月見
新連載です。
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毎日更新がんばります。
第5話 月見
早朝の宿は静かだった。
実際には、そこそこ人の出入りはあるようだった。階下からは女将の声がして、誰かの足音が食堂を横切っていった。外からは荷車の車輪の音。鶏のような何かが短く鳴いて、すぐに止めた。生活の音だ。
ただ、俺のまわりだけが冷たく静まっていた。昨夜、部屋の机の上にあった銀の鈴と、開かれていたノート、そして覚えのない一行。その記憶が、耳の後ろあたりに一晩中張り付いたままだった。
「起きろ、シンジ」
カルセウムの声に、俺は丸まった身体を伸ばし、足で毛布を押しのけた。寝惚けた目をこする俺と反対にカルセウムは既に旅装だった。剣を背負い、外套を肩に引っ掛け、手には二つのリュックを持っていた。俺のと、彼のと。
「まだ外暗いじゃん」
「だから出るんだ」
「……ああ、そうか」
普通じゃない時間に宿を出ることが、昨夜の結論だった。俺は起きて、顔を洗いもせず、ジーンズの裾をぱたぱたと整えた。雑貨屋の老婆から買った針糸と革紐は、既にリュックの中。ノートも同じリュックの底。侵入者が触れた後のノートを、もう一度封じ直す気にはならなかった。気休めにしかならない。それに、ペットボトルはもう空だった。落ち着きを取り戻すには 250mL 以上の水が必要だったのだ。
女将は、この時間でも起きていた。一階の暗い食堂の、奥の椅子に腰掛けて、湯気の立つ茶碗を両手で包んでいた。
「出るんだね」
「ああ、急用だ」
「そうかい。朝食は」
「いらない。代わりに…」
「用意しておいたよ」
「ありがとう」
カウンターの上に、布で包んだ小荷物が二つ、既に置かれていた。お弁当だろうか、話が早い。女将が早起きだったのではなく、カルセウムが早くから起きて頼んでいたからだった。
支払いを済ませて、日が見え始めるころ俺たちは宿を出た。外に出た瞬間、空気の冷たさで眠気が半分抜けた。紺色と橙色の混じった空。通りでは、朝の町がもう動き始めている。荷車を押す老人、水桶を運ぶ娘、犬に似た獣を引いた狩人らしき男。みんながそれぞれの朝を別々に過ごしている。共通することは、誰も俺たちを気にしない、ということだ。
気にしないのがいい。無関心は安全で安心だ。
昨日までなら「異世界の町の夜明け!」と胸が躍ったであろう光景も、今朝はただ、足を速める理由でしかなかった。
◇
町の門をくぐるまで、カルセウムはほとんど喋らなかった。門番が眠そうな目で少し不満そうに俺たちを見た。カルセウムが何か言葉を交わして、硬貨を一枚、さりげなく渡した。見なかったふりをしておく。門番は小さく頷き、門を開けた。
俺たちは町を出た。背後で門の閂が再び下ろされる音を聞いて、俺はようやく、息を吐いた。
「出られたな」
「当然だ」
「当然じゃないだろ、俺たちの部屋に侵入者がいたんだぞ」
「侵入者の目的は俺たちじゃなかった。少なくとも、今朝までは」カルセウムは前を向いたまま言った。
「その気であれば、昨日の夜のうちに来ている。それに、盗られている物もなかった。来なかったということは、今は、監視の段階だ」
「監視…」
「理由も狙いも分からないが、相手はまだ動かない。だから、動かないうちに距離を取る」
なるほど。つまり、俺たちは、見られている状態で町を出たわけだ。
見てるのは誰だ。侵入者は誰だ。あの聖騎士だろうか。それとも、机に鈴を置いたのは別の誰かか。狙いはあのノートか俺自身か、もしくはカルセウムか。それに、昨日の聖騎士の言葉。考えるべきことだけが増えていき、答えも情報も前に進まない。知らない世界での不安や心細さがリアルな質感をもって皮膚のすぐ下を這い回っていた。
「——なあ、カルセウム」
「うん?」
「あの鈴、何だったんだ」
「分からん」
「いや、分からんじゃなくて、推測でも何でもいいんだけど」
カルセウムは少し考えた。
「銀の鈴を置くやり方は、俺の故郷の古いおまじないに似ている」
「おまじない?」
「俺の故郷では子どもの枕元に銀の鈴を置く。悪い夢を追い払うための鈴だ」
「……それ、今回のケースに当てはめると」
「あのノートを『悪い夢』扱いした誰かが、鈴で封じようとした。あるいは、封じる真似事をした」
