帝都にて
ごきげんよう。悠月と申します。
なんとか、毎日投稿を続けています。どんな言葉でも、反応でもすべてが励みになっております。
厳しいお言葉含め、感想・アドバイスお待ちしております。
第8話 帝都にて
路地に鐘の音がもう一度落ちてきた。
二度目の鐘は一度目より低かった。広場の鐘楼が、夜をゆっくり閉めていく音だった。俺の靴の先は、石畳の隙間にちょうど収まっている。背中の汗は麦畑で吸った朝露のまま、まだ乾ききらない。リュックの底のノートが、肩の傾きでわずかにずれた感触まで俺の身体は記憶していた。さっきまで確かに丘の上の草の匂いの中にいた身体だった。
その身体が今、帝都の路地に立っている。両側から伸び上がる三階建ての石壁が、空を四角く切り取っていた。四角の中で青がゆっくりと熱を持ち始めている。古い壁の隙間から苔と小便の入り混じった匂いがして、それが奇妙に、ここを「現実」だと俺の脳に告げてくる。誰かが薪の束を引きずる音。鳩らしき何かの羽音。遠くで鎧戸が一斉に開いていく金属のさざめき。
現実はこういう細部の総量で、自分が現実であることを主張する。
「カルセウム」
「ああ」
「俺たちは帝都にいる」
「いる」
「五日かけて来るはずだった距離を」
「うむ」
「一瞬で」
「うん」
「うん、じゃないだろ」
カルセウムは答えなかった。代わりに、彼の右手が剣の柄の手前まで上がって、止まった。指の関節が白くなりかけて、また色を戻した。彼も身体で確認している。剣を抜くべき場面なのか、抜くべきでない場面なのか、彼の身体は迷っているように見えた。
しばらく俺は自分の呼吸の音を聞いていた。深く吸って、それより少し長く吐く。三回、繰り返す。何かの本で読んだ緊張の解き方だ。三回目の吐く息のうしろで、ようやく頭の上の方が現実の処理を始めた。
「ギルド」
俺は呟いた。
「ん?」
「冒険者ギルド。黄金の獅子の本部が帝都にあるって、あんた言ってただろ」
「言った」
「そこに行こう。そこなら、あんたを知ってる人間がいるんだろ?」
カルセウムは剣の柄の手前で止まっていた手を、ゆっくりと下ろした。
「悪くない」
「それしか、思いつかなかった」
「思いついた選択肢の中で一番悪くないものを選べるなら、それでいい」
彼の言い方が、いつもよりほんの少しだけ優しかった。彼も彼で判断の素材が足りない朝を、俺と二人で迎えていた。
俺たちは希望をもって、路地の出口へ歩き出した。
―――歩き出した、と言っても、三歩目までだった。
◇
路地の出口、表通りに踏み出した瞬間、視界の左右から一斉に人が滑り出てきた。
左に四人。右に四人。背後に、足音がさらに二人分。
全員、揃いの濃紺の制服に銀の縁取り。胸の中央に双頭の獣の紋章が、鏡のように打ち抜かれている。腰には剣。腰の脇に短い棒のようなもの。男たちの呼吸は、走った後の息ではなかった。配置を完了した者の静かな息だった。
最後に、表通り側からゆっくりと歩いてきた男が一人。
白い長衣に左右非対称の刺繍。袖は肘より下が広がる、儀礼用に近い形。手には何も持っていない。歳は四十を超えたあたりで、目が明らかに、ほかの兵士たちとは違う種類の目をしていた。兵士の目は人を見ていた。この男の目は、人の周りの空気を見ていた。
男が俺たちの三歩前で止まる。
「魔術師第三班、オクラム・スンドラ」
男は名乗ってから、こちらを見ることなく空中の一点を指で軽く弾いた。彼の指の先で、空気が薄く、輪のような形で揺れた。揺れて、消えた。
「異常な魔力反応の発信源は、あなた方――」
「双方とも、本日早朝の異常魔力に符合する。連行します」
「まて、俺たちは何もしていない。先程、帝都に着いたばかりだ」
カルセウムが低く言った。彼は両手を上げなかったが、下ろしてもいなかった。
