小さな約束
悠月と申します。
厳しいお言葉含め、感想・アドバイスお待ちしております。
第21話 小さな約束
北の森は王都の近くにあるわりに、ちゃんと森だった。
意味の分からない感想だが、実際にそうだった。外から見ればただの緑の塊でも、中へ入ると、空気の手触りが違う。土の湿り気。葉の匂い。木漏れ日の角度。鳥の声。王都の喧騒が背後で薄れていき、代わりに森の静けさが少しずつ周囲を埋めていく。
カオルの一件で、近くの林までは来たことがあったが、森はそのさらに奥だった。
マリーは常に先を歩いていた。
意外だったのは、彼女がただ勢いで突っ走るタイプではなかったことだ。走る時は勢いそのもの、まさに猪突猛進といった様だったが、森に入ると、よく止まり、よく見る。
依頼の形式的に当たり前なのかもしれないが、そこには確かに熟練の冒険者の慣れがあった。地面の柔らかさ。折れた枝。葉の色。小さな花。そういうものを一つずつ確認している。
「採集依頼って、何を採るんだ?」
「いろいろ」
「そんな雑な…。いろいろで依頼は成立するのか」
「成立するわよ。指定植物が複数あるんだもの」
「ふーん」
「名前行っても分からないでしょ?」
「まあ、自身はないけど」
「無色だもんね」
「植物に関する講座はまだ受けていないんだ」
「講座って、ギルドの?あんなの本当に受ける人いたんだ」
言葉の節々にトゲが生えていた。彼女本来の気質なのか、俺個人への感情の結果か。
「まあ、薬草とか、魔術触媒になる花とか、そういうものよ。今回は、量より質とか確認重視。見つけたら少し採る。見つからなかったら場所を記録する」
「へぇー」
「何よ」
「いや、聞いたことない形式の依頼だなって。依頼書でも見たことない」
「…あなたが受けれるような依頼じゃないからね。植物の専門的な知識とかもいるし、一応北の森は、魔獣も出るし」
「え?!そんな危険な場所なのか、ここ」
「いちいち、うるさいわね、私が居れば大丈夫よ」
「そんなに強いのか?」
「そうね、魔獣なんてイチコロよ!イチコロ!」
会話をすると、彼女はよく動く。眉が上がる。口元が緩む。すぐ怒る。すぐ得意げになる。整った顔なのに、表情はころころ変わって可愛いらしい。魔獣なんてイチコロの実力で、植物の専門的な知識もあるのに、警備兵に追われて、一人では王都を出られない。
変なやつだ。ただ、悪いやつではない気がした。
しばらく歩くと、マリーが静かに足を止めた。
「静かに」
声が低くなる。俺も足を止める。
茂みの向こうで、小さな羽音がした。次いで、何かがばさばさと暴れる音。
「何かいる?」
「小型の鳥。たぶん絡まってる」
「鳥?」
「魔獣じゃないわ。行くわよ」
マリーが茂みを分ける。
そこには、青灰色の羽を持つ小さな鳥がいた。細い蔓に足を取られ、羽をばたつかせている。逃げようとすればするほど、蔓が絡まるらしい。
「うわ、痛そう」
「動かないで、助けてあげるから」
マリーは鳥に近づこうとした。しかし鳥は怯えてさらに暴れる。
「ちょっと、そんな暴れないで!いたっ」
小さな鳥の必死の抵抗が、彼女の指に小さな傷を作る。
「もう!助けてあげるっていうのに!」
「待てって、そんな上から手を出しても駄目だよ」
俺はゆっくりしゃがみ込んだ。
「大丈夫。大丈夫だから。こっち見るなよ。俺を敵だと思うなよ。いや、初対面の鳥に信用を求めるのは難しいか」
「あなた、鳥相手にも喋りかけるのね」
「喋らないよりはましだろ」
「そうかしら」
「気持ちの問題」
俺は少しずつ距離を詰める。鳥は暴れる。俺は手を止める。また少し近づく。
途中で指を一度つつかれた。
「っ」
「大丈夫?」
「ああ、これくらいなら。そうだよな、簡単に死ぬわけにはいかないもんな」
「…」
「自分より大きい相手に、勇敢だ」
俺は蔓を一本ずつほどき、最後の細い絡まりをマリーが小さな刃物で切った。
