とある少年の孤独と唱
悠月と申します。
第一章とはかなり雰囲気を変えて展開しております。温かい目で見守って頂きたいと思います。
厳しいお言葉含め、感想・アドバイスお待ちしております。
第17話 とある少年の孤独と唱
――生きていれば、朝、目を覚ます。
暖かい日の光が、意識の覚醒が、世界との接続を矯正する。
つかの間の孤独は終わり、すぐに社会の一部になる。
起きるということは、一日の始まりであり、人生の続きの証明で、不安の終わり。
そう思っていた。
けれど、ある朝から、私はその言葉を信じ切れなくなっていた。
朝は、不安の終わりではなかった。むしろ、不安が形を変えて戻ってくる時間だった。眠っているあいだだけ、私は自分の名前から少し離れていられる。仕事、学校、家族、約束、未読の通知、払えないもの、言えないこと、言ってしまったこと。眠りはそれらの輪郭を一度ぼかしてくれる。
けれど朝になると、世界はまた私を正確に呼ぶ。
名前を呼ばれる。
役割を呼ばれる。
責任を呼ばれる。
目を覚ますとは、ただ意識が戻ることではない。昨日までの続きを背負わされることだ。昨日の傷も、昨日の嘘も、昨日の怠慢も、昨日のやさしさも、すべて今日の私の背中に戻ってくる。朝は清らかな再出発ではない。むしろ、逃げ切れなかったものたちの再集合である。
いっそ世界が滅んでしまえばいいのに。一日が終われば、その日の苦しみや悲しみを全部背負って滅んでくれればいいのに。
それでも、光は差す。
不思議なことに、世界は私の絶望を待ってはくれない。どれほど深く沈んだ夜のあとでも、窓の外では誰かが自転車をこぎ、コンビニの自動ドアは開き、駅の改札は人を飲み込み、アスファルトの上には朝日が落ちる。世界は冷たいのではない。ただ、私一人の心に合わせて止まるようには作られていない。
そのことは、残酷でもあり、救いでもある。
もし世界が私の悲しみに合わせて止まってしまったら、私はその重さに耐えられないかもしれない。世界が進むから、私は進まされる。進みたくない日にも、歯を磨き、服を着て、外に出る。社会という巨大な機械の中に押し戻される。そこでは、内側の嵐など、ほとんど意味を持たない。電車は定刻に来るか遅れるかでしかなく、店員は会計をし、信号は青になり、赤になる。
人間の苦しみと、世界の無関心。
そのあいだに、朝がある。
意味があるから生きるのではないのかもしれない。
意味が見つからないまま、それでも起き上がることの方が、私たちの日常に近い。生きる理由を言葉にできる人は少ない。多くの人は、明確な答えなど持たないまま、今日を始めている。弁当を作るから起きる。授業があるから起きる。仕事があるから起きる。犬に餌をやるから起きる。洗濯物が溜まっているから起きる。誰かに迷惑をかけたくないから起きる。
それは生きるには、足りないだろうか。
私は、そうは思わない。
人生を支えるものは、いつも崇高な理念とは限らない。むしろ人は、小さく具体的なものによって、この世に結びつけられている。炊飯器の音。薬を飲む時間。借りた本の返却日。誰かとの約束。枯れかけた植物。まだ読んでいない漫画。冷蔵庫に残ったプリン。そんな
取るに足らないものたちが、死の方へ傾く私たちの体を、毎日ほんの少しこちら側へ引き戻している。
世界に意味があるかどうかは、わからない。
けれど、味噌汁が温かいことはわかる。
誰かの手が冷たいことはわかる。
謝るべき相手がいることはわかる。
まだ捨てられない写真があることはわかる。
わからない大きな意味より、わかってしまう小さな感触の方が、時に人を生かす。
死について考えるとき、私はいつも自分の死から始めてしまう。
私がいつかいなくなること。私の意識が途切れること。私の見てきた世界が閉じること。私の記憶、私の後悔、私の愛着、私の恥が、どこかで終わること。自分の死は、私にとってもっとも個人的で、もっとも逃げられない出来事だ。誰も代わりに死んではくれない。どれほど愛してくれる人がいても、最後の境界を越えるのは私一人だ。
その事実は、私を孤独にする。
けれど、死は自分のものだけではない。
