第74回 / 弱さの独立宣言
ホワイトハウス、ローズガーデン。
歴代の大統領たちが、数々の歴史的な演説を行ってきたこの場所は今、かつてない異様な熱気と、それを上回るほどの困惑に包まれていた。
集まった報道陣は数千人。
全世界に中継されるカメラの放列は、まるで光の壁だ。
彼らは「最強の大統領」による、テロリスト(私たち)への宣戦布告、あるいは勝利宣言を期待して待ち構えていた。
しかし、現れたのは。
「……あ……うぅ……」
演台の前に立ったのは、ヨレヨレのYシャツに、ネクタイにピザのシミをつけた老人だった。
髪は乱れ、目は赤く腫れ、手には演説原稿の代わりに、食べかけの冷めたピザが握られている。
そして、その震える手を、優雅なドレスを着た東洋の美女(私)が、まるで迷子をあやすように握りしめていた。
パシャパシャパシャッ!!
フラッシュの嵐が焚かれる。
その猛烈な光量に、スティーブが怯えて身を竦める。
「……怖い……。みんなが見てる……。
……帰りたい……コタツに帰りたいよぉ……」
マイクがその小さな呟きを拾い、スピーカーから会場全体に響かせてしまう。
ざわめきが広がる。
「おい、どうなってるんだ?」「あれが大統領か?」「人質に取られているのか?」
「大丈夫よ、スティーブ」
私は彼の隣に立ち、マイクの角度を直してあげた。
「あのカメラのレンズは、銃口ではありません。
……ただの『好奇心』という名の覗き穴ですわ」
「で、でも……何を話せば……。
原稿はないし……頭が真っ白だ……」
「真っ白でいいのよ。
……飾らない貴方の『空白』を、世界に見せてあげなさい」
私は彼の手をギュッと握り返し、一歩下がった。
ここからは、彼一人の舞台だ。
◇
スティーブは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
目の前には、無数の視線。
かつては、それを威圧し、支配することで快感を得ていた。
だが今は、裸で荒野に立たされているような心許なさしかない。
「……あー……テステス……」
震える声。
全米のテレビ、ネット、タイムズスクエアの巨大ビジョン。すべてがこの老人の頼りない第一声に注目する。
「……国民の、皆さん。
……私は……スティーブ・ストロングです」
彼はそこで言葉を詰まらせた。
「合衆国大統領」という肩書きが、喉につかえて出てこない。
彼は深呼吸をし、視線を落とした。
手の中にあるピザ。
トマトとチーズの匂い。それが、彼を現実に繋ぎ止める唯一の錨だった。
「……私は、嘘をついていました」
静まり返る会場。
「私は……強くありません。
……毎朝、起きるのが怖いです。
支持率の数字を見るたびに、胃がキリキリと痛みます。
……『核のフットボール』を見るのが怖くて、夜も眠れませんでした」
記者が息を呑む音が聞こえる。
国家元首による、前代未聞の弱音の吐露。
「私は……貴方たちが望むような『スーパーマン』になりたかった。
だから、肩パッドを入れたスーツを着て、シークレットブーツを履いて、鏡の前で怖い顔をする練習をしました。
……でも、本当の私は……ただの、臆病で、寂しがり屋の老人です」
スティーブは、ピザを持ち上げた。
「……昨日の夜、久しぶりにピザを食べました。
……美味しかった。
涙が出るほど、美味しかったんです」
彼は、カメラの前でピザをかじった。
モグモグと。
行儀悪く。
「……この味が、私の真実です。
世界征服よりも、火星移住計画よりも……この温かいチーズのほうが、私を幸せにしてくれました」
彼は顔を上げ、涙の滲んだ目でカメラを見据えた。
そこにはもう、虚勢を張った政治家の目はない。
一人の人間としての、切実な眼差しがあった。
「……国民の皆さん。
貴方たちも……疲れているのではありませんか?」
その問いかけは、電波に乗って、大陸中へ染み渡っていった。
NYのオフィスで残業する会社員。
工場のラインで働く労働者。
ワンオペ育児に追われる母親。
彼らの手が、ふと止まる。
「『強くあれ』。『一番になれ』。『夢を掴め』。
……そんな『アメリカン・ドリーム』という名の呪いに、押し潰されそうになっているのではありませんか?」
スティーブは、ネクタイを緩めた。
「私は、もう降ります。
……競争という名の列車から、降ります。
そして、これからは……日当たりの良いベンチで、鳩に餌をやりたい」
彼は大きく息を吸い込み、宣言した。
「本日をもって、私は『合衆国大統領』を辞任しません。
……ですが、『世界最強のリーダー』は廃業します」
どよめきが起きる。
「その代わり……私は『世界で一番、国民の弱さを理解できるお爺ちゃん』になります。
……もう、戦えとは言いません。
頑張れとも言いません。
……ただ、一緒にピザを食べて、たまには泣いて、ぐっすり眠りましょう」
スティーブは両手を広げた。
「これが……私の新しい公約です。
『アメリカ合衆国』改め……『アメリカ・リラックス合衆国』の建国を、ここに宣言します!」
シーン……。
数秒の沈黙。
誰もが、事態を飲み込めずにいた。
大統領が狂ったのか? それとも高度なジョークか?
