とどけもの
悠月と申します。
いつもありがとうございます。厳しいお言葉含め、感想・アドバイスお待ちしております。
第18話 とどけもの
この世界での朝も、五度目を迎えていた。
青鳥亭は女将と8歳の少年の二人で経営している、決して大きくはない宿だった。しかし、朝夜の食事がついているのはもちろん、前日までに言っておけば昼のお弁当も用意してくれる。出かければ、帰ってくるまでの間に部屋の中やベッドは一通り掃除され(ベッドメイクの出来でどちらが掃除したか分かる程度だが)、簡易的な風呂にも入ることができた。
うん。最も驚いたのはこの風呂の存在だ。異世界では、よほど高貴な身分だったり特殊な町じゃないと、お湯を張った風呂なんてお目にかかれない。しかし、王都ではそこまで珍しいことではなかった。
誰でも魔術を使えるようになる魔道具というものが一般にも流通しているらしく、「水を出す」ものと「熱を発する」もののふたつさえあれば風呂の実現は容易で、どちらも安価に手に入れられるものだという。
(もう少し依頼をこなしたら、魔道具を見に行っても良いな)
「シンジさん、おはよう!」
台所で顔を冷水につけていると、声をかけられる。
「おはようございます」
「今日は何にする?」
「うーん、卵で」
「うん」
社交辞令にも似た、予定調和の会話を交わして、今日が始まる。
この宿の女将、ソフィアは20代前半のよく気が利く女性だった。背は俺より頭ふたつ分ほど小さく、赤い髪を短く切りそろえ、今はその上から小学校の時によく見たような小さな頭巾のようなものをかぶっていた。年よりもさらに幼く見える顔には、いつも疲れの影ひとつなく、代わりに明るい笑顔が浮かんでいた。それは、彼女の接客業に対するプライドのようなものだった。
目玉焼きのような卵料理に肉を薄く切って焼いたもの、チーズをかけたトースト。これが俺のお決まりの朝食になっていた。朝のメニューは5種類ほどあるが、彼女はこちらの好みを、もう覚えていた。三日連続で同じものを頼んだら、四日目からは、注文する前に並んでいた。
隅の席に陣取り、良く焼けたチーズと卵の香りに喉を鳴らしていると、
「えーー!またシンジ卵かよ!!」
元気な声が建物に響く。ふと視線を向けると、二階からは徐々に他の宿泊客が起きてきていた。しかし、その声の主はどの宿泊客とも違う。気づけば横に座っていた。
「よく毎日卵ばっかりで飽きないよなー」
「悪いかよ。故郷の味に似てるんだ」
「ふーん。それにしたってたまには他の食べてもいいのによー」
この宿のもう一人の従業員、マテオ。先日8歳を迎えた彼は、毎日、宿中を元気に駆け巡りソフィアを手伝っている。ちらりと彼の朝食を覗くと、肉、チーズがかかった肉、揚げた肉、見事に肉ばかりだった。
「お前こそもっと野菜とか食べたほうが良いぞ」
「んー、んっ」
口いっぱいに肉を詰め込んだまま、彼はフォークで皿の隅を指す。そこには、ささやかに芋のような野菜に薄切りの肉がまかれた料理が転がっていた。
「・・・」
「んぐっ。んあ。ふぅ」
そして、このどや顔である。
「今日は何すんの?またつまんない依頼?」
「んー、特に決めてないけどそうだな。またギルド行って出来そうな依頼あったら受けるかな」
「ふーん、そんなつまんない依頼よりさ。修行しようぜ。修行、おれが教えてやるよ」
「お前が?何を教えてくれるって言うんだ?」
「剣!」
二度目のどや顔である。マテオは手に持ったフォークを振りながら自慢げに言う。
「ふっ」
「あー、笑ったな!ぜってぇシンジよりおれの方が強いし!シンジひょろひょろじゃんか」