「ええ。連行されるまでは、何もしていない、というのが原則です。それに、その立派な足を使わずに帝都の敷地に到着したことも存じています」
カラエ・スンドラの口調は朝の事務員のそれだった。怒っても、急いでもいなかった。
「ただし、本日早朝帝都内で、皇帝陛下に次ぐ重要人物が一名、亡くなられました。そしてその死に、未認可の遠距離移動魔術が関与した可能性があります。あなた方は、その『未認可の遠距離移動魔術』の魔力残滓を、強く帯びている」
——亡くなられました。
その四音節が、朝の路地に奇妙に軽く落ちた。軽くなければならない、と訓練された声だった。俺の隣で、カルセウムの肩がわずかに固くなった。彼が「亡くなられました」の対象を、すでに当てたのが肩の動きで分かった。
「同行を」
「逆らわなければ、危害は加えないというやつか」
「ええ、そういう話運びです」
濃紺の制服の男たちが、左右から一歩ずつ距離を詰めた。距離の詰め方は訓練されていた。一歩ずつが、こちらの呼吸の隙間に合わせて入ってきた。
カルセウムが俺の方を半瞬だけ見た。
「シンジ」
「うん」
「逆らうな」
「分かった」
彼は両手を、ゆっくりと空に向かって上げた。剣は腰に差したまま、鞘の中で動かなかった。俺もそれに倣って、両手を上げた。リュックの紐は肩から外さなかった。
手首に革の縄が掛けられた。きつくはなかったが、不思議とほどけはしなかった。濃紺の制服の男たちは、手慣れた動きで俺たちを挟み、表通りへ連れ出した。
通りに出ると、朝の市場の喧騒が急に距離を取った。布屋の女主人が、棚に並べかけた布を手の中で止めていた。八百屋の老人が、切りかけた根菜を刃の途中で止めていた。誰も声を上げなかった。誰も走らなかった。代わりに何十もの目だけが、こちらをただ見ていた。
◇
馬車の中は暗かった。
窓は内側から木の板で塞がれ、板の縁から糸のように光が漏れている。糸の太さで、外の朝の進み具合が分かる。馬車は石畳の上をしばらく走り、それから一度坂を上り、また下り、また坂を上った。傾斜の感覚で俺たちが帝都の中心の方角へ運ばれているのが、ぼんやりと分かった。
俺の正面にカルセウムが座っていた。隣に濃紺の制服の男が一人。向かいの隣にも、一人。二人とも、終始、無言だった。彼らは俺たちと目を合わせない訓練をよく受けていた。
「カルセウム」
小声で言った。
「ん」
「亡くなったの、誰だ」
彼は答えなかった。答える代わりに、彼の視線が俺の隣の濃紺の制服の方へほんの少し流れた。ここでは答えない、という意味だった。
馬車は最後にもう一度長い坂を上り、坂の最後で車輪が石の段の上を、二度跳ね、それから止まった。
外の光が、急に馬車の中に流れ込んできた。目を細めながら、俺は外に出る。
目の前には、灰色の巨大な石の壁が立ち上がっていた。壁、というより、面、と呼ぶべき大きさだった。壁面の上の方に、銀色の旗が何本も横に並んで風を受けていた。旗の中央には、双頭の獣の紋章。馬車を降りた俺たちの前に、磨き上げられた石の床と、その先の二重の鉄門が、ある。
――帝城。
誰もそうとは案内してくれなかったけれど、それ以外のものがこんな門を持つとは想像できなかった。
鉄門の手前で、俺たちはもう一度、革の縄を確かめられた。それから二人同じ方向に、同じ歩幅で、連れていかれた。
「離さないんだな」
「離せない理由が向こうにあるということだ」
カルセウムの声は相変わらず低い。
通された部屋は思っていたほど、豪奢ではなかった。
縦に長い石造りの部屋。床は赤みを帯びた石が、四角く割って並べてある。天井は高く、はるか上の方に、燭台が三つ横並びに吊るされていた。窓は部屋の左右に、それぞれ三つずつ。すべて、上の方に細長く切られていて外の景色は見えない。けれど光は十分に入ってきた。光は、磨かれた石の床の上で、四角に切り取られて、ゆっくり形を変えていた。
