終演の鐘は鳴る
天井まで伸びるゴシック調の本棚にはぎっしりと今にも飛び出てしまいそうなほどに本が詰まっており、本棚には入りきらなかった本は床に乱雑に積まれていた。この図書室のような部屋には本に埋れながらも生活感漂う家具が置かれていて、誰かが住んでいると辛うじてわかる。だがやや埃っぽく、手入れはされていないように見えた。部屋の奥には小さく火が灯っている。窓が開いているのかゆらりゆらりと揺れていて、影は長くなったり短くなったりと自由気ままに動いていた。
「…こんばんは、秋さん。此処では初めましてだね。」
窓際に置かれたソファに腰をかけ、手にしている本から視線を上げることなく結衣に話しかける少年は影がかかっているが見覚えのある顔である。そこにいたのは先日転校してきたばかりの喜多修也だった。形式的に挨拶は必要だろうと顔を上げながら笑い「改めて紹介しようかな…、僕は喜多修也。」と明るくも暗くもない平坦で静かな声音だった。
「君はまだ契約していないんだろう?なら早く契約したほうがいい。…また誰かが死んでしまうからね。」
パタンと本は閉じられた。足を組み直した喜多は結衣の返答を律儀に待っている。優しげに見える瞳の中には彼女はいない。まるで絵画を見つめているようだ。
「…喜多くんは晴ちゃんが、ああなることを知ってたの?」
"これは君が引き起こしたもの。…いや正確には君の中にいる住人が、だ。"
"何も知りたくなければ、そのままでも良い。…君に、その覚悟があるのならね。"
"…もし知りたいのなら、これが始まった場所に行けばいい。"
クラスメイトが死んだにも関わらず──数日の関係だったが、悲しむ姿も見せずに彼は結衣の耳元でそう囁いた。親友を亡くしたばかりである彼女に、そして親友を殺したのは君だと言ったのだ。何を考えているのか分からない。酷く驚いたし、…薄気味悪いとさえ感じた。
「彼女は君の大切な友人だからね。…ああなるのは想定の範囲内だ。君もきっと、君の中にいる住人に聞かされていたはずだろう?……忠告はされている。こうなってしまったのは君に落ち度があるとしか、僕は考えられない。」
淡々と文章を読むように並べられた言葉は結衣の心をいとも簡単に抉った。決意を固めた胸が悲鳴を上げる。彼女の顔が苦痛に歪む。そう、…これが現実だ。夢の中に留まっていた分、その倍以上になって彼女の前に現れた。
「…君の前に座っている僕は此処は現実だと感じている。即ち、君も現実に居るということだ。…君が逃げていた間、君の中の住人は周囲の人間を蝕んでいる。早く契約を済ませなければ、新たに誰かが死を孕む。」
また誰かが死ぬ。私のせいで。…だけど、私にはその契約の仕方が分からない。俯いたまま動かない結衣の様子に怪訝そうな表情を浮かべて喜多は呟いた。
「…なら、また眠らせてあげるよ、結衣君。」
小さく動いた唇に聞き取れなかったと聞き返そうと動いた思考は止まり、ネジの切れた人形のように結衣の身体は崩れ落ちた。部屋には鈍い音が響いて、いくつか積み上げられた本が倒れる。その影で読書に耽っていた外人男性と目が合った。眉間に寄った皺は日本人よりも彫りの深い顔では威圧感が増すが、体育座りで本を読む姿では寧ろ半減した。彼の名はアドルフ。喜多修也の協力者であるドイツ人だ。
「何も言うつもりはないが、シューヤは悪趣味だ。」
倒れた衝撃で舞い上がった埃を見て、嫌そうに顔を歪める男は読んでいた本についた埃を払いながら立ち上がった。腕に四、五冊の本を抱えて出て行こうとする彼の背に「なるべく早く返してくれ、アルフ。」と声をかけるも、手を上げるだけで数ヶ月はあの本はお預けらしいと喜多は少し冷めた珈琲を啜った。探究心旺盛なのは良いことだが、足を突っ込み過ぎるのは良くはない。"知り過ぎている"ということで、迫害を受ける時代すらこの世にはあったのだ。…迫害以上のものだったが。だが彼は生き残りであるとともに大人である。引き際の見極めぐらいはつくだろう。どのような結果が待っていたとしても。