「こーら、マテオ。あんまりシンジさんを困らせないの」
起きてきた客全員に朝食を出し終わったソフィアが、自分の分をもってマテオのとなりに座る。二人並んで座ると、姉弟にしか見えないから不思議だ。
(それでも、立派に二人で生活しているんだもんなぁ)
「おーい、無視すんな!ひょろひょろ卵シンジ~」
俺は右腕を突かれながら、この小さな王都の住人たちに感心する。
◇
北通りの石畳も、東通りの古書店の看板も、市場の果物屋の主人の髭の形も、もう、馴染みのモノになっていた。
シンジ自身、自分に出来る限り町に馴染もうと気合を入れたということもあるが、王都の人々は大らかで人当たりが良かった。特に果物屋の主人は、初め見たことない顔だってだけで、半ば強引に俺を店内に押し込み、実に半刻に渡って質問攻めにあった。いや、後半はほとんど彼の話をうなずいているだけだったが、タイミングよくソフィアが買い出しに来ていなければ、いつまでああして捕まっていたか分からない。
それでも、決まった時間に道を通ったり、俺の顔を見て挨拶を飛ばしてくれる人が居たり、それに対して緊張しながらも挨拶を返したり、そんな何でもない日常が、俺は案外嫌いじゃなかった。
ギルド『黄金の獅子』の依頼書の壁の前で、最初の一枚を選ぶまでに二日かかった。登録を済ませた次の日に、壁の前まで行ってみたものの、どれを選べばいいか分からない。結局、その日は一日中壁の前をうろちょろして日が暮れた。二日目の昼過ぎ、見かねたアンカが依頼を選んでくれた。
古書店の本の運搬が、最初の依頼だった。ただ、店の前に積まれた本を、店の中の棚にしまっていくだけの依頼だった。依頼主の男性はもう高齢で、月に一度ギルドにこの依頼を出すのだそうだ。半日たっぷり本を運んで、銅貨三枚。
次の日は薬師シヤの依頼で薬草採り、一日中王都の外の森の近くの草原で、草むしりに勤しんだが、集めたうちの殆どがただの雑草で、報酬は銀貨一枚。
三日目はソフィアに頼まれて、屋根裏の掃除。これはギルド経由じゃないため、無報酬だったが、夕食の煮込みが、いつもより一杯多かった。
手のひらの上の銀貨と銅貨は、最初の小袋の半分くらいまで、減っていた。
それでも、減った分だけ、街が、少しずつ、自分のものになっていく感覚があった。
◇
朝食を終え、朝一でギルドに向かう。この時間のギルドは比較的人が少なくて、ゆっくり依頼書を選びやすい。
案の定、ギルドの中にはパーティが一つ居るだけだった。パーティというのは冒険者のチームのことで、難易度の高い依頼をこなすために得意分野の異なる冒険者たちが集まって作られる。
すれ違いざまに、そのパーティを見る。あまりマナーは良くないが、とても目を引くパーティだった。5人組のパーティだが、男性はひとりだけ(それがどうということはないが)。目を引いた一つの理由は全員が見たことないほど豪華な装備をつけていたからだ。そして男性は随分とイケメンだった(ただの評価だが)、そのうえ、他4人はこの世界に来てから見たこともないほどの美人そろいだった(いや、別にうらやましいとかじゃないってば)。
観察もほどほどに、依頼書が張り出されている壁の前まで移動する。幸いなことに彼らは既に依頼を選び終えているようだった。ざっと、張り出されている依頼を流し見る。なんだか、落ち着かない。俺は、初めてこの建物に不思議な居心地の悪さを感じた。
ぱっと、依頼書を選びカウンターに持っていく。早く、この建物から出たかった。俺はイケメンが苦手なのだろうか。それとも美女が?だとしたら、悲しい話だ。異世界物には美少女ヒロインが不可欠なのに!