それは、警告の意味が強いような気がした。本気でノートを封じたかったのなら、持ち出すだろう。俺たちは侵入者に気付かなかったんだ、ノート一冊持ち出すことは容易い。しかし、残されていたということは、持ち出す判断をしなかった、ということになる。確認だけで満足したか、持ち出せなかったか。
「じゃあ、『次は、逃がさない』ってのは」
「分からない、だが鈴とは矛盾する」
「矛盾?」
「鈴は守りのまじない、『逃がさない』は追手の言葉だ。それだけで捉えれば、同じ机の上に二つの違う意志があった、ということだ」
「昨夜の侵入者は二人いたってことか??」
「そうとも限らない。可能性だけなら、いくらでも考えられる。まずは事実だけを捉えるべきだ。繋げるのはもっと情報が増えてからでいい」
事実。閉めたはずの窓は開いており、閉まっていたはずのノートが机の上に開かれていた。さらにその上に見覚えのない銀色の鈴と、『次は、逃がさない』の文字が書かれていた。どれだけ考えても、良い可能性は思いつかなかった。
「とりあえず、歩こう」
「そのつもりだ」
街道は、朝の霧の中を、東へ、緩やかに伸びていた。
◇
一刻ほど歩いたところで、すっかり日は昇り夜はあけていた。霧は引き、視界が開けた。遠くまで続く麦畑と、道沿いの低い石垣と、時折木の下で草を食べている荷獣の群れ。空は高く、雲は薄く、朝の色から昼の色へ、少しずつ移り変わっていく。
気がつくと、俺は少しだけ肩の力が抜けていた。町を離れたからだろうか。あるいは、カルセウムがずっと横にいるからだろうか。どちらにせよ、昨夜の耳の後ろの張り付きが、少しだけ剥がれかけていた。
「腹、減った」
「四半刻前にも言ったぞ」
「まだ食っていい時間じゃないのか」
「もう少し歩いてからだ」
カルセウムはケチだった。俺は、リュックの脇から水筒を取り出して、一口飲んだ。冷たい水が、喉から胃まで落ちていく感覚が、ちゃんと分かる。昨日までは当たり前だった感覚が、今朝は少しだけ、ありがたかった。
「カルセウム、少しいい話する?」
「少しなら」
「俺、いま、水が冷たい、って感じるのが妙に嬉しい」
「それが『少しいい話』か」
「悪くないだろ」
「悪くない」
相変わらず簡潔で無愛想な男だった。歩幅が少しだけ、揃ってきた気がした。
◇
その商人と出会ったのは、俺の腹が本格的に昼を教え始めた頃だった。
街道の先から、車輪の軋む音と、荷獣の鼻息が聞こえてくる。やがて坂の向こうに、幌のついた荷車が一台、姿を現した。荷獣は俺たちがネビアの方で見た奴と似た、赤茶色の大きな獣だった。御者台には、中年の男が一人。顔を布で覆い、広い鍔の帽子を被っている。
男は俺たちに気づくと、帽子の鍔を軽く押し上げた。
「おう、旅か」
「東へ」
カルセウムが短く応じる。
「おれは逆だ、西へ。あんた達は、どこまで」
「帝都」
男は「ほお」と口を開けて、歯を見せた。
「長いな。ここから、まあ、五日から六日ってとこだ」
「五日…」
俺はつぶやく。そういえばカルセウムはどのくらい歩くかを教えてくれなかった。
「街道の脚の良い馬なら四日。徒歩なら六日。あんた達は、荷の軽さを見るに、五日でいけるか」
帝都まで、五日。長いような、短いような。俺の元の生活なら「金曜日まで」くらいの感覚だが、地図に書いた定規みたいな直線を足で五日かけて踏む、というのはイメージしてみるとなかなか、重たい時間だった。
男は荷獣を止めた。
「良かったら、一緒に昼飯どうだ?水の一本くらいなら奢ってもいい」
カルセウムは俺を見てから、頷いた。
「ここで昼にしよう」
◇
男は、ノタスと名乗った。
「布と、油と、まあ簡単な食料なんかを運んでる。月に二度帝都の問屋に下ろしてる」
ノタスは、街道脇の石に腰を下ろして、硬いパンを齧りながら話した。布で覆っていた顔を、ようやく見せてくれていた。日焼けした顔に、細い目と、白い歯。年齢はどう見ても五十を超えていたが、体つきはしっかりしている。何年もこの街道を行き来している男の体だった。
俺たちも横に座って、女将が早朝から作ってくれた弁当を開いた。中には、硬いパンと、塩漬けの肉と、干した果物。地味だが、歩き疲れた体には妙に美味い。
「あんたら、帝都の方は最近行ったのか?」
「二月ほど前に、通った」
カルセウムが答えた。
「じゃ、まだ、マシだった頃だな」
「マシ?」
「うん。最近は、悪い」