むしろ、私たちは他者の死によって、初めて死の重さを知るのかもしれない。ニュースで誰かの名前が読み上げられる。事故、戦争、病気、災害、自殺。数字が並ぶ。何人死亡。何人負傷。何人不明。数字は便利だ。大きすぎる悲しみを、理解できる形に圧縮してくれる。けれど、数字になった瞬間、そこにあった顔は見えにくくなる。
誰かが死んだということは、誰かの朝が失われたということだ。
その人が開けるはずだったカーテンがある。飲むはずだった水がある。返すはずだったメッセージがある。行くはずだった場所がある。言うはずだった冗談がある。怒るはずだった出来事がある。買うはずだったパンがある。誰かに呼ばれるはずだった名前がある。
きっと死は、瞬間ではない。状態でもない。
その人の未来に置かれていた無数の小さな予定が、いっせいに消える。
そして残された人々の中で、その消えた予定の空白が鳴り続ける。
テーブルに残った椅子。もう使われない歯ブラシ。既読にならない画面。閉じられたままの部屋。何気ない物ほど、死を強く語る。葬儀の言葉や花よりも、生活の中に残された小さな不在の方が、時に耐えがたい。人は壮大な別れより、いつもの動作が繰り返されないことに、どうしようもなく打ちのめされる。
だから、他者の死は私に問う。
あなたはまだ生きているのか、と。
ただ息をしているか、ではない。
誰かの不在の上に立って、あなたはどのように生きるのか、と。
この問いは、優しくない。慰めてもくれない。けれど、私を私の中だけに閉じ込めない。自分の死だけを見つめていると、私は自分の恐怖の中に沈んでいく。けれど他者の死を思うとき、そこには責任が生まれる。残された者として、見てしまった者として、知ってしまった者として、私は何をするのか。
人は、誰かの死を完全には引き受けられない。
代わりに悲しむことも、代わりに失われることもできない。
けれど、完全には引き受けられないからこそ、何かをしなければならないのかもしれない。花を供える。名前を呼ぶ。話を聞く。沈黙のそばに座る。忘れない。忘れてしまったと気づいたら、また思い出す。誰かが生きた事実を、雑な物語に回収しない。かわいそう、立派だった、運命だった、仕方なかった。そんな言葉で早く片づけない。
死者に対してできることは少ない。
けれど、少ないからこそ、粗末にしてはいけない。
朝、駅へ向かう道で、私は多くの顔とすれ違う。
眠そうな顔。苛立った顔。何も考えていないように見える顔。イヤホンをしている顔。スマートフォンを見ながら歩く顔。急ぐ顔。立ち止まる顔。それぞれの顔に、それぞれの死がある。もちろん、私はそんなことをいちいち考えてはいられない。すべての人の有限性を真正面から受け止めていたら、一歩も歩けなくなる。
だから私たちは、他人を風景にする。
それは必要な鈍さでもある。都市で生きるには、すべての他者に反応してはいられない。けれど、その鈍さが完全になったとき、人は簡単に冷たくなる。誰かの痛みを、邪魔な情報として処理するようになる。倒れている人を見ても急いでいるからと通り過ぎる。泣いている人を見ても面倒だから視線をそらす。困っている人を見ても、誰かが助けるだろうと思う。
社会は、その「誰か」でできている。
そして、その誰かは、時に私でなければならない。
死を思うことは、内面の深い哲学だけではない。もっと現実的で、もっと手触りのある行為につながっている。救急車を呼ぶこと。声をかけること。休ませること。聞くこと。危ない言葉を見逃さないこと。疲れ切った人に「大丈夫?」と尋ね、その返事を形式として流さないこと。
誰かの死を防げるなどと簡単には言えない。
けれど、誰かの孤独をほんの少し薄めることはできるかもしれない。
それは大きな救済ではない。
ただの小さな抵抗だ。
世界の無関心に対する、ささやかな反抗だ。
世界は意味を与えてくれないかもしれない。ならば、私たちは意味がないまま終わらせないために、小さな意味を作るしかない。石を山の上まで押し上げ、また転がり落ちるとしても、もう一度押す。その動作が無意味に見えるとしても、押す者の額には汗があり、足には痛みがあり、呼吸には確かな熱がある。意味がないからやめるのではなく、意味がないと言われる場所でなお手を伸ばすこと。そこに、人間の尊厳のようなものがある。