「あの、」
受付の女性は、いつもこの時間に座っている顔なじみだった。依頼書のカウンターは五か所あるが、俺はいつも依頼書から一番遠い端のカウンターしか使わなかった。そこには、いつも彼女が座っていた。
「は、はい」
緊張が、声にも表れる。
「この依頼は、今のシンジさんだと、ちょっと」
「え?」
「まだ、早いと言いますか。ランク的には問題ないんですけど、シンジさん討伐系の依頼受けたことない、ですよね。ギルドの戦闘研修も、、」
「あー、えっと、はい」
俺は初め彼女が何を言っているのかわからなかった。討伐系の依頼?俺が?そんな危ないもの、出来れば一生手に取らずにいようと、昨日決意したばかりだ。
今日俺が持ってきたのは、昨日から目をつけていた、ただの井戸の掃除の…
受付の彼女の手には、たしかに、別の依頼書が握られていた。王都北の森で、四耳狼12匹の盗伐。謎の緊張に体を支配された俺は、よく確認もせずに一枚隣の別の依頼書を持ってきてしまったらしい。
「あー、ははは。そうですよね、出直します」
「あ、まって」
羞恥に顔を真っ赤にし、立ち去ろうとする俺をさわやかな声が引き留める。
「良かったら、その依頼。僕たちと一緒に行きませんか?」
振り返れば、さっきまで離れた場所で話し合っていた、イケメン豪華ハーレムパーティの主人公がさわやかな笑顔を向けてきていた。
「結構です!!」
即答だった。
「あ、そう、ですか。僕たちと一緒であれば、安心だし、いろいろお手伝いやご指南も出来るかなと思ったのですが、余計なお世話でしたかね。ごめんなさい」
こうして、俺は主人公パーティからの異世界ストーリーフラグを緊張によりたたきおり、女性陣から不審な目(気のせいかもしれないが)を向けられながら、依頼書の壁に戻っていった。幸いなことに、こちらの気まずさを察してくれたのか、主人公パーティはその四耳獣の依頼を受けて、すぐにギルドを出ていった。出ていくときに、主人公君はさわやかに笑顔でこちらに軽く手を振った。その動きで俺の罪悪感と気まずさが増すことを、あの手の人間は知らない。
◇
依頼書の壁の前で、新しい紙が目に止まった。
「孫娘の付き添い、王都外の森の家まで往復、半日、銀貨二枚」
依頼書の右下に、依頼主の名前が、書かれていた。ハクサ、と読めた。隣には住所。北通りの三筋目、青の屋根の家。
付き添い、という仕事は今までに見たことがない種類の依頼だった。文字通り捉えるのであれば、剣を使うわけでも、薬を煎じるわけでもない。ただ、誰かと一緒に歩く仕事。半日で銀貨二枚は、相場としては悪くない。
受付の女性に、紙を差し出した。本日二回目である。
「良かったんですか?さっきの提案」
「え、あー、討伐系には手を出すつもりないんです。さっきは間違っちゃっただけで…」
「ふーん、でも「雨間の流星」の同行なんて、断る冒険者はいないと思ってました。やっぱり、シンジさん、変わってますね!」
「アマアイノリュウセイ?」
「あ、これ、ハクサさんの依頼ですね!」
「え、あ、はい」
「お孫さんの付き添いを、たまに、こちらに頼まれるんです。お孫さんは、おとなしい子で、とってもかわいいですよ」
「へえ。これ、本当に付き添いだけで銀貨2枚何ですか?」
「はい!一緒に歩いて、戻ってくれば、それで終わりです」
「なんか、報酬がちょっと高いなと思って」
「そうですね。報酬は依頼主の方が設定するので、こちらでは何とも。でも、目的地も魔獣が出るような場所ではないですし、今までも、そういう報告はありませんよ」
「分かりました」
「ハクサさんのお宅は、北通りの、青い屋根の家です。すぐ分かると思います!」
彼女は、紙の裏にいつかのスタンプを押して、こちらに返した。彼女の笑顔に、押されるようにギルドを出た俺は北通りを、北に向かって、歩いた。
いままでより少し、慌ただしい朝だった。
◇
北通りの三筋目、青い屋根の家はすぐに見つかった。
二階建ての、こじんまりした家だった。窓辺に、白い花の鉢植えが、いくつか並べられている。家の前の石畳は、丁寧に掃かれていた。誰かが、毎朝、ここを掃いているのが、見てすぐに分かった。
依頼書を手に持ち、深く深呼吸をしてから、扉を軽く叩いた。
「はーい」
扉を開けてくれたのは、五十代の後半くらいに見える、小柄な女性だった。髪を後ろで束ね、エプロンの胸元には、何かの粉が薄く付いている。台所仕事の途中だったようだ。
「黄金の獅子から、来ました。シンジ、と言います」
「あら、まあ、お若い方が。新人さん?」
「ええ、まあ、はい」