さて…、彼女は目覚めるだろうか。強引な手を使ってしまったが、内なる住人がどうにかして目覚めさせるだろう。些か不愉快ではあるが、任せるに越したことはない。止まった時計の中にある部品を覗くことは出来るが、自分にはそれを直せはしない。そもそも彼には直す気など到底ない。扉を一つ挟んだ気配は心の内でそう言った。
「僕の目が確かなら、君であってほしいよ。」と喜多はそう呟いた。
***
海へと突き落とされた身体は浮上することなく、底へ底へと引き摺り込まれるように沈んでいく。陽の光を当てられて、きらきらと宝石が輝くように水が揺らぐ。輝きの海には何種類もの魚が優雅に泳いでいて、落ちる少女の背後には深い暗闇が迫っていた。数十秒も経てば光の届かぬ海底へと辿り着く。何もないただ広い空間。時間が巻き戻されたように青白く発光する小さな雪のようなそれは上へ上へと登っていく。その中で一際明るい橙色の光が灯る。
此処は何処だろうと意識を取り戻す。捨てたはずの夢に戻ってきたのだろうか。眠りに落ちれば私の意識は楽しかった日々の記憶の中に引きこもり、眠りが覚めるまで出てくることはなかった。夢を見るたびに罪が積み上げられていく。忘れてはいけない。私は人殺しだ。
「…ようやく覚悟を決めてやってきたか。」
あの声が聞こえた。夢に引きこもるたびに、私を現実へと引き戻す声が。あの碧眼の姿は何処にも見えない。青みがかった視界に赤と言う色が増える。少女の肉を皮膚を破って、鮮血で辺りを赤く滲ませながら少女の胸から男の腕が突き出る。身体は弓なりに反り上がり、自分の中から這い出るものに恐怖を覚えた。引きちぎられた肉に碧眼の男が触れるたびに身体は悲鳴を上げる。
「何を怖がる?俺はお前だ。お前は俺だ。何も怖がる必要はない。」
ぽっかりと空いた胸の穴。男が自分の中から出て行った瞬間、あんなに拍動して煩かった鼓動は止まった。それがあるはずの胸に手を当てれば、脈打つものは無くなっていた。
「俺の手を取れ、秋結衣。そうすればお前との契約は完了だ。」
暮橋さんが言っていた魔力は自分の命だと。目の前にいる抜け出たものは…、即ち私の心臓である。心臓が無いのにも関わらず、私は生きている。軽くなった胸に少女は俯いた。
「…わけがわからない。」蓋をしていた何かが消え失せ、堰を切ったように彼女の感情が溢れ出す。目まぐるしく変わっていった世界の流れに彼女の思考はついていけなくなり、考えるのをやめて、彼女は遭難状態だ。此処が何処かも分からない。そもそも此処へきた過程は?私は何をしていたのだろうと。一種の記憶障害である。記憶に鮮明に色濃く焼き付いているのは彼女から流れ出た血の色である。壊れたテレビのようにノイズがかかってそこで止まっている。そこから結衣は考えるのを放棄した。いや何も考えられなかった。
「……契約しに来たんだろう?早く手を出せ。」
上からの物言いに無性に腹が立った。悲しみに満ちていた今はもうない心臓を怒りが支配していた。今までにないくらい感情が高ぶる。泉のように湧き出てくるそれを彼女は止めることが出来なかった。
「……わけがわからない。魔力?契約?ふざけないでよ、そんな現実離れした話を信じれる?私は今まで普通に、生きていたの、そんな…何でこんなことに巻き込まれないといけないの!?」
少女の心が壊れ始める。男は黙ってそれを聞いていた。此処は少女の精神世界。深い眠りについた時にようやく入ることの出来る場所だ。少女は覚えていないだろうが、彼女は此処を何度も訪れている。そして俺は一度目の時のように何度も同じ言葉を口にする。…もう茶番劇は終わりだ。現実を歩み始めたこいつには、自分の、そして彼女の欠落している記憶の中にある話をしなければならない。
「…黙れ。口を閉じろ。お前の心も言葉も知っている。痛みも、悲しみも、苦しみも…俺に対する憎しみも全て知っている。
井崎晴が目の前で死んだ心の痛みを知っている。死んだ悲しみを知っている。死んだことを認めたくない苦しみを知っている。そして魔力を、俺を憎んでいることを。だから、今は俺の話を聞け。」
耳を覆う手を掴み、無理矢理顔を上げさせる。少女の顔は涙でぐちゃぐちゃとなっており、流れたそれは雪と交わって瞳からは淡く輝く星のように零れ落ちている。