部屋の奥に机が一つ。机の向こうに男が一人、座っていた。
灰色がかった青の長衣に銀の帯。年齢は六十前後。髪は短く刈り、白に近い銀。耳の後ろに、右側だけ、長い古傷が一筋。背筋は、年齢に対してまっすぐに伸びていた。座っているのに、立っている人間のように見える種類の姿勢。
「掛けなさい」
男は俺たちの正面の二脚の椅子を、目で示した。兵士が手首の拘束を外してくれる。
「アンドール・ヴィヴェランド」
男は名乗った。
「腐王様の、長く側に居た者です。今日、貴方方が私と話す理由はご存じですか」
「腐王が、亡くなった」
カルセウムが即答した。
「ええ」
アンドールの目はまばたきの回数が少なかった。
「昨夜、深更。腐王様の私室で。下手人は、まだ特定できていません。残された痕跡から、未認可の遠距離移動魔術と、極めて静かな剣技、高度な魔術式が使用された、と推察されます」
「俺たちが、その下手人だと」
「そうとは申しません」
アンドールは机の上で、両手の指を組んだ。
「ただし本日早朝、帝都の北西の路地に、不自然な魔力残滓を伴って、突然出現した二人組がおりまして。その魔力反応が、昨夜の現場の残滓と極めて似通っております」
「似ているだけで、同じではない」
「ええ。我々もそう思います。だからこそ、貴方方はまだ息をしている」
自分の喉が想像の二段階先で固くなっているのを感じた。
昨夜、深更。俺たちは宿場町の宿で眠れない夜を過ごしていた。宿の主人がカウンターで毛布を抱えて寝ていた、あの夜だ。アリバイは、宿の主人の夜の眠気の中だけにある。それで通用するだろうか、まあするはずがないだろう。
「お名前を」
「カルセウム」
「ご出身は?」
「王国」
「お仕事」
「冒険者」
「所属は?」
「黄金の獅子」
アンドール右の眉がほんの一ミリ動いた。
「黄金の獅子。帝都支部に、お知り合いは?」
「いる」
「お名前を?」
「アンカ・ロレッツィ」
「……ふむ」
アンドールは組んだ指を、ゆっくり解いた。机の左下の引き出しから紙を一枚取り出すと、紙の上に何かを短く書きつけた。その後、その紙を机の脇の小さな鈴付きの皿の中に置いた。皿の鈴が、ちりん、と一度だけ鳴った。
部屋の壁の片隅から、若い書記らしき男が無音で出てきて、皿の上の紙を取り、無音で出ていった。
「お連れの方」
さて、次はこちらの番だ。
「お名前を」
「染谷、真司」
「ソメヤ」
「シンジでいい」
「ご出身を」
「……遠方」
アンドールの目が初めて、俺の上に少し長く留まった。
「遠方、というと?」
「言いにくい場所」
「言いにくい場所」
「そう」
それ以上は聞かれなかった。聞かなかった、ということはあまり嬉しいことではない。彼の中で俺の出身は、すでに何かの分類に入ったということだった。何の分類かは、分からない。
「お仕事は?」
「冒険者。黄金の獅子。登録は、宿場町の支部」
「等級は?」
「無等級」
「……」
アンドールの口の端が、ほんの少し動いた。笑いではなかった。失笑にもならなかった。それより、もう一段、奥の表情だった。
「無等級の冒険者と、ベテラン冒険者。二人組で、宿場町の支部に登録、最近の依頼は?」
「数件、軽いものを」
カルセウムが、答えた。
「失礼ながら、釣り合いません」
「釣り合うかどうかは、本人たちの自由だ」
カルセウムが即答した。
「自由、ですね。では、もう一つ」
「どうぞ」
「お連れの方の、リュックの中身を拝見しても?」
息を、止めた。
「中身は?」
すこし考えてから、慎重に答える。
「私物。地元の硬貨。教科書。空の水筒。そして、ノートが一冊」
「ノート?」
「うん」
「拝見しても?」
答えに、迷った。
