書くということ
悠月と申します。
厳しいお言葉含め、感想・アドバイスお待ちしております。
第22話 書くということ
水で顔を洗う。冷たい水が頬を伝って首筋に落ち、襟元を一筋、湿らせていく。
窓の外では、王都の朝がまだ深い藍色を残していた。北通りの石畳の上を、早朝の荷馬車が一台、車輪の音を響かせながら抜けていく。鍛冶屋の煙突から、白い煙が一筋まっすぐに立ち上る。誰かが、今日もまた何かを叩き始めるのだろう。それぞれの一日が、それぞれの場所で、始まっていく。
俺は朝の動作に少しだけ手間取った。シャツの袖を通す手が、昨日の疲れを忘れていないらしい。腕を上げると、肩の奥が鈍く軋んだ。森を半日歩いて、地面を転がって、命の取り合いの真ん中に立った身体は、寝て起きたくらいでは元に戻らない。
まあ、ただし、生きている。それは確かなことだった。
階下の食堂に降りていくと、宿の朝はまだ静かだった。
幾人かが奥の卓で新聞らしき紙を広げていたが、満席にはほど遠い。早めに起きて朝食を済ませ、朝のピーク前にギルドへ向かうのが、この町での俺の習慣になっていた。
「シンジさん、おはよう!」
ソフィアの声が、台所の奥から飛んできた。
「あ、おはようございます」
「今日はどうします? 肉とチーズのほうがいい日?」
「うーん、いつもので」
「はーい」
彼女は赤い髪の上の白い頭巾を直しながら、奥に下がっていった。マテオの姿は、まだ見えない。マテオが朝食の卓に出てくるのは、こちらが食べ終わる頃が多い。八歳児にとって、朝の早起きは大人の都合の問題でしかない。
窓辺の卓に着くと、外の藍色が、ほんのわずかずつ薄まっていくのが見えた。一日が始まる手前の、世界が誰のものでもない時間の色だった。元の世界でも、こうした時間はあった。けれど、こうして椅子に座り、明かりを灯さずに窓の外を眺めることはほとんどなかった。
ソフィアが、ぬるい茶と一緒に皿を運んできた。
「その顔の傷、無理しないでくださいね」
「あ、はい」
「冒険者って、私の知ってる人もたくさんいるんですけど、最初の頃に大きな怪我した人ほど、後で離れていっちゃうんですよ」
「離れていく、というのは」
「冒険者をやめちゃうの。怖くなって」
彼女は卓の縁を布で軽く拭いてから、こちらの目を見た。気が利く女将の目には、客を案じる温度と、もうひとつ、何か覚悟のようなものが混ざっていた。
「シンジさんは、まだ、その線の手前にいるから」
「線の手前」
「うん、そう。だから、無理しないでね」
彼女はそれだけ言うと、別の客の卓に向かっていった。
残された茶は、朝のひんやりした空気の中で、湯気を立てている。湯気の動きは、たぶん、何かを語っているのだろう。その何かを読み取れるほどには、こちらの目はまだ覚めていなかった。
◇
ギルドの扉を押すと、想像していた通りに館内は閑散としていた。
依頼書の壁の前には三人ほどの冒険者がいるだけで、それぞれが自分の指で紙の端を突いたりしながら、低い声で連れと相談していた。
早朝の喧騒の名残が、空気の中にわずかに残っている。誰かが置いていった革鎧の油の匂いと、誰かのこぼした茶の匂いと、それから紙の匂いが、層をなして建物内に沈んでいた。
壁の前に立ち、いつものように紙の海を眺める。
今日選ぶつもりの依頼は、すでに昨日の帰りに目星をつけていた。北の市場のとある肉屋からの依頼で、市場の搬入口から店までの荷運びを半日。報酬は控えめだが、剣で稼ぐ気のない冒険者には、こういう細い道のつながりこそが大事だった。
目当ての紙に手を伸ばそうとした、その時—
「シンジ」
奥のカウンターから、低い声が掛かった。
顔を上げると、アンカ・ロレッツィが、卓の向こうから片手を軽く上げていた。今朝の彼も、いつものように深い青の長衣を着て、頭の頂の白髪が朝の光に薄く反射していた。
「あ、おはようございます」
「ああ、おはよう。今、依頼書を選ぼうとしていたところか」
「はい。北の市場の荷運びを、と」
「悪いんだが、それは別の者に譲ってくれ。君には、別の話を一つ預かっている」