朝、目を覚ます。
それは、みちの前に立つことに似ている。
また同じ一日が始まる。昨日と似た道。昨日と似た会話。昨日と似た疲労。昨日と似た失敗。何かが劇的に変わるわけではない。努力が必ず報われるわけでもない。正しく生きた人が必ず守られるわけでもない。優しい人が長生きするわけでもない。世界は公平ではない。美しい言葉で覆っても、その事実は変わらない。
それでも、人は朝、起きる。
それでも、パンを焼く。
それでも、傘を持つ。
それでも、誰かの名前を呼ぶ。
それでも、もう一度始める。
この「それでも」は、弱々しいようでいて、驚くほど強い。
希望とは、明るい未来を確信することではないのだと思う。明るい未来など、誰にも保証できない。希望とは、保証がないにもかかわらず、今日の行為を投げ出さないことだ。明日がよくなると信じ切れなくても、今日誰かに水を渡すこと。世界の意味を説明できなくても、目の前の人の痛みを少し減らそうとすること。自分の人生に大きな価値を感じられなくても、今日の自分を完全には見捨てないこと。
それは祈りに似ている。
神に向けられているかどうかは関係ない。
人が人に向かって行う、具体的な祈りだ。
洗濯物を干すこと。薬を飲ませること。遅刻しそうな人を待つこと。泣いている人の横で黙っていること。もういない人の写真の前に水を置くこと。子どもに横断歩道の渡り方を教えること。年老いた人の話を急かさずに聞くこと。自分自身を今日だけは傷つけないと決めること。
こうした行為は、世界史には残らない。
けれど、生の側に属している。
私たちは、大きな物語の中で生きているようで、本当は小さな関係の網の目の中で生きている。誰かの一言で救われ、誰かの沈黙で傷つき、誰かの不在で世界の色が変わる。自分一人の人生だと思っていたものは、いつも他者によって縫われている。私の言葉の中には、誰かから受け取った言葉が混ざっている。私の優しさの中には、かつて誰かがくれた優しさが残っている。私の恐れの中にも、誰かの死が影を落としている。
だから、私は完全に一人で死ぬとしても、完全に一人で生きているわけではない。
ここに、人間の難しさがある。
死は私だけのものだ。けれど、生は私だけのものではない。私が死ねば、私の世界は終わる。けれど、私の死は誰かの世界に穴を開ける。私が生きていることは、私自身にとって重荷であると同時に、誰かにとっては小さな支えかもしれない。自分では気づかないほどの、頼りない支えかもしれない。けれど、人はそういう頼りなさに寄りかかって生きている。
朝の教室。
朝の病室。
朝の職場。
朝の台所。
朝の駅。
そこには、無数の生が並んでいる。それぞれが死に向かっている。それぞれが何かを隠している。それぞれが言葉にできない不安を持っている。けれど表面上は、だいたい普通の顔をしている。普通とは、なんと残酷で、なんとありがたい仮面だろう。普通の顔をしていられるから、私たちは社会に出ていける。けれど普通の顔をしているせいで、誰かの苦しみが見えなくなる。
だから、ときどき立ち止まらなければならない。
自分に対しても、他者に対しても。
本当に大丈夫なのか、と。
その問いは、答えを求めるためだけにあるのではない。問いかけること自体が、すでに小さな関係になる。あなたを風景として見ていない。あなたの不在を当然とは思っていない。あなたが明日も目を覚ますことを、ただの仕組みとは思っていない。そう伝えるための、短い橋になる。
しかし、人はいつも他者のために生きられるわけではない。
そんなことをすれば、すぐに壊れてしまう。責任という言葉は、美しく聞こえるが、扱いを間違えると人を押し潰す。すべてを背負わなくていい。すべてを救わなくていい。自分の命を削ってまで、誰かの全人生を支えようとしなくていい。人間にできることは限られている。限られていることを認めない優しさは、時に暴力になる。
けれど、限られているから何もしない、ということにもならない。
できる範囲で、できることをする。
その貧しさを、私は信じたい。
世界を救えない手が、コップ一杯の水を差し出す。
人生を説明できない口が、「おはよう」と言う。
死を止められない体が、誰かの隣に座る。