迷った時間を、アンドールは待ってくれた。彼は、待つことが最大の武器であると知っている顔をしていた。
「……開いてもらうのは、構わない。けれど、内容を読み上げる必要はない」
「妥協案ですね」
「うん」
「いいでしょう」
俺はリュックを机の上に置き、両手で底からノートを取り出した。彼はそれを受け取って、表紙をしばらく両手で挟むようにして見ていた。革の表紙の角がすり切れている、その形を彼は指の腹でたった一度だけ撫でた。
彼はパラパラとページをめくり、中を検める。
「……お預かりはしません」
ようやく、息を吐いた。
「ありがとう」
「礼を言われる謂れは、ありません。私の判断です。これは現場の残滓と関係がない」
「分かるのか」
「分かります」
アンドールはそれ以上は説明しなかった。部屋の扉が外から軽く二度叩かれた。
アンドールが、入れ、と短く言うとさきほどの書記が戻ってきた。手に別の紙を持っていた。紙を、皿の中に置く。鈴が、もう一度鳴る。彼はその紙に軽く目を通して言う。
「お知り合いのアンカ・ロレッツィ氏は、現在、本部の機密会議で本日中の応答が困難、とのご返答です」
「機密会議?」
「ええ」
「中身は?」
「私には分かりません。ご存じのとおり黄金の獅子は、帝国の管轄外です」
アンドールは、紙を机の引き出しにしまった。
「身元の保証が本日中には間に合いません。残念ですが保証が付くまでの間、お二人には城内の留置でお過ごしいただきます」
「牢、か」
「我が国では、貴賓室と呼んでいます。鉄格子は付いていますが」
アンドールの口の端が、再び動いた。今度のはわずかに笑いに近かった。
「お二人は、今日のところは丁重に扱うべき容疑者です。それ以上でも、それ以下でもありません」
「丁重」
「鉄格子の数を、必要最小限に留めるという意味でね」
アンドールは立ち上がった。
「ご案内しましょう」
◇
階段は、下に向かって長かった。
石を一段一段、足の裏で踏むたびに、空気の温度がゆっくり下がっていった。三十段ほど降りたあたりから、空気の中に別の匂いが混じってきた。湿った石の匂い、湿った藁の匂い、そして人の匂い。下の階に、生きている人間が複数いる匂いだった。
階段を降り切った先は長い廊下になっており、廊下の左右に鉄格子の部屋がいくつも並んでいた。鉄格子の中の灯りは、油の小さな皿が一つずつ、各部屋に置かれているだけだった。光は鉄格子の隙間を、縦縞の影として廊下の床に落としていた。
アンドールは廊下の半ばの一つの部屋の前で、止まった。その部屋だけ、ほかの部屋より少しだけ広かった。
「こちらです」
牢番が鍵を回した。鉄格子の扉が軋みながら、ゆっくり開く。中から湿った藁の匂いと、油の皿の匂い、そして――誰かの笑い声が漏れ出てきた。
「あらっ、お客さんが増えた!」
牢の奥の藁の上に、男が一人胡坐をかいていた。
歳は二十代後半くらいだろうか。服は、冒険者風の革の胴衣に麻のズボン。胴衣の左の脇が、何かに切られたあとなのか、雑に縫い目が走っている。
髪は赤茶。目は黒に近い深い茶色。何より、笑顔が健康な男だった。鉄格子の中で、油の皿の灯りに照らされて、それでも笑顔が健康だった。
男の脇には子どもが、四人、寄り集まって座っていた。男が子どもたちの肩を両側から軽く押すようにして言う。
「ほらお前ら、ちょっと詰めろ。おじさんたちの場所をな」
子どもたちは、無言で男の身体の後ろに寄った。寄りながら、こちらを見ていた。子どもの目は、警戒よりも好奇心の方が勝っていた。それが俺にはありがたかった。
アンドールは扉の外でもう一度、「ご無事で、お過ごしください」とだけ言って踵を返した。彼の足音が、廊下をゆっくり遠ざかっていく。
牢の中には俺たちと、笑顔の男と四人の子どもが、残った。