「このままではお前は俺に取り込まれて死ぬ。馬鹿な事を考えるなよ、魔力の影響で狂って死んでしまった人間の元には死んでもいけない。そいつは天国にも地獄にも行けない。それはお前もだ。此方側の世界じゃない、彼方側…魔力がお前の命となる世界で亡霊のように彷徨っている。」
「俺はお前のように俺の前に現れた人間に契約を迫った。それが俺の使命であり、願いであるからだ。
お前らから俺は全てを奪った。俺が目覚めなければお前らは普通に日々を過ごしていた。全て俺のせいだ。そんなことは元からわかっている、わかっていた。何度も味わった苦しみを。
俺が宿り、俺を目覚めさせた人間は現実に耐え切れず、二度と俺の前に現れることはなく俺に取り込まれていった。だがお前は俺の前に何度も現れた。」
「お前がこれを終わらせろ。俺がこれを終わらす。全ての原因であるあいつを俺は殺す。始まりに戻るにはそうしなければならない。…お前が井崎晴との日々に戻るには、こうする他はない。」
苦しそうに顔を歪ませ、涙を流して語る男は少女に手を差し伸べた。この手を取れば私はわけのわからないものに巻き込まれていく。取らなければ私は死ぬ。…そして、この男の心も死ぬだろう。
晴は違う世界で彷徨い続けている。それを放っておいて置くことが出来るだろうか。いや出来ない。もしその世界で晴と出会うことが出来れば、連れて帰ってこれる可能性だってある。この手を取る。私にはその選択しかない。
…全てを知っている。嘘ではないと私はその言葉を信じた。私達のために涙を流した人はみな、ああ何て可哀想な子達なのだろうと劇場で観客席に座って悲劇を見ていたように泣いているのだ。私達のために本当に泣いてくれる人なんて現れもしなかった。それが目の前に居る。結衣は涙を拭って、その手を取った。
少女は目蓋を開いた。十数年暮らしていた見慣れた部屋ではない。殺風景なら室内にあるのは最低限生活が出来るような家具が並んでいる。体を起こそうにも鉛のように重く、ベッドに沈んだ。自然と手は胸に置かれていた。穴は空いていない。心臓もちゃんとある。まだ寝ていたいと目蓋を閉じかけた瞬間、顔を覆った影が視界に入った。碧眼の男だった。
「な、なんで…いるの…。」「契約が済んだからだ。契約しなければ俺は影響として辺りに漂い、一つの形にはなれなかったからお前の前に現れなかっただけだ。」
ハッとして胸に置いた手を上げた。良かった穴は空いてなかった。安堵するように溜息を吐いた結衣の様子を見て「名前が無いと不便だろう、だから貰いにきた。」と鼻で笑った。どうして私が名付けなければいけないのだろうか。ペットでもあるまいし。いや生態系ピラミッドの頂点に立っている人間の命を取り込む存在だ。…どれほどの命を取り込んでしまったのだろう。一つの群れみたいなもの、群れ…か…。
「群青色…、群青って言う名前にしたら?嫌なこと思い出させるかもしれないけど、命の群れみたいなものかなって思ったから。それと目が綺麗な青色だし、丁度良いかなって。」
絵の具として使うためにラピスラズリを砕き出来たその色が群青色と言うらしい。様々な青が群れてできたとも。ラピスラズリの石は天空の象徴とされる。彼の瞳は青空をイメージさせられる。それに幸せを運んでくれるとも言われているらしく、何だか皮肉めいた感じになってしまうが、それは言わないでおこう。少しは安心して眠れるだろう。死んだものは生き返らないが私のせいで誰も死ぬことはない。私に出来るのは…、一つだけ。
「……今は眠れ。明日からはきっと──」
群青の言葉はそこで途絶えた。疲れ果てて眠りに落ちた結衣を見届けて彼は立ち上がる。悪趣味な部屋だ。どこもかしこも魔法がかけられている。どんな魔法なのか見分けれる観察眼は持ち合わせていない。分かるのは質だ。…どれほど長い間、紡いできたのだろうか。何らかの弾みで目覚めた或いは取り込んだ彼女らとは違う。腹が立つほど穢れのない魔力だ。羨ましいとも思える。俺は、いや俺たちは穢れが生み出した存在だ。汚れのないものを汚してしまいたいと思うのは悪なのだろう。思わず上がった口角を隠すように彼は重ね合わせられた際に生まれた穴に手を捻じ込んで魔法を引きちぎった。




