はこの冷たさを知っている。隣に居た誰かはもういない。周りにいた誰かはもういない。たすけをもとめたこえはとどかない。
***
カーテンの隙間から漏れた陽射しにくらりとしながら意識は浮上した。仕切りにより隔離された休憩所。周りからは生徒の呻き声と啜り泣く声が聞こえた。鈍い痛みが宿る後頭部をさすりながら布団から抜け出し、「目覚めたのね!良かったわあ〜」と安堵した声を吐息と共に吐き出した保険医の姿に私はようやく記憶が途切れる以前の映像が朧げに脳裏に浮かんだ。体育で貧血を起こして、保健室に向かう途中で階段で足を踏み外して転げ落ちたらしい。しかしその体育の授業が綺麗さっぱり吹っ飛んでいる。三時限目の授業はしっかりと──?
「…秋さん?あら顔が真っ青よ!目が覚めたことは良いことだけれど、もう少し休んで行きなさい。」
そう言った保険医は結衣の背中を摩りながら彼女はまたベッドに舞い戻った。混乱している彼女にとってそれは好都合で、そして嫌なほどに煩い鼓動を静めるため少女はベッドに身体を沈めた。
"──いつまでこうしている気だ。…現実から目を背けるな。"
唇が言葉を紡いだ。内側に潜むあれに一瞬身体を乗っ取られる。…私は、何かを忘れている、この声を知っている。
途端に吐き気が波のようにやってきた。思い出してはいけない、いや、思い出したくない何かと共に。喉が嫌な音を立てた。腹から酸がせり上がる。思い出すことを身体が拒否している。そして結衣の頭には唯一無二の親友である井崎晴の笑った顔が浮かんだ。
赤が視界を塗り潰した。血だ。視界の端でぼんやりと光るのは青色。横断歩道の信号機だ。目から得た情報を脳は否定した。結衣はそこに倒れている何かを判別出来なかった。足が自然にゆったりと進められている。脳はそれを受け入れた。結衣は全身の力が抜けて、立っていることもままならない。その後、まだ生温かい血が跳ねた。スカートに血が染みる。カフスに血が染みる。彼女は徐々に冷たくなっていく。彼女から血が流れていく。結衣から涙が流れていく。…ああ、これは井崎晴だ。だったんだ。
蛇口を捻れば水が流れるように、一つ思い出せば、後を追うように記憶が蘇っていく。親友の笑顔。横転したトラック。血に染まった親友。カメラのシャッター音。響くサイレン。向けられるマイク。そして彼女の葬式。
井崎晴は即死であった。苦しまずに死ねたことが、せめてもの救いだったと医師は語る。子どもを轢いた記憶なんて無いと語った酔っ払いの運転手には手錠がかけられた。親友を目の前で亡くした少女には同情的で慰めの声が多くかけられた。ああ、なんて可哀想なんだと世間は涙を流す。それでも彼女は晴が死んでいないと思い込んだ。
「いつまでこうしている気だ。…現実から目を背けるな。」
内側から声が響く。まだ認識されていないため、現実の彼女に声は届かない。それでも声は続く。
「お前はこれ以上苦しまなくていい。お前の求めるものは此処にある。早く…早く来い。手遅れになる前に。お前が壊れる前に。」と誰かの声が聞こえた気がした。




