重荷を背負う
新連載です。悠月です。
第1章もクライマックスへと向かっています。厳しいお言葉含め、感想・アドバイスお待ちしております。
第9話 重荷を背負う
霹歴二〇三〇年 第四月 第四日
午前、ホリキュピオの女史ティリア・モントーレと面会。
前回の私の答えに納得していない。
私の答えは「現状、紅桔梗としては介入できない」というもので、これはギルド長と相談した上で出した紅桔梗公式としての結論である。にもかかわらず、彼女は私個人の判断を変えさせようと面会を申し込んでくる。
エルフは時間の使い方が下手だ。私の倍以上生きているのだから、人間の三日が惜しい時があることくらい、想像出来るようになってほしい。
午後、市場の北口で巡礼者と称する男が三名立ち話をしている姿を見かけた。腰の剣の質と、視線の流し方が、巡礼者ではない。聖王国の聖騎士か、あるいは似た訓練を受けた者と推察。情報班に共有のメモを一枚。
夜、ヘルバが酒場で椅子を壊した。理由を聞く前に書記係から呼び出され、私が処理する分の事務が今日もまた、十二件。
寝る。
寝て、起きたら、書類は増えている。これは法則であり、宿命である。
◇
霹歴二〇三〇年 第四月 第五日
午前、ホリキュピオから至急の連絡。国宝が消えた。詳細はまだ不明。
紅桔梗には、奪還ではなく情報の収集と類似事案の照合の依頼。
神杖。ホリキュピオの国宝であり、神器そのもの。生きているうちに、「国宝が消えた」などという文字の並びを見ることが出来るなんて。昨日までの私では想像も出来なかっただろう。
午後、ヘルバが牢から出てこない。罰金は、私が立て替える。三回目になる。
夜、市場の予言者を、三人潰す。「潰す」という言葉は、過激である。正確には、彼らに薬草の話をして、自分の口の重さを思い出してもらった。それでも翌日、別の予言者が出てくる。芽は、土の下にある。
神杖。誰が何のために。考えると、机に向かう手が止まる。止まるが、書類は減らない。
寝る。寝る。寝る、と書いておかないと、寝ない自分がいる。
◇
霹歴二〇三〇年 第四月 第六日
腐王様の体調と帝国周辺の情勢について、紅桔梗内部での非公式な話し合い。私は意見を求められたが、医師ではない、と答えた。それでも質問は続いた。ホリキュピオの動向と、聖王国の動向と、帝国内部の動向を、まとめて頭の中で並べてくれと言われた。そういう仕事は、本来、私の仕事ではない。
ない、はずだったが、頷いた。
頷いたのは、頷かないと、誰かが代わりに頷くからである。代わりに頷く誰かは、私より、頭の中の引き出しが少ない。引き出しの少ない人間が判断すると、判断が浅くなる。浅い判断で動くギルドが、最近多い。
夜、ヘルバが酒の値段で店主と揉めていた。明日、店主に詫びに行く必要がある。それは明日の私の最初の仕事である。
◇
霹歴二〇三〇年 第四月 第七日
神杖の件、続報。盗難現場から消えたものは、神杖の本体一本。ホリキュピオの内部時計で深夜帯。残された痕跡は、極めて少ない。いったい誰が、国の宝を、それもエルフの国の宝を痕跡もほとんど残さずに盗りおおせるというのだろう。きっと個人やちゃちな窃盗団の仕業ではない。
ティリア・モントーレが、夕方、来訪。文書化されない情報を、彼女は、口頭で私に渡した。
彼女曰く、神杖を抜いた者の足跡が、最後に消えたのは、聖王国の方角の街道筋である、と。書類をさばく手が止まった。
止まった私の手を、彼女は、見ていた。彼女の二層の目が、私の手の止まり方を、私より早く理解した。
書く手が止まった理由は二つ。
ひとつは、ホリキュピオの神器を聖王国側の手の者が、抜いた可能性を考えたから。
もうひとつは、その動機を思い浮かべたから。