「いやあ、混んできましたねえ」
男は俺たちが座る場所を、藁の山を自分の足で軽く平らに均してくれた。
「俺、ヘルバって言いまして。ご覧の通り、囚われの冒険者でね。等級は銅、所属は紅桔梗」
「カルセウム」
「シンジ」
「お、シンジねぇ。どこの国?」
「……遠方」
「あ、その『遠方』ね。いるね、今ね、遠方の人が増えてきてんの。そういう時代なんですよ、たぶん」
ヘルバは笑った。笑い方が、奇妙に健康だった。前歯が、二本欠けていた。
「で、お二人の容疑は」
「腐王の暗殺、らしい」
俺が答えた。
ヘルバが、ぱちん、と、自分の膝を叩いた。
「うわ、最重量級! 俺なんか、酒場で椅子を一脚壊しただけだぜ。羨ましい、と言ったらおかしいかな、おかしいよな」
「椅子を壊しただけでここに入るのか」
「壊した椅子の弁償を、酒の勢いで断ったら、ここだ。判決は、どうだろうな。たぶん、銀貨七枚の罰金で済む。明日には出る予定」
彼は、それを「予定」と言った。
「ヘルバさん」
俺は彼の方に、少し身を寄せた。確認すべきことが一つあった。
「いきなりで悪いんだけど」
「どうぞ」
「腐王、いつ亡くなった?」
ヘルバの笑顔が、初めて半分引いた。半分引いたが、もう半分は残った。残った半分の上に、彼は別の表情を一つ貼って答えた。
「昨夜、深更って聞いたねぇ。今朝の鐘と一緒に、市民への正式な発表だ。市場の壁に、紙が貼り出されてた。読んだのは、ここに連れてこられる直前のことだ」
「市民への発表?」
「うん。隠さなかった。むしろ、急いだんだ。これが、面白いとこだなぁ」
「面白い?」
「大きな死は、隠せば隠すほど噂で膨らむ。膨らませないために、上は急いで紙を貼り出した。けれどなぁ、紙を貼り出した時点で街は、もうしらけてた」
「しらけてた」
「うん。皆、半分予期してたんだよ、ここ三か月。腐王様の体調が悪いって噂と、夜の塔の灯りの数とで、市民はなんとなく覚悟してた。覚悟してた死は、起きた瞬間に悲しくなくなる。代わりに別の不安に置き換わる」
「別の不安に?」
「戦争」
ヘルバは、笑顔を半分戻した。
「腐王様がいた帝国。腐王様がいない帝国。後者には、聖王国の若い坊やが何を言ってくるか、誰も読めない。さらに、東の魔女様も、北の獣の連中も、皆、こっちを見るだろう。市場の店主たちは、今朝、品物の値上げをすぐに始めた。値段ってのは、不安の最初の温度計だ」
ヘルバは、笑顔の中に、ふと別の硬さを混ぜた。ころころと表情の変わる男だ。
「で、もう一つ」
「もう一つ?」
「最近、街の隅で流れてる、変な噂がある」
「噂?」
「『十災』っていう、古い神話だか迷信だか、よく分からんやつ。十の戒めを破ったら、十の災いが、世界に降りるっていう」
「災い?十の戒めってのは聞いたことあるけど」
「まあ、まゆつばもんさね!噂はうわさよ」
ヘルバは、藁の山に片方の肘をついた。
「ただ、みんながみんなこんな風に割り切れるわけじゃあない。街の真ん中で、十日ほど前から、いつ来るか分からん『災い』を、仕込んでる占い師みたいなのが、何人か出てきた。皇帝陛下が出てこなくなって、聖王国が『十の戒め脅迫状』を毎月送ってきて、腐王様が亡くなった。三つ揃ったら、もう大変、市民は占い師を信じ始めるだろうよ」
「信じる」
「信じる。今朝の市場で、俺の隣で買い物してた婆さんが、『災いが来たら、麦を地面に埋めて、井戸を全部塞げ』って、孫に言ってた。婆さんの目は本気だったよ」
「……」
口の中に、うっすらと苦い味を感じた。
「その災いって、聖王国の『十の戒め』と同じやつ?」
「同じ系統のやつだ。神話としては、戒めと災いは表と裏らしい。戒めを破ると、災いが来る。神話としては、な」