鳥は一瞬だけ地面で固まり、次の瞬間、ばさりと飛んだ。
木の枝に止まって、こちらを見る。それが礼のつもりだったのかどうかは分からない。ただ、逃げずに少しだけ鳴いた。
「……助かったのかな」
「助かったでしょうね」
「こういう依頼なら毎日でもいい」
「報酬は出ないのに?」
「急に現実を出すな」
マリーは鳥が飛んでいった方を見ていた。その目が、少しだけ柔らかかった。
「あなた、意外とこういうの放っておけないのね」
「放っておける人間だと思ったか?」
「うーん、まあ。さっきまでの印象だと、ちょっと頼りない人」
「否定できないのがつらい」
「でも、悪くないと思うわ」
そのあとも森を進む。いくつかの植物を確認し、マリーが小さな布袋へ葉や花を入れていく。俺は主に荷物持ちと、周囲確認と、時々文句係だった。
やがて、水の音が聞こえてきた。
◇
細く森の奥から伸びてきた小川は、太陽の光を反射して白く輝いていた。簡単に途切れてしまいそうな細さで、それでも確かに流れ、大きな泉に流れ込んでいた。
白い石に囲まれた小さな泉。水面は青く、空をそのまま沈めたように澄んでいる。木漏れ日が水の上で細かく跳ね、風が吹くたび、光が割れてまた戻る。
「少し休む」
「賛成。全会一致」
「あなたは、向こう行ってて」
「え?」
なんということだ、せっかく見つけた涼しげなオアシスを簡単に追い出される気は無かった。
「水浴びするから」
「……はい?」
ミズアビ?その四文字が意味する行為を、脳が処理したのは、数秒の間を置いた後だった。
水浴び?!こんな森の真ん中で?
「汗かいたし。走ったし。森を歩いたし。水も綺麗だし」
「理屈は分かる。分かるけど、俺がいるんだが」
「だから向こう行っててって言ったの!」
「ええ、俺もこの美しい景色の中で心を落ち着かせて休憩したいんだが」
「パンツだけじゃ足りないド変態ってこと?」
「さー、俺はどこか散歩でもしてくるかな!!いい天気だし!」
誓って俺に覗きの趣味はないし、そんな一時の欲望のために命を危険にさらすつもりもなかった。
(まあ、身体よりも頑なに隠している顔の方が気になるけど)
「覗いたら燃やす」
「了解しました」
俺は即座に背を向けて歩き出す。
「何かあったら呼んで。遠くに行きすぎないでよ」
「へいへい」
水浴び。全身。
この状況で全身。
文化の違いか、個人の豪胆さか。まあ、たぶん両方だ。
あ、衣擦れの音がする。あ、水音がする。
俺は歩きながら、近くの木の幹を見つめた。
うわぁ、木ってすごいな。模様がある。苔もある。小さな虫も歩いてる。
今の俺にとって、木の幹はこの世界で最も重要な存在だった。見ない。絶対に見ない。俺は人間としての尊厳を保つ。
その時、茂みの奥で何かが跳ねた。
――がささっ
「うわっ!」
「えっ?なにっ!?」
反射的に視線が動いた。足元の石に靴先が引っかかる。体勢が崩れる。枝を掴もうとする。
開いた手が空を切る。
俺の身体は、変な角度で半回転した。
そして、無様にも地面に倒れこみそのままの勢いで、数メートルを転がる。視界は転がり、天地も反転する。乱れた髪と額だけが水に浸かったところで体が止まった。
「つうぅ」
背中と顔面を覆う痛みに、頭を振りながら、目をあける。
視覚が捉えたのは、世にも美しい光景だった。かすかに小川から流れ込む水の流れの音と遠くから聞こえる小鳥のさえずりに彩られ、青々と生命の息吹を主張する木々と、それを揺らす気まぐれな風、陽は暖かく降り注ぎ、その恩恵を喜ぶように、空より青い水面はキラキラとはしゃぐ。そして、その中に一人立つ少女。胸あたりまで下した金色の髪からは水滴が、決して豊かとは表現されない、それでも確かに美を主張する輪郭に沿って、滴り落ちていた。まるで、西洋絵画の天国と女神のように。
泉の中にいるマリーが。
顔も。
肩も。
濡れた金髪も。
見てはいけない輪郭も。