彼女はこちらを、上から下まで、一度見た。新人の冒険者に偏見を持つ依頼者は意外と多いらしい。しかし、彼女の見方は母親の目だった。冒険者を見る目ではなく、孫娘と一緒に歩く相手を、品定めする目。
「ハクサです。依頼を出した、祖母の方です」
「シンジです。」
「中に、お入りください。お茶を」
「いえ、すぐに依頼の方に…」
「いいから、いいから。少しだけ。あの子に、先に紹介させてください」
彼女に促されて、家の中に入った。
玄関のすぐ奥が、居間になっていた。卓と椅子が四つ。壁には、棚があり、棚の上に、いくつかの陶器が、丁寧に並べられていた。陶器の手前に、小さな絵が立てかけてある。三人で並んだ家族の絵。色が、わずかに褪せていた。
「カオルー、冒険者さん来たよー」
ハクサが、奥に向かって声をかける。
「はーい」
軽い足音が、二階から降りてきた。
居間に現れたのは、十六か、十七くらいの少女だった。肩までまっすぐに整えた淡い茶色の髪。目は大きく黄色の輝きを放ち、なにか未来に希望を見ているような、そんな印象を抱かせる。素朴な、藍色のワンピースをまとい、背は高くも低くもなく、痩せてはいるが、貧弱には見えない。顔の輪郭は、柔らかかった。
視線を落とすと、彼女の右手の脇に、大きなクマのぬいぐるみが、ぴったりと、寄り添っていた。よく見ると、彼女は、ぬいぐるみの手を握っていなかった。抱えているわけでもなく、ただ、隣にいた。
不思議なことに、彼女が歩くと、ぬいぐるみも歩いた。彼女が止まると、ぬいぐるみも止まった。ぬいぐるみは、彼女と並んで歩いてきていたのだ。
「あ」
口を開けた。
「おはようございます」
透き通るような透明感に、少女のあどけなさを十分に残した穏やかな声だった。
「お、おはようございます」
「カオルです」
「シンジ、と言います」
「シンジさん」
「はい」
「今日はよろしくお願いします」
彼女は礼儀正しく、軽く頭を下げる。彼女が頭を下げた時、隣のクマのぬいぐるみの頭の角度が、わずかに傾いた気がした。
不思議なクマを見つめていたのを察したのか、ハクサからフォローが飛んできた。
「シンジさん、その子リオン、っていう名前なんですよ」
「リオン。えっと、この、クマのぬいぐるみ?」
「そう。カオルの母さんが、あの子に、小さい頃に贈ったの。それ以来、ずっと一緒で」
「ずっと、ですか」
「ええ。ずっと」
ハクサは、それで口を閉じた。
カオルは、ぬいぐるみの——リオンの——頭の上に、笑顔で軽く手を乗せた。乗せた手は、自然な動きだった。当たり前のように、そこに手が置かれた。
「じゃあ、早速行きましょうか、シンジさん」
「あ、はい」
彼女の口調は、思ったよりしっかりしていた。素朴な顔の輪郭の中に、芯のある声が収まっていた。
ハクサが、奥から植物で編まれた籠を持ってきた。
籠の中には、布で包まれた何かと、小さな瓶が二本。瓶の中身は薬らしい、淡い色をした液体。布の包みからは、わずかに焼きたてのパンのような匂いが漂っていた。
「これを、お母さんにね」
「うん」
「気をつけて、行ってきてね」
「うん」
ハクサはもう一度、こちらに頭を下げた。
「シンジさん、どうかよろしくお願いします」
彼女の声は依頼主の声、というより、もう少し深い場所から出ていた。気がした。
◇
北門を出て、半刻ほど歩いた。街道を逸れて、林の中の細い道に入る。
カオルはこちらの半歩前を、一定の速度で歩いていた。彼女の隣にはリオンが、相変わらず、ぴったりと寄り添っていた。歩く速度も、彼女とほぼ同じだった。
最初はしばらく、リオンの動きを観察するのがやめられなかった。
「シンジさんは、王都に来てどのくらいですか」
カオルが半歩前を歩きながら、こちらに声をかけてきた。
「えーと、五日、くらいです」
「五日」
「ええ。少し前にこっちに着いて」
「冒険者、になったんですか」
「はい。先週なったばかりなんです」
「そうなんですね」
彼女の声には、年齢に合わない、落ち着きが、あった。十六、七の少女の声ではなく、もう少し、年上の、何かを抱えている人の声の出し方だった。
「カオルさんは、王都の方ですか」
「いえ、あたしは、辺境の小さな町の出身です。今はおじいちゃんと、おばあちゃんと、王都に」
「お母さんは、森の方に?」
「ええ」
カオルは、それでほんの少し、口を閉じた。閉じた口の、半瞬の沈黙が、やけに長く、感じられた。
「お母さんは、ずっと森の方なんですか?」
「半年くらい、です」
「半年」
「ええ。あたしと、おじいちゃんと、おばあちゃんは、月に何度か会いに行くんです」