神杖は、ただの神器ではない。神器の中でも、空間の操作に強い力を持つと言われる、文字通り神の領域の御業を可能にする。これを誰かが、何かのために必要とした。そしてそれは、聖王国の手の可能性が高い。
腐王様の体調不良の噂と、最近の聖王国の外交の硬さである。聖王国は、ここ三か月「十の戒め」を外交の言葉として使い、帝国の内政を非難し続けている。非難しても、腐王様が動かない限り、帝国の体勢は崩れない。崩すには、別の手段が要る。別の手段の道具として、神杖は、十分に機能する。
ここまで考えて、私はティリアに何も言わなかった。
言うと彼女は、私が考えたところまで、私の代わりに声に出してしまう。彼女のエルフの声で、それが空気の中に出た瞬間、私の頭の中の仮説が、事実として定着する。定着すると、私はそれに対処しなければならなくなる。
対処する余力は、今日の私にはない。
彼女は帰り際、机の上に一冊の書類を置いていった。
私個人への依頼だそうだ。個人への依頼だろうが、組織への依頼だろうが、それらは変わらず仕事である。
◇
霹歴二〇三〇年 第四月 第八日
昼食を、忘れた。
夕食も、忘れかけた。途中で書記係のメムが、私の机にパンと小さな焼き菓子を一つずつ、置いていった。メムは何も言わずに戻った。彼の名は、私の口から長いこと呼ばれていない。今日も呼ばなかった。詫びる時間もなかった。
夜、街の隅でまた新しい予言者の話。「災いの最初の一は、四十日の異常な気候から始まる」と、市場の中央通りで若い女が、声を張り上げていた、らしい。情報班からの報告だ。
私はその女を、潰しに行く時間がない。代わりに書類で、潰す案の概略を書く。書く間に、机の燭台の蝋が二度芯まで燃えた。
ヘルバがまた、捕まった。
寝る、と書く。
書いても、たぶん寝ない。
夜の鐘が、2度、ウツ。
◇
オネルが机から顔を上げたのは、夜明けの少し前だった。
ペンを置こうとして、置けない。指がペンの軸を握ったまま固まっている。彼は左手で右手の指を一本ずつほどき、ペン先を机の縁に倒した。倒す瞬間、ペン先が書類の上の、まだ乾ききらないインクの「酒」の字の横棒を薄く擦る。
その擦れた跡を、彼は目で追う。追ってしばらく、目をその上に置く。
部屋に彼以外の人影はなく、窓の外で夜がもう終わりかけている。完全に終わる前の青の濃い時間。机の燭台の蝋は芯まで燃え、あと半刻もすれば自然と消える。彼はいつも消える前に自分で消してやろう、と思う。消せたことは無かったが。
代わりに、息が自分の肺の底ではないどこかから、勝手に出てくる。
ここ数日、自分の呼吸が自分のものではない感覚を覚える。誰かに代わりに吸われ、誰かに代わりに吐かれている。それでも肺は動く。動くから、生きている。生きているから、書類が私の前に来る。書類が来るから、私は自分の名前ではなく、紅桔梗の幹部という肩書でペンを握る。
肩書で、ペンを握る。
その表現を、彼は口の中でもう一度転がす。転がしたあとで、舌の付け根の方がわずかに苦い。胃から来ている苦さなのか、頭から来ている苦さなのかオネルには分からない。
「オネルさん」
扉の向こうから、書記係のメムの声が来る。
「お休みのところ、申し訳ありません」
「休んでない」
「あ、起きていらっしゃいましたか」
「うん」
「ホリキュピオから追加の文書です。ティリア・モントーレ様、明日こちらへ向かうとのこと」
オネルは目を閉じる。
閉じた瞼の裏側で、一瞬だけ、自分の幼少期の村の麦畑の風景が浮かぶ。母親が刈り取った麦の束を紐で結んでいる、細い指。父親が麦の束を荷車に積んでいる、太い背中。夕日が麻のシャツの真ん中に橙の四角を落としている。
なぜ、こんな時にこの風景が浮かぶのか。彼にも分からない。