ノタスは、パンを二つに割りながら、軽く言った。重い話を軽く言う男だった。
「悪いって、何がどう悪い?」
同じようにパンを二つに割りながら、聞いてみた。
「そりゃあ、いろいろだな。たとえば、税関がきつくなった」
「税関?」
「帝国と周辺国の出入りだ。一年前まで、俺の荷は、羊皮紙一枚だけで通れた。今は、三枚も要る。内訳を書いて、商人組合の印と、出発地の長官の印と、帝都の問屋の推薦状だとよ」
「それは、面倒だな」
「面倒なんて程度じゃあねぇよ。印が一つでも足りないと、荷の半分を没収しやがる。半分だ。こっちの儲けは、半分どころか全部ふっとぶ」
ノタスは、パンの欠片を、道に転がった石に向かって投げた。
「で、その印を集めるのに、また手間と、金と、時間が要る」
「なんでそんなに厳しく?」
「さあな。俺ら、庶民の商人にはわからんよ。役所で聞いても、『決まりですので』で終わる」
聞いたことのある台詞だった。俺の国の役所でも、同じ返しが、たぶん日々発音されている。
「二つ目。皇帝陛下が、出てこない」
「出てこない?」
「儀式だ、祭りだ、表彰だ、そういうのに、一年以上姿を見せてない。病気って触れ込みだが、その病気が長いな。去年の春からだ」
「じゃあ、一年半か」
俺はカルセウムに教えてもらった暦の数え方を復習する。
「ちょうど一年と三か月だ」
ノタスは正確だった。商人の頭は、数字に強い。
「その間、国を動かしてるのは、貴族連中と役人のお偉いさん方、ってことになる。当たり前だが、権力を持った連中っていうのは一枚岩じゃあねぇ。派閥が、まあ少なくとも三つ」
「三つも派閥があるのか」
「ある。皇帝派、皇弟大公派、それから、腐王様を筆頭とした前皇派ってところかな」
腐王。その名前を聞いた瞬間、俺は一瞬、パンをちぎる手を止め横目でカルセウムを見た。
カルセウムは止めなかった。だがほんの少しだけ、眉の位置が動いた気がした。
「腐王、ってのは」
「ああ、知らねえか?帝国の、最高戦力ってやつだ。そうそう、六超人の一人な。年は、まあ、五十から六十くらいに見えるな。異名の『腐王』ってのはな、その名のとおり、あらゆるものを腐らせちまうらしい。生半可な兵士じゃ、近寄るだけでゾンビになっちまうってわけだ。俺は見たことないけどな」
久しぶりに、自分がファンタジーの世界にいることを思い出す。聖王、魔女、腐王、暗芽、異人、天災。そのうちの腐王。改めて考えると物騒な名前だ。いや、本名ではないかもしれないが。
「腐王の取り巻きが、派閥、ってのは」
「帝国の中の武力は帝国軍と腐王、そしてその護衛団だ。腐王は先代皇帝に熱心に仕えていたからな、現皇帝にはいろいろ思う所があるんだろうよ。きほん、政治に口は出さないが、出さないってだけで、皆ビビってる。現皇帝派が何か決めても、腐王様のところで『うちはこう思わない』って言われたら、止まるからな」
「黙ってるだけでも、影響力があるってことか」
「そうだ。だが最近、腐王の健康も、あまり芳しくないって噂でな」
ノタスは、そこで声を少しだけ潜めた。
「皇帝陛下が病で出てこない、腐王様も近頃動きがない。帝国の心臓が、二つとも、弱ってる。そういう時に、他の国が静かに見てるだけだと思うか?」
「聖王国…」
「そうだ」
ノタスは頷いた。
「聖王国の、若い聖王様な。これも、六超人ってやつだ。あそこはあそこで気味の悪い国だと思うが、最近やけに正しい。何がって聞かれると困るが、とにかく正しい。正しいことを、大声で、帝国に向かって言ってる」
「何を言ってるんだ?」
「帝国は『十の戒め』を、ちゃんと守れていない、ってよ」
俺の頭の中で「十の戒め」という単語が、ゆっくりと、深く沈んだ。聞いたことのない単語だった。
「十の戒め、ってのは?」
俺はできるだけ普通の声で、聞いた。
「神様の教えだ、ってよ。古い古い話。まだ、国が一つだったころのな。損くらい古いもんだって。普通は、神殿の爺さんたちが唱える呪文くらいの扱いで、俺たち庶民は、名前しか知らん。けど、聖王様は、違う。あれを、外交の言葉として使おうとしてる」
「外交の、言葉」
「『帝国は、十の戒めに背いている。だから、神罰が下る前に、正しい振る舞いを取り戻すべきだ』——そういう、公式の文書が聖王国から、帝国の宮廷に、毎月届いてるって話だ」
「毎月?」
