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異セカイは夢日記とともに…  作者: 悠月 柚裕
異セカイ動乱

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6/15

予期せぬ到着

お疲れ様です。悠月と申します。


書き溜め分を放出しつつ、下記進めております。連休中は1日2話投稿がんばるぞ。


本日、19時に続きを公開します。厳しいお言葉含め、感想・アドバイスお待ちしております。

第6話 予期せぬ到着


 茜色の終わりに、その宿場町は沈んでいた。


 小さな町だった。家は三十軒ほど、街道に沿って鎖のように連なっている。石造りの一階と、木造の二階がちぐはぐに重なった建物が多く、どの屋根も少しだけ斜めに下がっていた。


 町の中央の広場には井戸が一つと、古い石碑が一つ。石碑の文字は風化で潰れかけて、もう読めない種類のものになっていた。


 俺たちが町に入ると、猫に似た獣が一匹、家の軒下からむくりと起き上がって、尻尾を二度振って、また寝そべった。町の反応は、それで全部だった。


「……のんびりしてるな」

「街道沿いの町は、旅人慣れしている。一人二人増えても、いちいち驚いたりしない」


 カルセウムは平坦な声で言った。俺はその平坦さに少しだけほっとした。ノタスと別れてから半日、ほぼ無言でここまで歩いてきた。ノタスの話のどれが嘘で、どれが本当で、どれが俺たちに教えたかったことだったのか、整理する時間を二人ともが必要としていた。


 宿はすぐに見つかった。


 看板には鳥の絵と、何かの丸い種の絵が描かれていた。鳥の絵は下手だった。種の絵も、まあ、上手とは言えなかった。今日の宿は、中の下といったところか。


「今晩ひと部屋、頼む」


 カルセウムがカウンターで言うと、宿の主人は俺の T シャツを見て一瞬だけ手を止め、それから何も言わずに鍵を差し出した。面倒事の匂いを察知しても何も聞かない、という対応は居酒屋の店主と似ていた。部屋は二階の一番奥だった。窓が一つにベッドが二つ、机が一つ、椅子が一つ。部屋の作りだけなら昨日の宿と見分けがつかない。違うのは窓からの景色が、町の外れの麦畑だということくらいだ。


 俺は荷物を下ろし、机に両手をついて、長く息を吐いた。


「疲れたか?」

「分かってて聞くなよ」

「聞いておかないと、次の出発を先延ばしにする理由を探すだろう」

「……するかも」


 正直に頷いた。足の裏はとっくに感覚がない。肩にはリュックの跡がくっきり残っている。街道を歩くというのは、異世界での冒険という甘美な響きに反して、単に「長い距離を自分の足で移動する」ということ以上のなにものでもなかった。


「飯は部屋で、話しながら食おう。俺が取ってくる。お前はすこし休んでいろ」

「いいのか?」

「いい」


 カルセウムは部屋を出ていった。一人になった部屋で、俺は食事のために机と椅子の場所をずらし、片方の椅子に腰を掛けた。そして、すこし迷ってからリュックの底からノートを取り出した。


 昨日侵入者が残していったページは、残念ながらそのままだった。


 「次は、逃がさない」の一文。角ばった筆跡。昨日より心なしか乾いた墨の色。俺は震える手を御しながらもう一枚めくる。


『きた〇い まちと いえの〇いこども』


 一瞬、俺の思考と視線が止まる。それは見覚えのないページだった。そして、子供の字だった。


 俺はしばらく、そのページを見つめた。昨日まではなかった文字、のはずだ。ノートは、銀の鈴と共に俺たちの背筋を凍らせた後、他に手掛かりがないかどうかカルセウムと一緒に精査されていた。