「分かった」
目を開ける。瞼の裏の風景が消える。代わりに、燃え尽きかけた燭台の芯の最後の赤が、机の上の書類を、ぼんやり橙に染めている。
「資料を揃えておいて」
「もう、揃えてあります」
「ありがとう」
彼は、自分の言葉が自分の耳に薄く届くのを聞く。自分の声が薄いと感じるのは、ここ十日ほど、毎朝の感覚になっている。
扉の向こうでメムの足音が遠ざかる。彼はもう一度目を閉じる。閉じた瞼の裏で、麦畑はもう、出てきてはくれなかった。
◇
ホリキュピオのティリア・モントーレが部屋に入ってきたのは、日が沈み始めたころだった。
エルフの女史は、八十を過ぎているはずなのに、肌の張りが二十代にしか見えない。黒に近い深緑の髪を、後ろで一つに束ね、腰の手前まで垂らしている。目の色は、虹彩の中央が琥珀、外側が深緑の二層になっていて、見ているとこちらの瞳孔が泳ぐ。彼女は俺の机の正面の椅子に、何の挨拶もなく座る。
「オネル様。今日もお疲れのご様子で」
「お疲れに見えるのは、見ているあなたが余裕のある証拠です」
「あら、皮肉も。そのお歳でお上手」
「個人的には、歳は関係ないと思います。皮肉は経験で作られるものでしょう」
俺はいま、自分の声が想定より低く出たのを聞いた。ここ数日、自分の声を声帯ではなく、鼻と歯の隙間から押し出している感覚がある。喉が、痛い。痛いというより、固い。固い喉から出てくる声は、本来の自分の声よりも、半音低い。
彼女は机の上に、革表紙の書類を一冊置く。
「神杖の件、続報です」
「どうぞ」
「足跡が、最後に観測された場所が、確定しました」
「どこですか」
「聖王国の北東部、街道筋の脇道。そこで足跡は、空中に向かって消えています」
彼女がそう言った瞬間、俺の右のこめかみの内側で、何かが軽く跳ねる。痛みではない。脈が一拍だけ、リズムを崩した。
俺は手を額の右側に当てる。当てたあとで、当てたことを見られているのに気づく。彼女の二層の目が、俺の手を見ている。
「ご無理は、なさらず」
「無理ではありません。続けてください」
「足跡が空中に消えた、ということは、神杖を運んだ者は転送魔術を使った可能性が高い、ということです」
「転送魔術」
「ええ」
「神杖そのものが、転送魔術の力を持つ」
「持っています」
「では自分自身の力を、自分を運ぶために使ったと」
「そう、推察しています」
俺の頭の中で、線が勝手に繋がりかける。
ひとつは、ここ三か月聖王国が帝国に向かって、外交の言葉で攻め続けている事実。 もうひとつは、神杖の盗難が聖王国の方角に消えた事実。最後に、神杖が持つ力は、空間と物質の操作。
その三つが、盆に放られた球体のように、互いに近づく。
近づいたまま、まだ繋がらない。繋ぐと結論に届くが、結論の手前で頭が止まる。止まるというより、止まりたいと頭が思っている。
「オネル様?」
「失礼。続けてください」
「神杖を抜いた手口は、ホリキュピオの宝物庫の構造を、内側から知っていなければ不可能なものでした」
「内側から」
「ええ」
「内側を、外に教えた者がいる」
「いる、と考えています」
「ホリキュピオの内部に、聖王国側の手の者が長く潜入していた」
「あるいは、買収された者が」
彼女の口調は、変わらない。
俺の目の奥で、視野の隅がほんの一瞬、暗くなる。立ちくらみではない。視野の輪郭が、内側に向かって、半歩寄った感じがする。すぐにぎこちない戻り方で戻る。
「神杖」と、「聖王国の暗部」と、「腐王様の体調不良の噂」が、俺の中で繋がる。
繋がってほしくなかった。繋がると別の仕事に着手しなければならない。今、抱えている仕事の量で、私の腕はもう、机の縁に肘を乗せた状態でないとペンを握れない。机の縁に肘を置いて支えていないと、書く動作の間腕が震える。