ヘルバは、藁の山の上で子どもたちの方にちらりと目を流した。子どもたちは、俺たちの会話を聞いているのか、聞いていないのか判別の付かない目でこちらを見ていた。
◇
どれくらい時間が経ったか分からない。それだけがこの貴賓室の難点だった。子どもたちの中で、一番大きい子がふと口を開いた。
「おにいちゃん」
俺の方に、彼は視線を向けていた。
「うん」
「ハメーシュ、見てない?」
その名前を初めて聞いた。
「ハメーシュ?なんだ、それ?」
「いっしょに孤児院から出たおともだち。今朝、はぐれた」
「孤児院から、出た?」
「うん。昨日の夜、腐王様の街がうるさかった。みんな、外に出ろって言われた。出たらハメーシュだけ、別の方に走っていって、それっきり」
子どもの言葉は、整っていなかった。けれど整っていない言葉が、子どもの恐怖をよく伝えてきていた。
「腐王様の街というのは?」
「腐王様がつくった。孤児院、いっぱいある区画」
ヘルバが、説明を引き取った。
「腐王様は生前、孤児院運営の最大の支援者だったんだよ。表向きは別の名前で寄付してたけどな。昨日の夜にこの子たちは孤児院を追い出されたって言うんだが。誰が追い出したのかも何故かも分からん。そいで、市場でパンを盗ったところを捕まっちまってここで保護されてる形だな」
「市場までくる途中ではぐれた?」
「うん」
「ハメーシュ、ってのは」
「八歳。男の子。痩せてる。髪、ぼさぼさ。声、小さい」
子どもの説明はぎこちなかった。
「足、速い」
別のもう少し小さい子が付け足した。
「すごく、速い」
別の子がさらに付け足した。
「足、速いから、ぜったい捕まらない」
彼らはハメーシュがぜったい捕まらないという結論を、自分たちで押し合うように繰り返した。繰り返さないと、不安が彼らの中で形を持ってしまうのだろう。
「ヘルバさん」
「あいよ?」
「孤児院近くにあるのか、ここから」
「ある。歩いて、半刻」
「半刻」
「うん」
「ハメーシュは、その方向に走ったのか?」
「分からん」
「別の方向に、走った可能性は?」
「もちろんある」
「……」
一度口を閉じて、藁の上で自分の指を組み直し、自分の頭の中で二つのことを並べてみる。
昨日、宿でノートに見つけた「きた〇い まちと、いえの〇いこども」の伏字混じりの一行。その上に、目の前の四人の子どもの言う「ハメーシュ」という名が、二つ目として置かれた。
二つの像が、奇妙に線で繋がりかけていた。線はまだぼやけていたけれど、確かに引かれかけていた。
牢の中の時間は、ゆっくりだった。光は、廊下側の油の皿の灯りだけだった。窓はない。時計もない。腹の減り具合が、おおよその時間の代わりだ。俺の腹はすでに二度、軽く鳴った。
「あんた、紅桔梗所属って言ったけど、紅桔梗ってどんなギルド?」
「薬と、毒の、間で商売してる連中だよ。薬草の見分けと、解毒と、暗殺以外のほぼなんでも」
「以外の」
「以外の、な」
ヘルバは、笑った。
「俺は薬草係だ。毒は触らん。だから、酒場で椅子を壊して、罰金で許される程度の身分でね、ありがたいことに」
「ヘルバさん、明日にはここから出るんだよな」
「たぶんな」
「出たら頼みがある」
「お、何?」
「ハメーシュって子の話、紅桔梗の連中に伝えてほしい。八歳、男の子、足が速い、孤児院からはぐれた」
「いいぞ」
「探してくれ、とは言わない。ただ見たら教えてほしい、と」
「うん。それなら、誰でも引き受ける程度の頼みだ」
ヘルバは即答した。即答してから、彼はふと俺の顔をしばらく見た。
「お前さん」
「うん」
「容疑、腐王の暗殺、なんだろ」
「うん」
「自分の容疑が晴れる前に、よその子供の心配するの?」
答えに迷った。迷った、というより、自分がなぜそうしているのか自分でもうまく説明できなかった。腐王の暗殺の容疑は、晴れるかもしれないし、晴れないかもしれない。だから晴れる前に、子どもの心配をしている。たぶん、優先順位の付け方としてはちょっとおかしいのだろう。