 汚い町と、家のない子供。


 帝都、のことだろうか。ノタスは、税関の話も政治の話もしたが、帝都が「汚い」とは言わなかった。あたりまえだ、町がどの程度汚いかなんて商人が客に話す情報ではない。


 この町も、今朝まで滞在していた町も「汚い」という感じではない。


「——選択を奪う情報、かな」


 呟いてから俺はノートを閉じ、リュックの底に戻した。紐を締めた。昨日と同じ儀式、だが今日のノートは、昨日よりほんの少しだけ重く感じた。



 夕食はひき肉の団子と、根菜の煮物、それに硬いパン。俺たちは狭い部屋の中、机を挟んで向かい合って食べた。


「ノタスの話さ」

「ん」

「『腐王の健康が芳しくない』って部分、本当だと思うか」

「分からん。だがもしそれが本当で、俺たちに伝えたい情報だったなら、帝国の政治に近い立場の誰かが動いている、ということになる」

「帝国の、誰?」

「それは分からない。皇帝派、大公派、前皇派、あるいは、派閥に属さない人間。可能性だけなら、いくらでも考えられる。だが、可能性は低いだろうな」

「どうして?」

「俺に帝国の政治に関わるような知り合いはいない」


 カルセウムは団子を噛みながら、淡々と並べた。


「もし、お前にそんな所縁があるなら別だが…」

「全く心当たりがない」

「だろうな」

「はっ!!俺が帝国にとって超重要な能力を持っていて狙われているとか??」

「ペンは、いらんだろう」

「・・・」


 そうだった。俺は少し悲しい気持ちになりながら、自分に与えられたギフトを味わう様に右手を振りペンを呼び出す。そして、くるくると手の中で回し始めた。


「あとさ、もう一つ気になってることがある」

「なんだ」

「十の戒め、って、聖王国の外交にまで使われるほどの、大きいものなのか?」


 カルセウムは、スプーンを一度置いた。


「俺が知っている範囲では、教会のとても古い言い伝えだ。その昔、予言者が人間に与えた十の決まりごと、という形で伝えられている」

「預言者?」

「詳しくは、俺もしらん。だが、確かに大陸全体に広まってはいる」

「なんか含みのある言い方だな。それで、十の戒めは普通に守られてるのか?」

「守られているというよりは、気にされていないという方が正確だ。古すぎて、ほとんどの人間にとっては実感がない。たとえば『盗むな』『殺すな』『偽証するな』なんてものがある。——こういう基本的なものは、誰も戒めのために守っているわけではない。だが、結果として守っている」

「じゃあ、聖王国が『帝国は戒めに背いてる』って言うのは」

「そのままだとしたら、かなり大雑把な言葉だ。その名の通り十個の決まりがあるんだ。その文言であれば、どれに背いている、という具体的な話ではない」

「そうなると、帝国は反論しようがないな」

「そうだ。『何に背いているのか』を聞くと、『全体として、だ』と返ってくる類のやつだ」


 それは、考えてみるとなかなか嫌な外交だった。


「カルセウム」

「ん」

「聖王国って、そんな国なのか?」


 その質問には、カルセウムはしばらく答えなかった。また団子を一つ口に入れて、噛んで、呑み込んで、それから、ゆっくり言った。


「現聖王は、二十七だ」

「若いな」

「ああ、俺と同じだ。若い聖王が、歴史的に見ても大胆な外交をしている。そうしたいのか、そうせざるを得ないのか、俺には想像もつかない」


 俺と同じ、と、さらりと言った。俺の抱いていたカルセウムのイメージよりも若かった。俺から見て 6 つ上。そう考えると、カルセウムも聖王も随分と自分に近いように感じてしまう。そして目の前の男と同い年の人間が、国を一つ、自分の正しさで塗り替えようとしている。俺はそれを、どこか遠い国の話を聞くようにどこか他人事に聞いている、見たこともない「聖王」踏んだこともない聖王国と帝都、俺は自分との距離を正確にはかれなかった。


「なあ、カルセウム」

「なんだ」

「・・・帝都って汚い?」



 夜は、ほとんど眠れなかった。いや、おそらく眠ったのだろう。ただ、夢と現実の境目が、何度も曖昧になった。天井の木の梁を見ている間に、いつの間にかなつかしい俺の部屋の天井と重なって、また、宿の梁に戻った。そういうことを何度か繰り返していた。カルセウムは隣のベッドで、いつも通り寝息で一定のリズムを奏でていた。どこでもどんな状況でも眠れることは冒険者にとっては重要な素質の気がする。