幹部直々の話というのは、新人にとって普通のことではない。館内に残っていた数人の冒険者が、こちらを盗み見ているのが分かる。
冒険者というのは、自分のことには無頓着な癖に、他人の依頼の話には驚くほど耳が敏感な人種だった。
俺はアンカの卓の前の木の椅子に腰を下ろした。彼の前には、いつものように薄い書類の束と、油の匂いのする黒いインク瓶、銀色の小さな金属片が几帳面に並べられている。
今日は書類の上にもう一枚、別の紙が置かれていた。
「指名の依頼が来ている」
「指名、ですか」
「ああ。依頼主は、エルゼ・ノヴァクという男だ」
「ノヴァク」
「知らないか」
「えーと、すみません」
アンカは、一枚の依頼書を取り出しながら続ける。
「この男は、今、王都で最も売れている作家だ」
「作家?」
「ああ。『紅の旅人』シリーズ、というのを書いている。聞いたことくらい、あるんじゃないか」
その題名には、確かに聞き覚えがあった。
青鳥亭の食堂の卓で、ソフィアが時々読んでいる本だ。表紙には、赤いマントの旅人と、剣を構えた少女が描かれており、ソフィアが「これ、いま王都で大流行ですよ」と笑顔で言って差し出してくれたものを、俺はまだ最初の数ページしか読めていなかった。
「あ、それなら」
「そうか、ならよかった」
「あの本を書いている人が依頼人?」
「そうだ。本人もこのギルドの常連でね、毎度少し厄介な依頼を置いていく」
そう言って、頭の後ろをポリポリとかく。
「依頼内容は、取材だ」
「取材、ですか」
「ああ。彼は、今、新作の構想を練っているらしい。その取材に、こちらに冒険者の同行を頼みたい、と言ってきた」
「俺、まだ無色ですよ」
「だからこそだ。彼の希望は、はっきりしている。できるだけ無名で、できるだけ新人で、できるだけ普通の冒険者、とな」
アンカの口元が、もう一度わずかに上がった。
「酔狂な依頼だ、と私も思う。だが、条件は綺麗に君に当てはまる」
「あの、断ることも」
「もちろん、できる。ただし、断る理由が君にあるなら、それを聞きたい」
断る理由は、特になかった。半日の取材の同行で銀貨が手に入る、という話なら、新人冒険者にとっては破格に近い。それでも、少し躊躇ったのはアンカの「酔狂な依頼」という言葉と、その含み笑いだった。
「受けます。お引き受けします」
「いい返事だ」
アンカは満足そうにうなずく。
「一つだけ、忠告しておく」
「はい」
「あの男は、悪い人間ではない。ただ、扱いには少し慣れがいるかもしれん」
「扱いに、慣れ」
「ああ。会えば、すぐに分かる。説明するより、自分で味わったほうが早い」
彼はそれ以上を語らず、依頼書の隅に小さな朱印を一つ押した。朱印の縁が紙に滲んで、わずかに墨の色を変える。書類の儀式を一つ済ませる指の動きは、無駄がなく、慣れていた。
「待ち合わせ場所は、王都中央広場の、北側の噴水の脇。二の鐘までに、向かってくれ」
「分かりました」
依頼書を受け取り、さっそく待ち合わせ場所に向かおうと歩き出した、背中に声がかかる。
「シンジ」
「はい」
「無理に話を合わせなくていい。ありのままの君を見せれば、それでいい」
アンカの目には、いつもの落ち着いた色の奥に、わずかに別の色が混じっていた。心配、という温度には、まだ届かない。けれど、無関心、というほど冷たくもない。長く幹部を務めてきた男が、新人ひとりに向けるには、少しだけ深い視線だった。
俺は頭を下げて、ギルドを後にした。
◇
王都の中央広場は、人で溢れていた。
広場の中央の大きな噴水が、午前の光を浴びて、白い水の柱を空に押し上げている。水しぶきが落ちる音と、市場へ向かう人々の足音と、子供を呼ぶ母親の声が、柔らかく重なっていた。
噴水の脇のベンチに、男が一人、悠然と腰掛けていた。
遠目に見ても、その姿勢の美しさは目を引くものだった。背筋が一本の線のようにまっすぐで、組んだ脚の上に置かれた手の置き方にすら、計算された角度のようなものがある。
淡い茶色の髪は丁寧に整えられ、午前の風に少しだけ揺れていた。年齢は、こちらと同じくらいか、わずかに上、というところだろう。