一瞬だった。だが、一瞬でも人生には十分すぎることがある。
「――っ」
マリーの目が見開かれる。
「違うんです!」
俺は音よりも早く、背を向け、地面に両手をついた。
「いや、違わないかもしれません! 結果だけ見ると最悪です!でも意思はなかった! 意思はなかったんです!」
「うるさい!!その姿勢になるなら顔も伏せなさいよ!!変態っ!!」
ごもっともである。俺はその姿勢のまま、頭を地べたにこすりつけ審判を待った。ジャパニーズ土下座である。
そして訪れる、沈黙。ちょろちょろと水音だけが、やけに大きく響く。
「……顔、見た?」
「えと、見ました」
「身体は?」
「…カラダ??ちょっとわかりません」
「最低」
「本当にすみませんでした」
もう一度、頭を地面にぐりぐりとこすりつける。
「動いたら燃やす」
「あ、ハイ。動きません。木になります」
「木は、よく燃えるわ」
「石になります」
「石を砕くなんて燃やすより簡単だわ」
「そんな!」
再びの沈黙。それから、水音の向こうで、彼女が小さく息を漏らした。
「……今の、笑わせようとしてる?」
「命乞いです」
「必死ね」
「命が…かかってるので」
そのあと、しばらく俺は木と石と地面だけを見続けた。
大地のように穏やかで
初夏の海のように凪いだ心で
美しい景色は、瞼の裏に焼き付いていた。
◇
服を着て、フードまで元通り被ったマリーは、当然ながら不機嫌だった。
外套の紐を結びながら、こちらをじっと見ている。俺は正座に近い姿勢で座っていた。別に命じられたわけではない。罪の重さが自然と膝を折らせたのだ。
「あなた、さっきから変ね」
「いや、まず謝罪から入らせてほしい。本当にすみませんでした」
もう一度、額に土をつけようとする。
「それはもう聞いた」
「では次の謝罪を」
今度は、両手を頭の上にピンと伸ばし、そのまま地面に、体全体を寝かせる。
「何回する気?」
「許されるまで」
「面倒」
「じゃあ、ここまでで終わると、助かります」
マリーは溜息をついた。
「顔、見たんでしょ」
「はい」
そういえば、事故の瞬間もそうだったが、顔を見られるのがそんなにも嫌なのだろうか。宗教などの理由で顔を隠さなきゃいけない、とか?
「なのに、態度が変わらない」
「えと、すみませんでした。これからは敬語でいかせていただき…」
「そういうことじゃない」
「はい」
不機嫌なマリーの口調には、今まで以上の圧があった。それに、見間違いで無ければ、先程から彼女の周囲を小さな火花が散っている。
「個人差はあっても、普通は態度を変えるのよ」
――バチッ、バチチッ
見間違いでも聞き間違いでもない。これが魔術、だろうか。願わくばそれが、俺のために用意されたものでなければいいな。
「綺麗なご尊顔だとは思いました…」
「……そういうことを、普通に言うのをやめなさい」
「褒めたつもりだったんだが」
「分かってるから反応に困るの!」
マリーは少しだけ顔を逸らした。
「本当に知らないのね」
「何を?」
「……何でもない」
マリーはフードを取り、泉の縁に座った。俺も少し離れて座る。
「さっきの鳥」
「鳥?」
「助けたでしょ」
「ああ。まあ」
「そういうところは悪くないと思う」
「褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「まだ怒ってる」
「ごもっとも」
初めて、しっかりと目が合った。フード越しでもなく。彼女は、綺麗な金髪と強い意志を宿した瞳をしていた。会話が、少しだけ普通になった。
その空気の変化の中、マリーがふと俺の身体を見た。
「え?仕返し?脱いだほうが良いですか?」
「違うわよ!変態っ!」
彼女の右手が俺の頭にポスンと当たる。全然、痛くない。
「ねえ。あなた、能力は?」
「ギフト?」
「え?……そこから?」
マリーは露骨に驚いた顔をした。フードのない彼女は、表情豊かで、さらなる魅力を持っていた。