それで十分だとは言えない。
けれど、それが無意味だとも言わせない。
朝の光は、いつも同じように見えて、同じではない。
冬の朝は、刃物のように薄い。夏の朝は、すでに疲れている。春の朝は、何かが始まるふりをして人を少しだけ騙す。秋の朝は、終わりに向かうものがなぜ美しいのかを、何も言わずに見せてくる。季節は、死を隠さない。花は咲いて散る。葉は茂って落ちる。虫は鳴いて消える。空は高くなり、日暮れは早くなる。
自然は冷たい。
けれど、冷たいからこそ嘘がない。
人間だけが、終わりを前にして言葉を作る。さよなら、またね、ありがとう、ごめん、忘れない、愛している。どれも不完全な言葉だ。死の前では、あまりにも小さい。けれど私たちには、その小さな言葉しかない。だから何度も使う。言い古された言葉にすがる。世界で最初に言うような顔をして、何度も同じ言葉を言う。
ありがとう。
ごめん。
また会いたい。
生きていてほしい。
それらの言葉は、決して、死には勝てない。
けれど、死の前に黙り込むだけでもない。
人間の言葉は、敗北を知りながら差し出される。
そこに、わずかな美しさがある。
私は、自分の死を考える。
私は、他者の死を考える。
私は、意味のない世界を考える。
そのどれもが、私を苦しくさせる。けれど同時に、それらは私を眠りから起こす。単に布団から起こすのではない。自分の人生を、他人任せにしていた眠りから起こす。世間の言葉でごまかしていた眠りから起こす。忙しさで麻痺させていた眠りから起こす。
目覚めるとは、意識が戻ることではない。
目覚めるとは、逃げていた問いにもう一度捕まることだ。
私は何を恐れているのか。
私は誰を失いたくないのか。
私は誰の痛みを見ないふりしているのか。
私は何に従いすぎているのか。
私はどこで、自分の人生を他人に預けたのか。
この問いに、すぐ答える必要はない。大切な問いは、人生の中を長く漂うものだ。答えになりかけては崩れ、別の形で戻ってくる。若い頃の答えは、中年の朝にはもう合わないかもしれない。今日の確信は、誰かの死によって明日には変わるかもしれない。
でも、それでいい。
人間は、完成した思想として生きるのではない。
揺れながら、誤解しながら、忘れながら、また思い出しながら生きる。
朝、私は靴を履く。
靴紐を結ぶ。その何気ない動作が、ふいに厳粛に思える。今日この靴で、私はどこへ行くのだろう。誰と会い、何を言い、何を避け、何を見落とすのだろう。今日の終わりに、私は少しだけましな人間になっているだろうか。それとも、また同じような後悔を抱えて眠るのだろうか。
わからない。
わからないまま、扉を開ける。
外の光が目に入る。まぶしくて、少し顔をしかめる。世界は相変わらず私に説明をくれない。なぜ生まれたのか。なぜ死ぬのか。なぜ失うのか。なぜ愛してしまうのか。なぜ傷つけるのか。何ひとつ、十分には答えてくれない。
それでも、風が吹く。
それでも、誰かが歩いている。
それでも、信号が変わる。
それでも、私は今日の中へ出ていく。
生きるとは、意味が確定した場所に安住することではない。意味が崩れる場所で、それでも手を動かすことだ。死を前にして、自分の生を引き受けることだ。他者の不在を前にして、残された関係を粗末にしないことだ。世界の無関心を前にして、小さな関心を差し出すことだ。
朝、目を覚ます。
それは、人生がまだ私を許しているということではない。
世界が私を必要としている証明でもない。
不安が終わった合図でもない。
それはただ、今日という道の前に、また私が立ったということだ。
こりもせず、あきもせず。
そして、私は道を選ぶ。
完璧な意味などなくても。
誰にも見られていなくても。
いつかすべてが終わるとしても。
選び歩くこの身体に、まだ熱があるかぎり。悩み、考え、後悔していたい。
道の途中で誰かが倒れていたら、私は、声をかける人間でありたい。
それが、私の朝である。
それが、死へ向かう生の中で、なお他者とともにあるということだ。
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続きは明日19時ごろ更新予定です。