「月に、何度か」
「ええ」
彼女の答え方は、淡々としていた。
それ以上は、聞かなかった。
聞かないことが、たぶん、今は正解だと思った。カオルとリオンは慣れた足つきで林の中を進んでいく。
◇
林の中の細い道は、半刻ほど歩いた。
歩きながらカオルは、時々こちらを振り返って笑った。付き添い、という依頼がこれであっているかは分からなかったが、まずまず楽しく会話をして道を進んでいた。
友達のことや、王国のこと、これまでに付き添いをしてくれた冒険者のこと。
「シンジさん、ここから先は、もう少しだけです」
「分かりました」
「お母さんは、もちろんシンジさんのことを知らないので、最初は少し警戒するかもしれません」
「警戒」
「ええ。でも、あたしが一緒だから、たぶん大丈夫です」
「分かりました」
「お母さんは、最近知らない人と、話すのが苦手で」
「そう、なんですね」
「ええ、それに昔は名の知れた冒険者だったんです。だから、怪しい人はスパンって」
「スパンっ?!」
「真っ二つです」
「それは、お元気ですね、、、」
「ふふっ。冗談です」
彼女は、それでまた、前を向いた。前を向いた背中の右脇では、リオンが彼女の歩調に、寄り添っていた。
◇
林の奥に、ぽつんと小さな家が現れた。
家は思っていたより、丁寧に手入れされていた。
屋根の藁は、新しく葺き替えられたばかりらしい。壁の漆喰は、白く塗り直されていた。窓辺には、小さな鉢植えがいくつか並べられている。王都の家と同じ花。鉢の中の花は、ちゃんと、生きていた。
「お母さーん」
カオルが、家の手前で声をかけた。
「はーい、はい。いま、行きますよ」
声は、穏やかだった。ただ、その中の息の量が、わずかに薄かった。扉がゆっくり、内側に開く。
現れたのは、四十代の後半くらいに見える、女性だった。
しかし、見えたというだけだった。実際の年齢は、もう少し若いのだろう、と、半瞬遅れて、頭の片側で思った。
彼女の頬は、こけていた。目の下には、深い隈。髪は、後ろで一つに束ねていたが、艶は半分以下まで落ちていた。
それでも、口元の笑い方は、たしかに温かかった。
「カオル」
「お母さん」
カオルが、駆け寄った。
リオンも、一緒に駆けた。母は二人を両腕でゆっくり抱き止めた。腕の力は、弱かった。けれど、抱き止めようとする意志は強かった。
「あら、こちらは」
母がこちらに、気付いた。
「あ、はじめまして」
「はじめまして、ツムギです」
彼女は、軽く頭を下げた。ゆっくりだった、品を感じる美しい動きだった。
「黄金の獅子の冒険者の、シンジさんです。いつも通り、依頼を見てくれて」
「あらまあ。ご丁寧に。ありがとうございます」
「いえ」
「中に、お入りください。お茶を、お淹れしますから」
「いえ、外で待たせていただいて」
「そんな、遠慮なさらないで」
「いえ、本当に。お二人で、ゆっくりお話されてください。俺は、家の前のベンチで、待ちますから」
俺の言葉に、母は半瞬、目を伏せた。
伏せた目を、ゆっくり上げた。上げた目にはわずかに、感謝の色が混じっていた。
「ありがとうございます」
「いえ」
「では、お言葉に甘えさせてもらいますね」
母は、それで、もう一度頭を下げた。下げる動作の、肩の上下がわずかに震えていた。
カオルは、母の手を取って家の中に入った。
扉が、ゆっくり閉まった。
◇
俺は、家の前の木のベンチに腰を下ろした。
ベンチは古かったが、丁寧に磨かれていた。誰かが、毎日ここに座っていた、ということが、座面の艶から分かる。
「ふう」
空を、見上げた。森の上の空は、思ったより広かった。雲が、ゆっくり流れていく。鳥の声が、奥のほうから断続的に聞こえる。暖かい風が通り抜けて、前髪をくすぐる。
家の中からも、声が薄く漏れてきていた。話している内容は、聞こえなかったが、声の調子だけは聞こえた。
カオルの声は、軽かった。ツムギの声は、ゆっくりだった。二人の声が、交互に、聞こえる時間が、しばらく、続き何度か笑い声が混じった。
笑い声を聞きながら、目を閉じた。閉じた瞼の裏で、何かが、ゆっくり形を変えていく感覚があった。形は、はっきりしなかった。はっきりしないけれど、それは温かかった。
温かい何かを抱えたまま、俺はしばらくベンチに座り、陽の光と、鳥のさえずりと、風の音と、2人の笑い声を、ただ、聞いていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。
続きは明日19時ごろ更新予定です。