「初耳です」
「本当に?」
「本当に」
「この世界の常識なのに」
「常識なんて言葉には縛られないことにしているんだ!それに、俺はまだギルド講習で指名されて震えてる段階だぜ?」
「それは、まあ、そうね」
すんなり納得されるのも、それはそれで少し傷つく。
マリーは、少し悩んだ顔をしていた。ぼそりと「うーん、よほど辺境の村、とか?いや、それにしても」とつぶやいたり、首を傾げたりしている。
やがて、指先で水面を軽く弾いた。
「成人した人間は、教会で祈りを捧げる儀式をするでしょう。そこで授かる恩恵のことを、能力って呼ぶの。中身は人によって違う。戦う力だったり、守る力だったり、生活に使える力だったり」
「へえ……いいな、それ。」
素直にそう思った。
今の俺は、もう、自分の事を主人公だとか、最強の能力で無双して、だとかを考えていなかった。
それほどまでに、この世界は、生活の温度感を俺の身体に刻み込んでいた。
「俺にもそういうのがあれば、もうちょっと楽だったかもな。火が出るとか、剣がうまくなるとか、傷が早く治るとか。いや、足が速くなる、とかでもいい。逃げ足は大事だ」
「逃げる前提なのね」
「生存戦略と言ってくれ」
今度王都に戻ったら、ダメもとで協会を訪ねてみようか。そんな風に考え始めた時。
「でも、あなたにも、もうあると思う」
「え?」
「魔力の流れが変。まだ教会で祈ってないなら、かなり変だけど……何か宿ってる」
「え、いや、俺、祈ってないぞ」
「それが本当なら、とっても変なのよ…。自覚すらないなんて…」
マリーの目が、さっきとは違う好奇心を帯びた。
「よし!試してみて」
「何を?」
「あなたの能力よ!わたしが居れば、よほどじゃなければ安全だし」
「試すっていったって、なにも分かんないぞ。あ、マリーのやつを先に見せてくれれば、イメージできるかも」
無双やチートの夢はすでに無かったが、男の子である。何か特別な能力があるかもとなったら、少しずつ心が躍ってきた。
「ざんねん、わたしのは見せられるタイプのものじゃないの」
「そっか」
「でも、大丈夫よ!すでにあなたの能力なの。イメージすれば、操れるはず」
「そんな無茶な」
「あなたは歩くときに、わざわざ意識する?右足上げて、前に出して、体重移動させてって」
「しない」
「それくらい当たり前なのよ。その人にとっての能力っていうのは」
理屈は分かる気がするが、この世界に来てから、魔術や戦闘なんてものもまともに見たことが無い。つまり、不思議なことへの感覚は全く元の世界から変わっていなかった。
「うーん、あなたの場合はね。何かを出す、動かす、変える、かな。自分にできそうな形を探すの。深く考えすぎずに、欲しいものをイメージするだけでもいいわ」
「いきなり言われても」
「いいから。ほら、手を出して」
言われるまま、俺は右手を差し出した。
「目を閉じて。呼吸を整えて。欲しいものを思い浮かべる」
「欲しいもの……」
スマホ
――は、まだ宿に置いているリュックで眠っているはずだ。あっても、あんまり使えないし
剣
――出たらかっこいいけど、使ったこともないしな。
火
――駄目だ。実際に手から出てるところイメージしたら怖い。
金
――それは人としてどうなんだ。
「うーん、じゃあ、次は真っ白な空間を思い浮かべて」
言われるままにする。
「自分が立ってて、右手を広げている」
瞼の裏の真っ白な空間に、右手を広げた俺が立っている。まてよ、現実よりちょっとイケメンかも。
「3,2,1の合図に合わせて、右手に何かが出てくるわ」
マリーの声が少しだけ近い。
「3」
少し、緊張する。
「2」
マリーの距離が近いこともだが、まだ見ぬ自分の可能性への期待でもあった。
「1」
――ポンっ。
軽くはじけるようなコミカルな音に続いて、手の中に軽い感触が生まれた。