 夜明け前、俺は早々に諦めて起き出した。物音にカルセウムが寝返りを打って、目を開けた。


「……まだ暗いぞ」

「寝れない」

「そうか」


 カルセウムも起き上がった。彼の身支度は、一分もかからなかった。宿の一階は夜に包まれていた。主人だけが、カウンターの奥の椅子で毛布を抱えて寝ている。起こすのは悪い気がしたが、鍵を返さずに出るわけにもいかない。俺が声を掛けようとしたその時、カルセウムが俺の肩を、軽く掴んだ。口に、指を一本立てていた。


「……?」


 俺は声を出さず、目で聞いた。カルセウムはカウンターの向こう、厨房の横の裏口の方を見ていた。


 そこに、影があった。


 人の形をして、ただ、立ち止まっていた。一秒。二秒。三秒。動かない。だが息をしていないのではない。おそらく息を殺している。


 俺は首の後ろが、急速に冷えていくのを感じる。体中から体温が抜けていく感覚。この世界に来て初めて四耳狼と対峙してきた時の感覚に近い。カルセウムが、俺を背中で押すようにして、そっと玄関の方へ促した。鍵はカウンターの上に置く。主人がそれを見つければ、わかるだろう。


 俺たちは、足音を立てずに宿を出た。扉が閉まる瞬間裏口の影が、こちらへ、ほんの少し、向きを変えた気がした。



 町の通りは、まだ完全に暗かった。しかし月は低く、もう半分西の屋根の向こうに隠れかけている。空気は湿って冷たく、吐いた息が微かに白く見えた。犬も鳥も、まだ鳴いていない。


「逃げるか?」

「駄目だ。走ると音が出る」

「じゃあ、どうする」

「早足で町の外へ。門は普通に通る」


 門は、昨日俺たちが通った時のままの門番が、眠そうに立っていた。カルセウムは銀貨を一枚、手渡して名前も見せず、通してもらった。門番はあくびをして、閂を戻した。


 町の外に出ると麦畑が広がっていた。朝霧が、低く、地面を這うように広がっている光景は怪しくも美しかった。街道はその霧の中を真っ直ぐ、東へ伸びていた。俺たちは追われながら、この道を 5 日ほどひたすらに進むのだ。


 町の城壁に沿って、北へ少し回り込んだ。街道から外れて霧の中に入る。カルセウムは歩幅を変えずに、俺を引っ張るように歩いた。


「待て。ここから街道に戻るんじゃないのか?」

「戻るが、町を離れてから戻る。待ち伏せされている可能性が高い」

「——なんでそう思う?」

「宿に、誰かが来ていただろう」


 それは、さっきの裏口の影のことだった。裏口の影が、宿の主人に用事のある人間である可能性は低い。主人は寝ていた。宿に用事があるのであれば、起こすはずだった。何かを確認するために来た、とすれば、確認の対象は高確率で俺たちだ。


 つまり、あの影は俺たちが宿を出るかどうかを、ただ、見ていた。


「追手が、一人じゃないってことか」

「断定はしない。だが、聖騎士たちと昨夜の銀の鈴、宿の影、全て『見張る側の行動』だ」


 俺はもう口を開かなかった。前を向いて歩いた。ひたすらに歩いた。霧が靴の上を流れていく。麦畑の葉が、小さく音を立てる。半刻ほど、俺たちは町を離れる方向に北へ歩き、それから大きく東へ回り込んだ。街道は、もう視界の外にあった。霧が少しずつ薄くなり、東の空がわずかに明るくなり始めたころ、目の前に小さな丘があらわれた。


 街道をまたぐ形で、街道の東側に出るにはその丘の裾を回るか、丘の上を越えるかどちらかだった。


「上を行く」


 カルセウムが言った。


「……丘、登るのか」

「登る。下の方に回ると、視界が狭い状態で街道と重なる。上は少なくとも視界は開けている」


 俺は頷いて、丘を登り始めた。勾配はそれほど急ではなかった。草が伸びきっていて、足首まで隠れる。朝露がジーンズの裾をあっという間に濡らした。


 丘の中腹まで登った時だった。その気配は先に、俺の頬に来た。風が一瞬、違う方向から吹いたのだ。そして、その風の中に微かに、鋼の匂いがした。油を塗った、手入れの行き届いた鋼の匂い。俺はそれを、昨日の井戸の前と西門の脇で二度嗅いでいた。