彼はこちらに気付くと、ベンチからゆっくりと立ち上がった。
立ち上がる動作にも、姿勢の良さがあった。腰から肩までの線が一度も崩れずに、そのまま、空気の中に直立する。
「ああ、君がシンジくんかな」
声をかけられて初めて、俺はその男の一連の動きに見惚れていたことに気付いた。
「あ、はい。シンジ、と言います」
「エルゼ・ノヴァク。よろしく」
彼は片手を差し出してきた。俺は反射的にその手を握る。手は、思ったよりも骨ばっていた。長く筆を握ってきた人間の手というのは、こういう形をしているのか、と頭の隅で思った。
「アンカからは、どんな話を聞いてきた?」
「えーと、取材の同行で、半日、ということで…」
「うん、まあ、その通りなんだけどね。アンカは、こういう時、いつもざっくりとしか説明しない」
彼は軽く笑った。整った歯並びが見える。笑い方にすら、こちらにそう見えると分かっていてやっている、というような自意識が薄く滲んでいた。
「実は、僕、今、新しいシリーズを構想していてね。これまでの『紅の旅人』とは別の系列で、もう少し、こう、日々の冒険者の生活そのものに焦点を当てた作品に挑戦しようと思っているんだ」
「日々の生活…」
「うん。剣を振ったり、魔獣を倒したり、伝説を立てたりする話は、もう僕は飽きてしまったんだ。読者もいい加減、別の景色を見たいだろう、と思ってね」
「別の景色」
「無名の、それも新人の冒険者。剣の腕も、能力も、まだ熟れていない時期の、その人間の目で、世界は描きたい。何を考え、何に疲れ、何に救われるか。そういうものを書きたい」
彼の話し方は、よく整理されていた。話している間、彼の視線はこちらの顔から離れない。けれど、決して圧をかけない。聞き手の集中を、自然に自分の言葉に吸い寄せていく話術だった。
「で、いろんな新人の冒険者に当たってみたんだけれど、皆、揃って同じことを言うんだ。『英雄になりたい』『有名になりたい』『大きな依頼を受けたい』。気持ちは分からなくはないけどね。けれど、それじゃあ既存の冒険譚と何も変わらない」
「はあ」
「だから、アンカに頼んだんだ。今度は無名で、新人で、できるだけ庶民派の冒険者を見繕ってくれ、と」
「あの」
「うん?」
「俺は、ご期待に添えるかどうか…」
「君は、今のところご期待のド真ん中だよ!」
彼はもう一度笑った。
今度の笑いは、最初のものよりも、わずかに親しげだった。整った顔の、整った微笑の下に、もう一段、別の温度が透けて見えた気がする。
「では、行こうか。今日はね、君と一緒に、王都のいくつかの場所を歩こうと思っている」
「歩く、というのは」
「うん。半日かけて、ゆっくり。途中で、いろいろ話を聞かせてもらう。質問もあるし、世間話もある。ちょっとした使いも頼むかもしれない」
「分かりました」
「いいねぇ、その素直な返事。実に、書きたくなる」
彼は外套の内ポケットから、薄い手帳を一冊取り出した。表紙の革は、すでにあちこちが擦れていた。長く持ち歩かれてきたことを感じさせる手帳だった。
「え、あ、いま書くんですか」
「うん、書く。今日は、最初から最後まで書く。気にしないでくれ」
「はあ」
「気にしないで、と言って気にしないでいられる人間はいない、ということも、僕はもちろん知っているけれど。でもね、思ったことにはその瞬間に文字という形を与えないと、腐ってしまう」
彼はそれだけ言うと、手帳に何かを書き込みながら、広場の北西の方向に向かって歩き始めた。
その歩き方にも、姿勢の良さがあった。歩幅は一定で、肩の上下がほとんどない。広場を行き交う人々の流れの中を、まるで水が岩を避けるように、滑らかに抜けていく。
俺は半歩遅れて、彼の後を追った。
追いながら、頭の片側で、アンカの「扱いに少し慣れがいる」という言葉を思い出していた。
なるほど、と頷くしかなかった。
◇
彼が最初に向かったのは、北の市場だった。
いつも俺が歩いている通りの市場ではなく、もう少し規模の大きな、北の市場。