俺はおそるおそる、目を開く――
そこには、黒いボールペンがあった。
見慣れた形。あの安っぽい、でも手に馴染む道具。似たような形のペンをこの世界の雑貨屋でも見かけたことがある。
庶民的な、何の変哲もない、ペン。
「……」
「……」
沈黙。
「ペン、だけ……?」
「ペンね」
「いや、もっとこう、炎とか、雷とか、剣とか」
「ペンよ」
「…二回言わなくていい」
俺は手の中のボールペンを見つめた。
異世界。能力。教会の祈り。神様の恩恵。からの、ペン。
落差がすごい。
「俺のチート…文房具?」
「チートって何?」
「大丈夫、こっちの話。今、ちょっと傷ついてる」
たしかに、チート能力が欲しいという気持ちは薄まっていたが、それでも、強い力でスローライフとか、あるじゃん。ペンて。
マリーは口元を押さえていた。笑っている。完全に笑っている。
「でも、珍しいわよ」
「ペンだけど?」
「そこは地味」
「慰めが下手!」
マリーは真面目な顔に戻っていた。興味深そうに俺の手のひらと、その上にちょこんと乗ったペンを見つめている。
「珍しいっていうのは、能力の系統。無から物を出してるから、たぶん空間系よ」
「空間系?」
「能力は、祈りに対する神の恩恵。でも、この世界にいる7柱の度の神から恩恵がもらえるかは、分からないの」
俺は、セレーネから聞いたこの世界の神の話をちらりと思いだす。
「そして、空間系はとっても珍しいの。登録されている能力の中でも20件ほどしかないわ」
「でも、ペンだよ」
「そう!空間系は珍しくて強力なのばかりなのに、面白いわ!」
「当事者としては、面白さより実用性が欲しかったんですけど」
「実用性ならあるでしょ」
「どんな?」
「どこでも、紙さえあれば書けるわ」
「書ける」
「そう。結構便利じゃない?」
彼女は冗談めかして言っているようで、でも完全な冗談ではない声だった。
「もう一本出せる?」
「やってみる」
今度は左手を出す。意識する。手に馴染む感触。
二本目が出た。
「出た」
「三本目は?出せる?」
「分からない」
三本目を出そうとする。もう、ペンを出すのに特別な意識は必要なかった。
三本目のペンが現れる。その瞬間、一番最初のペンがふっと薄れて消えた。
「消えた!」
「へえ、三本目で一番古いものが消えるのね」
「勝手に解析するな」
「面白いんだもの」
「俺のささやかな落胆を研究対象にしないでほしい」
マリーは楽しそうに笑った。
◇
泉での一軒もほどほどに、採集は続いた。
マリーは、休憩前と同じように、指定されているらしい薬草や花をいくつか見つけ、小さな布袋へ丁寧に収めていった。俺は荷物を持ったり、彼女の指示通りに根元を傷つけないよう葉を採ったりした。マリーはもう、フードを被らなくなっていた。
「だって、暑いじゃない。それに、もういらないみたいだし」
それが休憩前との唯一の違いだった。
日が少しずつ傾いていく。
森の中の光は、王都の通りより早く薄くなる。葉の影が長く伸び、木々の間に沈む光が赤みを帯びはじめると、森は表情を変える。昼の森は生き物のための場所だが、夕方の森は、生き物を試すような沈黙を持っていた。
マリーは、それでも歩き続けた。
「まだ、探すのか?」
「もう少し」
「採集依頼の分は、そこそこ集まったんじゃないのか」
「そうね」
「じゃあ、もう戻った方がよくないか。暗くなると、たぶん俺が役に立たない」
「昼でもそこまで役に立ってないわよ」
「辛辣。否定できないけど、今言う必要あった?」
「必要だったかは微妙」
「じゃあ言うな」
軽口は返ってきた。けれど、マリーの足は止まらない。
気付けば、さっきまでの採集とは彼女の動きが違っていた。
彼女は何かを探している。それは分かる。だが、それが何なのかは言わない。植物の葉を見て、枝を見て、時々地面に落ちた花や実を拾い上げては、すぐに違うと分かるのか、手放す。