 顔を上げる。


 丘の頂上、まだ薄い霧の中に三つの人影が立っていた。中央に、銀髪。両脇に剣を帯びた男二人。


 聖騎士だ。



「昨日の、忠告は、届かなかった?」


 先に口を開いたのは、中央の女だった。


 『月見』ノタスがそう呼んだ女。彼女は昨日の西門で見た時と同じ、灰色の軽装だった。剣は帯びているが抜いていない。男二人の方は、彼女の一歩後ろにまっすぐ立っていた。剣に手は掛けていない。だが、掛けていないだけで、いつでも剣を振れる体の構えに見えた。


 カルセウムが、俺の半歩前に出ながら言う。


「こちらに交戦の意志はない」

「あら、そう」


 月見は、唇の端だけを少しだけ上げた。


「こちらにもないわ」

「では、通していただけるか?我々は初対面だ」

「通してあげたいのはやまやまなのだけど」


 月見は霧の中で一歩、前に出た。


「残念ながら上から命令が出てしまったの。『そのノートを持っている男を、聖王国まで連行せよ』ですって」


 連行。その言葉が俺の脳の中で、ひどく具体的に響いた。捕縛ではなく、殺害でもない。生きたまま、移動させて、どこかに届ける。届け先はたぶん、聖王国の誰か。


「連行の命令はいつ下った?」

「昨日の夜よ」

「つまり、昨日の昼、そちらが『開かない方がいい』と忠告した段階ではまだ命令はなかった」

「そういうことになるわね」


 月見は、そう答えた。彼女の返答の短さの中には、微かに諦めに似たものがあった。この女は、命令に従って俺たちを追っている。


「『月見』と呼ばれているな」

「よく知ってるのね」

「街道の商人がそう呼んでいた」

「商人は口が軽くて困るわね」

「口が軽いのではなく、俺たちにわざと伝えるために喋ったような節もあった」

「あら」


 彼女の眉が、ほんのわずか動いた。この反応は初耳の反応だった。ノタスに俺たちへの伝達を頼んだ第三者がいたとして、少なくとも聖王国側ではないのかもしれない。おそらく、月見の耳には入っていない。


「話し合いで済むなら話し合いがしたい」


 カルセウムが低く言った。


「連行の命令は下されたばかりだろう。あなたが『この男は連行する価値のないただの旅人だった』と報告すれば、命令は取り下げられるのではないか?」

「あら、それより簡単な方法が目の前にあるのに、どうしてそんなことをしなければならないの?」

「これは交渉だ。俺が提供できるものなら出す」


 カルセウムがそう言った時、月見の目が少しだけ細くなった。この男が「出す」と言うからには、出せる何かを持っている、ということだ。交渉の価値があると思わせるものを、何か。


「提供できるもの、ね。ふーん、具体的には?」

「ここでは言えない。二人で話せるか」

「デートのお誘い?」

「霧の丘は好みじゃないか?」


 月見は護衛の二人をちらりと見た。護衛は小さく首を振る。彼女は少し考えて、首を戻した。


「護衛を外すのは、私の権限ではないの。でも、声の届かない距離まで、彼らを下がらせることはできる」

「それでいい」

「いいわ」


 月見は護衛に手振りで合図した。二人は丘の反対側に、二十歩ほど下がった。近い。かなり近い。だが声までは届かない距離だった。カルセウムが、俺にも少し下がるように目で合図した。俺は、三歩だけ下がった。すると二人の間で何か低い声のやりとりが始まった。


 会話の内容は聞こえないが、月見の顔が一度だけ、驚いたように動くのが見えた。そして、それからしばらくの後、疑わしそうに片眉を上げた。カルセウムは何を提案したのだろう。


 ただ月見は、最後にゆっくりと首を振った。


 カルセウムが俺の方を振り向いた。そして、首を横に振った。



 ——交渉は失敗ということが、その瞬間俺にも分かった。


 丘の上に緊張感が走る。


 月見は一歩、丘の頂上の方へ下がった。護衛たちがそちらに近づいてきた。


「残念だけれど、連行します」


 月見は静かに言った。


「抵抗しないなら、手荒にはしないわ」

「抵抗はする」


 カルセウムが即答した。次の瞬間剣を、抜いた。


 抜き方が妙だった。音を、立てなかったのだ。鞘から鋼を引くあの音が一切しなかった。どういう動きをしたら、あの音を消せるのか俺には分からない。護衛の二人も、瞬時に剣を抜いた。こちらは、普通の音がした。金属の擦れるファンタジーの音だった。