「ありがとう、モントーレさん」
「ティリア、で結構ですよ」
「失礼しました」
「お顔の色が」
「気のせいです」
「気のせいではありません。私の目は、エルフの目です」
「八十年の経験ですね」
「はい」
そういって彼女は立ち上がる。立ち上がる時、彼女の左手が、机の上にもう一冊の革表紙の書類を、置いていた。最初の一冊とほぼ同じ厚さの。
「これは何ですか」
「もう一つの依頼です。今度は紅桔梗ではなく、オネル様個人へ」
「私個人」
「ホリキュピオの宝物庫の警備、再構築の助言をお願いしたく」
「私は、警備の専門家ではない」
「ええ」
「では、なぜ私に」
「専門家は、専門の枠の中で考えます。あなたは枠の外で考えてくれる」
彼女の言葉は、丁寧だった。丁寧で、致命的だった。
俺は、頷きを返す。
頷いた瞬間、自分の首の関節が上下に動くのではなく、ばね仕掛けの人形のように、機械的に折れた音を自分の頭蓋の内側で聞いた。
◇
昼。
ヘルバが、また捕まったらしい。
今度は酒場ではなかった。市場の通りで、占い師の屋台を酔った勢いでひっくり返したという。占い師は軽傷。屋台の損害が、銀貨九枚。占い師の言い分では、屋台のほかに看板の木札も足の指で踏み割られたらしい。
「オネルさん。ヘルバさんが、また」
「分かった」
書記係のメムが、扉の隙間から申し訳なさそうに告げる。
「いつもの、立て替えを」
「銀貨十枚で足りるか」
「現場の店主たちが、一枚多めに、と」
「では、十一枚。それから、あの男に、伝えておけ」
「はい」
「俺の名前で、これ以上立て替えるな」
メムは、頷く。頷いたあとで、扉を閉める前にほんのわずか、こちらを振り返った。
彼の目が、心配そうにしているのが分かる。けれど俺は、その目に応える表情を自分の顔に用意できなかった。
扉が閉まったあと、俺は机に両肘をついて、両手で顔を覆った。手のひらが、自分の額に触れた瞬間、額の温度が手のひらの温度より低いのに気づく。
「ヘルバ」
俺は誰もいない部屋で、彼の名を呼ぶ。六歳から同じ村で、同じ畑の縁を同じ歩幅で走っていた男。
当時彼は、俺の半分の力で俺の倍の笑い声を立てていた。麦畑の真ん中で彼が転んで、俺が起こしてやって、起こした手を引いて二人で家まで歩く、という光景を、何度も繰り返した。
覚えている範囲で、十六回。覚えていない範囲を含めれば、たぶんその三倍。
あの男が椅子を壊し、屋台を壊し、看板を踏み割って、笑顔のまま牢に入る。彼の笑顔は、子供の頃の彼の笑顔とまだ同じ歯で笑っている。
心配する余力がないということを、俺は認めなければならない。認めない限り、きっと明日も立て替えに行く。
立て替えに行きながら、ホリキュピオの警備の助言を書く。
書きながら、聖騎士の動きの報告書を読む。
読みながら、市場の予言者を口の重さで、潰す。
潰しながら、寝るふりをして寝ない。
その繰り返しを、あと、何日続けるのか。十五日続ければ、俺は倒れる。倒れて、四日休む。四日休んだあと、また机に座ってペンを握る。その十五日と、四日と、また十五日と、また四日の繰り返しを、紅桔梗は俺に期待している。
紅桔梗は、俺に、それを口では言わない。
書類がそれを、毎日机の上で言う。
◇
夕方、ギルド総会の議事録の写しが届いた。
二か月前の総会の、最終確定版。出席者は八つのギルドの幹部級、合計三十四名。私はその三十四名の顔と、名前と、特徴と、最近の動向を、頭の中で紐づけられる。それが、私の仕事のひとつである。
議事録の冒頭で『黄金の獅子』の幹部、アンカ・ロレッツィの発言が、引用されていた。
「最近、辺境の街道筋で、複数の組織の動きが重なり合って観測される。各ギルドは、各国の政治には介入せず、しかし、情報の共有だけは密に行うべきである」。