その動きには、徐々に焦りが混じっていた。
「マリー」
「何?」
「本当に、もう少しだけだぞ。暗くなると、帰り道も危ないだろ」
「分かってる」
「分かってる声じゃない」
「分かってるわよ!!」
少しだけ強い返事だった。
そこで俺は、それ以上強く言えなくなった。
言えなかった、というより、言いたくなかったのかもしれない。彼女が何を隠しているのかは分からない。
でも、その隠しているものが、彼女にとってどうでもいいものではないことだけは伝わっていた。
彼女の足は、速度を上げて、森の奥へ進んでいく。
木の根を越え、倒れた枝をまたぎ、少しぬかるんだ地面を避けながら進む。空の色は、枝の隙間から覗くたびに、少しずつ濃くなっていった。
時間は過ぎていく。
その感覚は、森全体に染みていた。
マリーがさらに足を速める。俺も遅れないように追う。焦っているのは彼女だけではなくなっていた。
何を探しているのかすら分からないくせに、見つからないまま日が暮れることが、俺にも少しずつ悔しくなっていた。
「シンジ」
突然、マリーが足を止めた。声が低い。
「しっ。動かないで」
「……何かいるのか」
返事の代わりに、茂みの奥から唸り声が聞こえた。
それも、一つではない。
右。
左。
前。
そして、後ろ。
灰色の影が、木々の間から滑り出てくる。
四つに分かれた耳。低い姿勢。濡れたように光る目。牙の間から漏れる、湿った息。
実物を見たことは無かったが、名前は知っていた。きっと、こいつらは四耳狼。数日前に、間違えて受けようとした依頼の討伐対象。まだ早い、と言われた、あの。
囲まれていた。
前方に三匹。右に二匹。左に一匹。視界の端で、背後にも影が動く。昼間なら気づけたかもしれない。だが、薄暗くなった森の中で、俺の視界は思っていた以上に狭くなっていた。
――グルルルル
閉じた口から、漏れ出した。吐息は、警告の匂いを伴っていた。野生の動物。こちらの命を狙っている動物が、こんなにも恐ろしいとは、思わなかった。
「下がって!」
マリーの言葉が俺に届く。慌てて俺は下がろうとする。
その瞬間、背後の茂みが弾けた。とっさに、音の方向に体を向けると、一匹が飛びかかってきていた。
――速い。
身体がバランスを崩す。頭は逃げようと体重を動かすのに、足が言うことを聞かない。体重移動の勢いに引っ張られるように、俺は倒れる。頭上を一匹の狼が通過した。鼻先に、しずくが一滴落ちる。しずくは、俺に向けられた食欲と殺意の塊だった。
倒れた身体を上半身だけ起こすと、奴と目が合う。
たった今、俺の喉笛を噛み千切ろうと飛んだ、獣と。
思考がうまく働かない。身体が固まる。足が動かない。目だけが牙を追う。口が開いている。灰色の毛並みが、夕方の光を吸って鈍く光る。
死ぬ。
しぬ。
死ぬ。
その言葉だけが、頭の中を回っていた。
俺はとっさに手を上げる。武器はない。あるのは、さっき出したペンだけだった。
「シンジ!」
マリーの声が聞こえる。起き上がろうとした。だが、次の一匹がもう迫っている。
――間に合わない。
◇
何が起きているのか、分からなかった。
俺の頭は、まだ、死の淵で、調子を取り戻していなかった。
気付けば、マリーが、俺の前に立っている
(あぶない。危険だ。死んじゃう)
彼女の右手が上がる。それを合図に空中に、光の線が走った。
細い線。
円。
その内側に編まれる幾何学模様。
光の線は形を変え、量を増やし、次々に空中に展開されてた。
一つではない。二つ、三つ、四つ。光の輪が重なり合い、森の薄闇の中を、金色の花のような模様が照らす。
さっき泉で見せた小さな魔術とは、まるで違った。根本から違った、軽い火花を発する程度ではない。もっと、恐ろしくて、神秘的な。
空気が震える。木の葉が逆立つ。地面からは、湿り気が消えていた。そして――
マリーの声が落ちた。
「散って」