 護衛の二人が前に出る。カルセウムはとても簡単に見える動きで、二人の剣筋を逸らす。バランスを崩した護衛の一人の背中を蹴って転がし、振り向いてきたもう一人の剣を受け止める。霧の早朝に火花が散った。


 月見は剣に手を掛けない。代わりに、俺の方をまっすぐ見た。その目は俺を見ているようで、見ていない不思議な印象を持たせる目だった。彼女は今、何を見ているのだろう。


「あなたの相棒は強いのね」

「まあ、そこそこ」

「そこそこ、じゃ済まないと思うわよ」


 月見はそう言って、俺から――少なくとも俺の方向から目を逸らした。そして、護衛の一人に低く何かを命じた。護衛が、剣を振り上げ前に踏み出す。その瞬間、月見の手から護衛に向かって何かが飛ぶ。


 ――護衛が、加速する。構えたまま不自然に加速した護衛の剣はまっすぐにカルセウムの腕に振り下ろされていた。


(だめだ、防御が間に合わない)


 俺は心の中で叫ぶ。


 ——そして、そこで世界はおかしくなった。


 丘の上の空気が粘土のように重くなる。息ができない、のではない。息はできる。ただ空気が自分の周りで、歪んでいた。霧の色が変わった。朝の薄い白から、深い紫に。音が徐々に消えていく。草の揺れる音も、護衛の踏み込む音も、カルセウムの足の裏が草を潰す音も、剣と鎧のぶつかる金属音も全部、徐々に遠くなり同時に、消えた。


 自分の足下の草が、急に遠くなる感覚があった。落ちる、のではなかった。持ち上げられた、のでもない。


 ——位置がずれた。


 そう表現するしかない感覚だった。俺は初めての感覚にとっさに口を押える。胃がひっくり返されるような、掻き回されるような感覚。月見の顔が、紫の霧の中で大きく目を見開くのを最後に視界が一面、白くなった。


 ――そして数秒後、世界が、戻ってくる。



 足の下には石畳があった。


 朝のまだ薄暗い、しかし丘の上の芝生ではない地面に俺たちは立っていた。遠くで鐘が鳴っている。低く、重く、どこか大きな鐘楼から、広い町の上に響いて広がっていく音だった。


 空気の匂いが違った。麦の匂いも、朝露の匂いも、なかった。代わりに人の匂いがした。大勢の人間が、そこで眠り、起き、暮らしている、温度のある生活の匂い。


 俺の足は路地の真ん中に立っていた。両側には、三階建ての建物がそびえている。木と石でできた、古くも新しくもない高い建物。路地の先には広い通りが見えた。朝の光の中に、何人かの人影がもう歩いていた。


 カルセウムは俺の隣にいた。彼は、剣をまだ抜いたままだ。鞘に戻すのを忘れている。その顔には、珍しくはっきりとした戸惑いが浮かんでいた。


「……カルセウム」

「ああ」

「ここ、どこだ?」


 カルセウムはゆっくりと首を回した。通りの遠くを見た。それから、路地の壁の煉瓦に指を当てて、その煉瓦の具合を、一度だけ確かめると、彼は低く言った。


「……帝都だ」


 ——帝都。


 五日かけて歩くはずだった、それが俺たちのいた現在地から帝都までの距離。それを一瞬で、ここに来たということになる。


 俺は自分の足を見下ろした。スニーカーの先が、石畳の隙間にきちんと収まっていた。左のリュックの紐が、少しだけ緩んでいる。背中の汗は麦畑で吸った朝露のまま、まだ乾いていない。


 間違いなくさっきまでと同じ自分の体が、同じ朝に、違う場所に立っていた。


 通りの先で、鐘がもう一度鳴った。俺の口から、音にならない何かが短く出た。カルセウムが、剣を鞘に戻した。


 戻す音はやはり立たなかった。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

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