最後の一文を、俺は二度読み返した。各ギルドは、各国の政治には介入せず、しかし、情報の共有だけは密に行うべきである。
「政治介入しない」はギルドの不文律である。ふと脳裏に、ホリキュピオの女史の目、帝国の貴族の薄ら笑い、聖王国の若い王の硬い顔が浮かび、すぐに思考の渦によってかき消されていく。
議事録を机の隅に追いやり、先程まで目を通していた書類に手を戻す。中身は、聖王国の最近の外交活動の紅桔梗による調査報告書だ。報告の最後にはこう書かれている。
「腐王の体調が悪化傾向の噂。聖王国の若き聖王の動きが、過去三か月で、段階的に強まっている。両者の動きは、連動している可能性がある」。
俺はその書類を机の左下の引き出しに入れた。
入れた瞬間、自分の指の関節が引き出しの取手の重さ軽く感じた気がした。軽く感じた瞬間、俺の口の端がほんの一ミリだけ動いた。動いたのが、笑いに分類されるものなのか、痙攣に分類されるものなのか、自分でも判別がつかなかった。俺は医者ではなかった。
机の角の燭台の蝋が、ふと揺れる。風など入らない部屋なのに、蝋の炎が横に一度揺れた。揺れた炎の影が、机の上の書類を波のように撫でる。
俺はその影を、しばらく見ていた。
すると次第に、影が机の上からこちらに伸びてきたような気がした。
◇
夜の鐘が二度、鳴る。
俺は紅桔梗の支部を出て、外に立つ。外の空気は少し湿っていた。雨は降っていなかったが、降る前の空気が街の石畳の隙間からほのかに立ち上っている。
今日の用事は、終わっていない。ヘルバが入っている。俺は街の中央通りを避けた。中央通りにはおそらく、市場の予言者の屋台がまだ並んでいて、彼らの一人と目が合っても、今の俺には彼らを潰して行く時間はない。
代わりに、裏道を選ぶ。
裏道は、街の店の裏口と裏口の間を縫って城の方へ続いている。石畳は表通りの石畳よりも湿っている。湿った石畳の上を、俺の靴の底がぴた、ぴた、と湿った音を立てて踏む。
歩きながら、自分の胸の真ん中の肋骨の下、何かが鈍く痛むのを感じる。心臓ではない。心臓の少し下、胃のあたり。胃のあたりが、空腹で痛むのではなく、内側から押されるように、痛む。
――突然、視界が途切れた。
途切れたというのは正確ではない。視野の中央が、急に暗くなった。俺は足を止めた。
しかし、視野の中央の黒い塊は、徐々に大きくなる。こちらへ、近づいてきているのだ。視界を埋め尽くすほどに大きくなった黒い塊は、それでも進むのをやめない。
そして
「それ」は俺の中に、入っていった。
空気の重さが、変わった。肺の中に空気ではない、別の何かが入った感覚。冷たくはなく、熱くもなかった。ただ、重かった。重さで、肺の底が押し下げられる。押し下げられた肺の底から、息が上に戻ってこられない。
俺の頭は息をさせようとしたのだろうか、俺は口を開けた。
開けた口から、息を吐こうとした。吐こうとして、吐けなかった。代わりに大きく開けた俺の口が音を奏でる。
『——もういいよ。ゆっくりお休み』
もういいよ。
その四音節を、頭の内側で聞いた瞬間、胸の真ん中の肋骨の下の痛みが、ふわり、と消えた。痛みが消える、というのは、楽になるということではなかった。痛みが自分のものではなくなる、というそれだけのことだった。
俺の身体は、まだ痛んでいた。
心もまた、痛んでいたんだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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続きは明日12時と19時ごろの2話更新予定です。