細く、高い、決して強くないその声を合図に、森は裂けた。
光の針が飛ぶ。
俺に飛びかかろうとしていた四耳狼の肩が貫かれ、獣の身体が横へ弾ける。別の一匹が右から回り込もうとした先には、すでに風の刃が置かれていた。首筋が裂け、血が枝に散る。
左手の茂みから飛び出した個体は、地面から突き上がった石杭にうたれた。腹を打たれた狼は宙で折れ、悲鳴を上げる前に、次の光が喉を貫く。
背後から迫っていた二匹の足元には、白い霜が走った。地面が凍り、脚が止まる。その停止を待っていたように、火の線が横から滑り込み、獣の影を赤く裂いた。
――速い。
ただ速いだけじゃない。
全部、先に置かれている。
狼がどこへ飛ぶか。どこから回り込むか。どの個体が俺を狙うか。どの個体がマリーの死角へ入ろうとするか。そのすべてを、彼女は見ていた。見て、判断し、先回りして、魔術を置いていた。
狼といえば、集団での狩りで獲物を追い詰めるものだ。この世界のやつらも十数匹が俺たちを闇と一緒に囲んでいた。だが、その数も、戦術も、連携も、形を残す前にただ散った。
それは戦闘というより、森の中に張られた見えない糸を、彼女だけが正確に弾いているような。
俺は地面に座り込んだまま、息をすることすら忘れていた。
恐怖はまだ残っている。頬は痛い。手は震えている。さっきの爪がほんの少しずれていたら、俺の顔は今ごろどうなっていたか分からないのだ。
だが、その恐怖の上から、もっと大きな感情が塗り重ねられていく。
圧倒、安心、そして…
マリーは一歩も慌てていなかった。
敵が多いことにも、暗くなってきていることにも、俺が転がったことにも、彼女は確かに対応していた。けれど、それらは彼女の中で混乱にはならない。
最後の一匹は逃げようとした、体毛は白く、他よりも大きな個体だった。マリーはそれを追わなかった。
ただ、指先を少しだけ動かした。
逃げる先の地面がふっと盛り上がり、根のような土の腕が狼の脚を絡め取る。狼が倒れる。次の瞬間、細い光がその影を貫いた。
キャンっ、という音とともに静寂が戻った。
森の中に、血と焦げた草の匂いが残る。
マリーは右手を下ろした。
息を吐く。だが、それだけだ。さっきまで王国警備から逃げ、泉で怒り、ペンを見て笑っていた少女が、今はまるで別の生き物のように見えた。
「……すげえ」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
マリーが振り向く。
「何が?」
「全部」
「大げさ」
「いや、すご、かった」
マリーは少しだけ得意そうに笑った。
「魔術は、ちょっと得意なの」
「これが、ちょっと?」
「ええ、ちょっとよ」
俺は頬を押さえながら立ち上がった。
血が出ていた。浅いが、確かに切れている。マリーがそれに気づき、こちらへ近づく。
「見せて」
「大丈夫。たぶん」
「冒険者はたぶんを信用しない」
彼女は俺の頬を確認し、小さく息を吐いた。
「浅い。よかった」
「…ありがとう」
「依頼協力者が死んだら困るから」
「言い方」
二人して、笑った。すっかり暗くなった森が二人を包んでいた。
◇
日は既にほとんど落ちている。四耳狼に囲まれて、軽傷だが、俺は怪我をした。
採集依頼として必要なものも、ある程度は集まっている。
帰る理由は、十分すぎるほどあった。
それでも、マリーは森の奥を見ていた。さっきまでより、ずっと迷っている顔だった。
「……戻るか」
俺が言うと、彼女は少しだけ唇を噛んだ。
「そうね」
答えはしたが、足が動かない。
俺は頬の痛みを指先で押さえながら、その横顔を見た。
「まだ探したいものがあるんだろ」
「……」
「言いたくないなら言わなくていい。でも、あと少しだけなら付き合う」
マリーが驚いたようにこちらを見た。
「怪我したのに?」
「浅いんだろ」
「そうだけど…」
「だったら、あと少しだけ。暗くなったら本当に戻る。それ以上はなし」