「少なくとも、三か月分は、確認されてるってよ。馬鹿馬鹿しいだろう?でも、外交だからな、どんなものでも笑い話じゃあ済まない」
ノタスはそう言って、残りのパンを口に放り込んだ。俺は、水筒を持つ手を、少しだけ握り直した。十の戒め。昨日、俺のノートに、子どもの字で書かれていたものの中にも、何か、それっぽい単語があった気がした。確認したかったが、今はリュックから出せる状況じゃない。
「ノタスさん、一つ、いいか」
「どうぞ」
「あの、帝都で聖王国の聖騎士を、よく見るって噂は本当か?」
ノタスは、軽く笑った。
「見るよ、うん。最近、帝都の広場で三人一組の、銀髪の女と男二人の姿が、結構目撃されてる。他にも何人か名の知れた聖騎士が帝都に来てるって話を聞いたな」
心臓が、今日初めて早く打った。
「——ノタスさん」
「あいよ」
「その銀髪の女、名前は知ってるか」
「名前、ねえ」
ノタスは、布で首筋を拭いながらしばらく考えた。
「あの、冷たい感じの?」
「そうだ」
ノタスは少し笑って言った。
「兄ちゃん、どこからの旅人かしらねぇけどな。情報ってのは、ほとんどの場合商品なんだぜ」
「え?」
「月見、あの女は目立つし聖騎士の中でもそこそこ有名な部類だ。まあ、『月見』ってのは異名だがね」
俺は、昨日西門ですれ違った時の、あの銀髪の女の目を思い出した。光はなかった。ただ、こっちを、じっと、見ていた。遠くも、近くも、全部、見ている目だった。
「あんた、名前知ってるのか?本名の方」
ノタスが、逆に聞き返した。カルセウムは首を横に振った。
「知らない。ただ、銀髪の聖騎士は珍しいから、一度、覚えた顔だ」
「そうか」
ノタスはそう言って再びパンをちぎり始めた。
◇
ノタスとは、半刻ほど一緒に昼食と休憩を取った後、別れた。彼は西へ、俺たちは東へ。車輪の音がだんだん小さくなり、やがて、麦畑の向こうに消えた。街道はまた、二人きりの道に戻った。日は、少しずつ西に傾いていた。
「シンジ」
カルセウムが、久しぶりに先に口を開いた。そういえば、ノタスとの会話の時、話を振られたとき以外カルセウムは喋らなかった。
「うん?」
「ノタスは、俺たちが知りたい話をわりとまっすぐに話してくれた」
「うん」
「あれはたぶん、普段はあそこまで喋らない」
「——え」
「話に、若干だが作為があった」
俺は、歩きながら少し考えた。
「……どういう意味?」
「誰かに、俺たちに情報を話すように、頼まれていた可能性がある」
「敵が?」
「分からない。敵かもしれんが、味方かもしれん。あるいは、第三者かもしれん」
「……じゃあ、聞いた話は、嘘かもしれないのか」
「おそらく、嘘ではない。あの手の嘘はすぐにバレるものだ。そしてバレた時に信用を失う。商人は、そういう賭けはしない。だが、『本当の話の中から、俺たちに知らせたい部分だけを選んで話した』可能性と『真偽が定かではない情報を意図的に話した』可能性はある」
選んで、話した。
そうだ。ノタスは、税関の厳格化、皇帝の不在、派閥、腐王、聖王国の「十の戒め」外交、そして銀髪の聖騎士「月見」について、聞かれる以上に話してくれた。
よく喋る商人だな、と思った。だが、それが「よく喋る」ではなく「必要だから喋っていた」なら話は違う。
誰が何のために、俺たちにその情報を渡した?カルセウムが俺の表情の機微から、心を読んだように言う。
「今はまだ分からない。ただ、警戒はしておけ」
「警戒、って何を?」
「知った情報を、そのまま『事実』として使うな、ということだ。彼が話したことは全て、『誰かが、俺たちに知らせたかったこと』として扱え。最悪を想定したほうが良い」
カルセウムらしい教え方だった。情報に「選択を奪う情報」と「選択を増やす情報」があるように、情報源にも、色がある。
「覚えておく」
「それでいい」
街道の先の、少し高い丘の向こうに、小さな集落の屋根が見え始めていた。今夜の宿場町、のはずだった。
空はゆっくりと茜色に染まり始めていた。
昨日の銀の鈴と侵入者、ノタスの口から零れた大量の情報が、ひとつの頭の中でぐるぐる、ごとごとと一定のリズムをもって揺れていた。
——開かない方がいい
俺の耳の後ろに、まだ、うっすらと貼り付いていた。
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続きは明日12時と19時ごろの2話更新予定です。