屋台の連なりは倍以上あり、買い物に来た人々の数も、ざっと見て三倍に達するだろうか。
声と匂いと色が、人々の身体と一緒に渋滞している。揚げた小麦の香りと、酢漬けの果物の酸味、新鮮な魚の生臭さと、染め物の店から漂う草の煮汁の匂いが、こちらの鼻の中で順番に主張してくる。
エルゼは市場の入り口で、しばらく足を止めた。止めて、ただ眺めていた。
彼の視線の動きは独特だった。果物屋の老婆を見て、その隣の若い母親を見て、その母親の足元の子供を見て、子供が見上げている屋台の干し肉を見て、その干し肉を吊るしている店の主人の手の動きを見て、主人の指先の傷を見て、その傷を視界から外したあと、別の屋台の前で品物を選んでいる老紳士に視線を移していった。
一秒も止まらない。けれど、一つも飛ばさない。
俺は彼の隣で、ただ立っていた。立っているだけで、こちらの肩にも、市場の空気の重さがゆっくり乗ってきていた。
「シンジくん、この市場、買い物している人は何人いると思う」
「えっ」
「ぱっと見で、いいよ。数字を言ってみて」
「えーと、二、三百、くらいですかね」
「うん、近い。二百六十七人だね」
「数えたんですか」
「数えたよ」
彼の口元には、わずかな得意気な微笑が浮かんでいた。隠そうとしていない。むしろ、こちらの感心の声を待っているような微笑だった。
「すごい」
「うん、すごいでしょ。これは僕のささやかな特技のひとつでね、一目で見渡せる範囲の人間の数ならば、誤差五人以内で言い当てられる。役に立つ場面はほとんどないけれど、たまに、自分の脳に少しだけ拍手したくなる」
「拍手」
「自分の脳に対する拍手は、誰も褒めてくれない時に、自分で自分にしておくと、寿命が伸びるんだよ」
「そういうものですか」
「そういうものさ」
彼は手帳を開き、何かを素早く書き付けた。書き付けたものを、こちらに見せようとはしなかった。手帳を閉じる動作も、一連の流れの中の一部分のような、滑らかな動きだった。
「ところでね、シンジくん」
「はい」
「今、ここに二百六十五人の人間がいる、ということが、何を意味するか考えたことはある?」
「えーと…」
「二百六十五人の人間には、それぞれ二人の親がいる。その親にもそれぞれ二人の親だ。彼ら、彼女らは全員が、何年何十年とそれぞれの場所で生きてきた後に、いま、ここで買い物をしている」
「そう…ですね。たしかに」
「でも、百年経ったら、この全員が、もういない」
「え」
「みんな、死んでるんだよ。例外なく、ね」
彼の声は、軽やかなままだった。死、という単語を発するときの声の重さには、明らかな計算があった。重くしすぎず、軽くしすぎず、相手の耳に最も鮮明に届く温度を、選んで出していた。
「で、この二百六十八人のうち、百年後に名前が残っているのは、何人だと思う?」
「うーん、有名人がいたら、何人かは」
「いない。ここには、いないよ。市場で野菜を買う人、肉を売る人、子供を呼ぶ親、荷物を運ぶ男、それらの人々の名前は残るはずがない。だから、答えはゼロだ」
「ゼロ」
「うん、ゼロ。百年後、この二百六十人の名前を、誰一人として覚えていない。ここで生きた人たちが、世界の上に存在していた、という事実そのものは消える」
彼は、市場の中央に視線を戻した。
その視線の先で、果物屋の老婆が、少女に何かを渡しながら笑っていた。客の少女も笑っていた。二人の笑いの形は、よく似ていた。たぶん、何かのやりとりが、二人の間で気持ちよく成立したのだろう。世界の上で、ほんの一瞬、二人の人間の表情がぴたりと重なって、それから、別々の方向へほどけていく。
その光景を、エルゼの目が、ゆっくりと舐めるように追っていた。
「だから、僕は書くんだ」
「書く」
「うん。書かなかったら、消える。書けば、消えない。それが、僕が物書きをやっている、たった一つの理由だ」
彼の声は、まだ軽やかだった。けれど、軽やかさの奥に、芯が通っていた。
俺は、市場の中央の老婆の笑顔をもう一度見た。
彼女の名前を、こちらは知らない。たぶん、これからも知ることはない。けれど、エルゼがそれを書けば、彼女は彼の本の中で何度でも笑える。