ヘルバは、笑った。
「悪くないよそれ」
「悪くないか」
「俺は好きだ、その順番」
彼の笑顔は、相変わらず健康だった。
◇
廊下の方で、足音が複数、近づいてきた。ヘルバが顔を上げて言う。
「お、迎えかな」
「俺たちの?」
「分からん、けど、急ぎ足だ。急ぎ足ってのは、たいてい誰かのためだ」
足音は四人分。先頭の一人だけ、残りより、少しだけ重い。物理的に重いというより、きっと覚悟の重さだ、と何の根拠もなくそう思った。でも、足音が覚悟を持っているか持っていないかは、たぶん、聞き分けられる種類の音だった。
牢の鉄格子の前に四つの影が立った。先頭は五十がらみの男、短く整えた焦げ茶の髪、深い青の長衣に、黄金の獅子の紋章。胸の中央に、金糸で刺繍された獅子の頭。歳よりずっと、若く見える顔だった。けれど目だけは若くなかった。
「カルセウム」
彼は最初に名を呼んだ。
「アンカ」
カルセウムが応じた。
「身元の保証は取れた。手続きは終わっている。出ろ」
「速いな」
「機密会議はお前の名前を聞いた瞬間に、別件に格下げした」
アンカ・ロレッツィ。黄金の獅子、帝都支部の幹部。彼は、アンドールとはまた違った種類の目で、俺たちを見ていた。
「連れも一緒に出ろ」
彼は、俺の方に視線を移した。
「シンジ、と言うらしいな。冒険者証は、宿場町の支部発行で合っているか?」
「合ってる」
「お前さんも、機密会議の半分を振り回したぞ」
「すまない」
「謝るな。事実を伝えただけだ。今、お前たちはある人物の身元保証でこちらの管轄下にある。さあ、出るぞ」
牢の鉄格子の鍵が、外から回った。俺は立ち上がる。子どもたちは、こちらを見ていた。一番大きい子が、ぽつりと
「おにいちゃん」
「うん」
「ハメーシュ、見つかったら」
「見つけたら、伝える。今日と明日と、その先も。見つけた時、ハメーシュかどうか、お兄ちゃんに分かるように、もう一度教えてくれ」
「うん。八歳、男、痩せてる、髪、ぼさぼさ、声、小さい、足、速い」
「足、速い」
「おにいちゃんよりずっと、速い」
ぜったい、捕まらないというのは、子どもたちはもう繰り返さなかった。代わりに彼らは、俺の方をまっすぐに見ていた。
俺は頷いた。頷きが、彼らの「見ていた」と、釣り合うかどうか自信はなかった。
◇
牢から出て階段を上がる時間は、不思議な感覚だった。罪悪感のような気まずさのような、口を開きづらい感情と、先程頼まれた小さな頼みへの使命感が絶妙なバランスでブレンドされるような不思議な感覚。
降りる時よりも、空気の温度が一段ずつゆっくりと上がっていった。ちょうど地上の階に、足の裏が戻った瞬間。
――地面が震えた。
最初は、足の裏に軽い振動として来た。次の瞬間、振動の上に音が追いついた。それは紛れもなく爆発音だった。
階段の上から、城の廊下を、低く響く音が走り抜けた。燭台の炎が、一瞬、横に揺れる。揺れた炎の影が、廊下の石壁を波のように撫でていく。
アンカとカルセウムが足を止めが、俺は止まれなかった。止まる前に、振り返った。階段の下、牢の方角を見た。下の階の鉄格子の中で、ヘルバが子どもたちを自分の身体の後ろに、押し込む。その動きだけが、油の皿の灯りの中でちらりと見えた気がした。
「シンジ」
「うん」
「動くな」
アンカの目が廊下の奥、城の中央方面をまっすぐに見ていた。
燭台の炎は、もう、揺れていなかった。代わりに、廊下の遠くの方から誰かの叫び声と、複数の足音がこちらに具体的な形をもって、近づき始めていた。
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