彼女はしばらく黙っていた。
夜の森は、夕方の森とも違っていた。木々の影は伸びきり、地面の凹凸が見えにくくなる。風が冷たくなり、匂いも変わっていた。
「……ありがとう」
小さな声だった。俺は少しだけ肩をすくめる。
「依頼だからな」
「さっきまで文句ばっかりだったくせに」
「文句を言いながら手伝うタイプなんだよ」
「面倒なタイプね」
「否定はしない」
マリーは少し笑って、それからまた歩き出した。
そこからの探索は、ほとんど意地だった。
彼女は地面に落ちた花を拾い、違うと分かるとそっと戻した。枝の先を見上げ、葉の形を確認し、風に乗る匂いを確かめるように立ち止まった。
俺も、何を探しているのか分からないまま、周囲を見た。暗い森の中で、花らしい色、見慣れない枝、鳥の羽音、そういうものを一つずつ拾おうとした。
時間がなくなっていく。
足元はほとんど見えない。
帰り道も怪しい。
もう戻るべきだ。そう思った時だった。
頭上で、小さな羽音がした。俺は顔を上げる。
枝の分かれ目には、小鳥の巣があった。
草と細い枝を丸く編んだ巣。そこに、何か薄い色のものが混ざっている。白ではない。赤でもない。闇の中で、幽かに主張するほとんど消えそうな、淡い桃色。
「あれ」
俺が指差し、マリーが顔を上げる。
風が吹いた。
巣の端から、一枚の花びらがひらりと落ちた。
マリーが手を伸ばす。
花びらは、彼女の指先に乗った。薄い桃色だった。小さく、柔らかく、触れただけで壊れそうな形をしている。
マリーは、それを見つめたまま動かなかった。
「……これ」
「探してたやつか?」
「その、手がかり」
声が静かに震えていた。
彼女は巣を見上げた。
小鳥は巣材をどこかから運んでくる。枝も、草も、花びらも。なら、その花びらを落とす木は、この森のどこかにある。
「近くにある」
マリーはほとんど独り言のように言った。
「この森の、どこかに、あるんだ」
俺は何も言わなかった。
目的そのものには、まだ届いていない。見つけたのは、たった一枚の花びらだ。けれど、何もないまま終わる一日とはまったく違う。
マリーは花びらを、壊れ物みたいにそっと布で包むと、ようやく俺を見る。
「帰ろう」
「いいのか?」
「うん。今日は、ここまで」
その声には、悔しさもあった。だが、それ以上に、次への希望が滲んでいた。
◇
帰り道、マリーは行きより少しだけ静かだった。けれど、決して不機嫌ではなく、外套の内側にしまった花びらを、時々上からそっと触れている。その仕草が妙に大事そうで、俺はそれ以上、何を探していたのかを聞けなかった。
王都の門が見え始めるころ、空は綺麗な藍色に変わっていた。森の中と外では、同じ時間でも届く光の量は変わる。
「今日のこと、誰にも言わないで」
マリーが言った。
「えーと、どの件?」
「全部」
「範囲が広いな」
俺は自然と、笑って答える。
「特にパンツと水浴び!」
「命にかけて黙る」
「よろしい。あと、警備から逃げてた件」
「それも黙る」
マリーはそう言って笑った。
その笑顔は、最初にギルドでぶつかった時よりも少しだけ近かった。
「あとは、わたしと会ったこと自体」
「うん」
最後の言葉は、少し寂しそうだった。いや、気のせいかもしれない。
「また頼むかも」
「いいけど、次は逃走から始めないでくれ」
「前向きに検討するわ」
「それ、一番信用できない返事だな」
「じゃあ、善処する」
「二番目に信用できない」
彼女は楽しそうに笑う。初めての共同依頼は、かなりめちゃくちゃだった。
でも、悪くなかった。
誰かの探しものに、少しだけ近づいた。自分にも何かがあると知った。
そして、金髪の変な少女と、また会う理由ができた。
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続きは明日19時ごろ更新予定です。