◇
市場を抜けると、西通りに入った。
西通りには、職人の店が並んでいる。鍛冶屋、靴屋、織物屋、家具屋、その先に楽器屋が一軒、薄い屋根の下に佇んでいた。
屋根の下から、それぞれの仕事の音が、空気の中に細い線として伸び出していた。鎚の音、機織りの規則正しい振動、木を削る乾いた響き、弦を張る短い金属音。それぞれが別の旋律で、それぞれの店の前を音の領域として区切っていた。
エルゼは楽器屋の前で、ゆっくり足を止めた。
店の奥には、白髪の老人が一人、低い卓に向かって座っていた。膝の上に、組み立て途中の小さな弦楽器を乗せている。その指は、年齢に比して驚くほど軽やかで、弦を張る動作のたびに、半瞬、目を閉じて、自分の手元の音の手応えを確かめていた。閉じた瞼の上に、午前の光が薄く差している。
「あの人をね」
エルゼが、こちらに声を低くして言った。
「はい」
「僕は十歳の時から、ずっと見てきた」
「えっ」
「僕は王都の生まれでね。子供の頃、よくこの通りを通った。あの楽器屋のおじいさんは、僕が十歳の時も、ああやって、同じ卓に座って、同じ姿勢で弦を張っていた」
「えーと、何年前、ですか」
「十四年。僕は今、二十四歳だから」
彼の声は淡々としていた。
「十四年間、毎日、ほぼ同じ動作を繰り返してきた人間が、そこにいる。けれど、王国の歴史書にも、新聞にも、彼の名前が載ったことは一度もない。たぶん、これからも載らない。あの人が亡くなったら、あの卓に座っていた十四年間も、一緒に世界の上から消える」
「消える」
「うん、消える。あの卓の上で生まれた楽器を持っている人間は、王国の中に、たぶん何百人もいるはずだ。その人たちは楽器を弾くたびに、その音色の奥に、十四年間の指の動きの蓄積を感じているはずだ。けれど、その指の持ち主の名前は知らない」
「うん」
「人間が動物と違うのは、ここなんだよ、シンジくん」
彼の視線が、こちらに戻った。
戻った視線には、市場で人数を数えていた時の得意気な色はもうなかった。代わりに、別の色が浮かんでいた。何か、こちらに伝えたい、けれど、伝わるかどうか、躊躇うような色だった。
「動物は、伝える。鳴き声で、警告したり、喜んだり、求愛したりする。けれど、動物は、書かない。次の世代に、文字で何かを残したりはしない」
「うん」
「書く動物は、人間しかいない。書くから、時間を超えられる。死んだ人間の声を、百年後の誰かですら聞ける。それが、僕たちが、地球の上で、他のあらゆる生き物と違う、たった一つの能力なんだ」
彼の声は、軽くも重くもなかった。
淡々とした声の中に、長年彼の中で煮詰められてきた、ある種の確信が、薄い液体のように湛えられていた。確信、という言葉は、強すぎるかもしれない。けれど、その声には、確かに、揺らがないものが含まれていた。
俺は楽器屋の老人を、もう一度見た。
彼の白髪は、午前の光の中で薄く銀色に光っていた。組み立て途中の楽器の上で、彼の指が、ゆっくり、弦を張っている。彼の人生について、俺は何も知らない。知らないまま、彼の指の動きは、奇妙に大きくこちらの中に残った。
西通りを抜けたころ、エルゼの口数は減っていた。
俺は彼の横顔を盗み見た。表情そのものは、ほとんど変わっていない。歩幅も乱れず、美しいままだ。けれど、視線が、いつもの観察的な動きを止めていた。前方の何もない一点に、焦点を据えたまま、彼は歩き続けていた。
声を掛けてはいけない種類の沈黙、というのが、世の中にはある。これはたぶん、そのうちの一つだった。
しばらく、二人で無言で歩いた。
北の方角へ、彼は迷わず進んでいた。西通りから南通りに入り、南通りを抜けて、王都の南端の緩やかな坂を登っていった。
坂の上には、石造りの低い門があり、その奥には墓地が広がっていた。
そこで、ようやく、彼の沈黙の理由が、半分だけ理解できた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。
続きは明日19時ごろ更新予定です。