その沈黙を破ったのは、最前列にいたベテラン記者だった。
彼はペンを置き、眼鏡を外し、そして深く、深くため息をついた。
「……はぁぁぁ……」
それは、失望のため息ではなかった。
ずっと張り詰めていた空気が抜ける音だった。
「……いいな」
記者が呟いた。
「……リラックス合衆国か。……悪くない」
彼はネクタイを外し、ポケットからチョコレートを取り出して口に放り込んだ。
「……賛成だ! 俺も疲れた!」
後ろのカメラマンが叫んだ。
「もう重い機材持ちたくねぇ! 座らせてくれ!」
「私も! ハイヒール脱ぐ!」
パチ、パチ、パチ……。
まばらな拍手が起こり、それは瞬く間に広がり、最後には喝采となった。
それは「熱狂」ではない。
「共感」と「癒やし」の拍手だった。
「おお……。みんな……笑っている……」
スティーブが呆然とする。
「怒ってない……。失望してない……」
「ええ。……見なさい、スティーブ」
私は彼の肩を抱いた。
「世界は、貴方の『強さ』ではなく、『弱さ』を愛したのですわ」
ローズガーデンの外、ホワイトハウスを取り囲んでいたデモ隊も、警備の兵士たちも、プラカードや銃を置き、互いに肩を叩き合っていた。
空には、まだあの『ゴールデン・イーグル』が着陸したまま鎮座しているが、その黄金の装甲は夕日に照らされ、どこか滑稽で、愛嬌のある巨大なオブジェに見えた。
◇
演説が終わると、ホワイトハウスは本当の意味での「パーティー」になった。
形式ばった晩餐会ではない。
芝生の上にピザの箱を広げ、大統領も記者も、SPもメイドも入り混じっての巨大なピクニック。
「……レティ様」
ソフィアちゃんが、芝生に座り込んで端末を見せに来た。
「ウォール街の株価、全銘柄ストップ高です」
「あら、どうして?」
「『幸福度』という新しい指標が評価されたようです。
……特に、製菓会社、寝具メーカー、そして動画配信サービスの株が爆上がりしています」
「経済もまた、人の心で動くものですからね」
私は紅茶を飲み干し、空を見上げた。
一番星が瞬いている。
アメリカという巨大な象徴が「弱さ」を認めた今、世界中の空気が変わり始めている。
「……ありがとう、レティ」
隣に、スティーブがやってきた。
手にはコーラの瓶。顔は憑き物が落ちたように穏やかだ。
「貴女のおかげで……私はやっと、パパの呪縛から解放された」
「どういたしまして。……でも、油断なさいませんように」
私は彼の鼻についたピザソースを拭ってあげた。
「人間はすぐにまた、頑張りたくなってしまう生き物ですから。
……疲れたら、いつでもあのコタツに入りにいらっしゃい」
「ああ。……今度は、世界の首脳たちを招待しようか。
プーも、習も、みんなまとめてコタツに入れてしまえば……戦争なんて起きない気がするよ」
「ふふ。素敵な外交戦略ですわね」
その時、遠くからクラクションの音が聞こえた。
私の帰還を待つリムジンだ。
「……もう、行くのかい?」
「ええ。……ここでの仕事は終わりましたもの」
私は立ち上がり、スカートの埃を払った。
「それに、まだ世界には、眠れぬ夜を過ごしている子供たち(大人たち)がたくさんいますから」
「……そうか。……寂しくなるな」
スティーブが目を伏せる。
「寂しくなったら、空を見上げなさい。
……月はいつでも、貴方のハゲ頭……いいえ、素敵な頭を照らしていますわ」
「ははは。……キツイなぁ、ママは」
私は彼に別れのキス(頬に)をし、仲間たちの元へ歩き出した。
ベルナデットが剣を収め、レンがドローンを回収し、ソフィアちゃんがタブレットを閉じ、マリアがバスケットを持つ。
いつもの、私の大切な家族たち。
「レティ様。……次はどちらへ?」
マリアが尋ねる。
私は少し考えて、夜空を見上げた。
花火の名残が、星と混じって揺れている。
「……そうですわね」
私は微笑んだ。
「しばらくは、決めませんわ。
世界は今もう『眠る準備』を始めたところですもの」
「では……休暇、ですか?」
ソフィアちゃんが、少し意外そうに眼鏡を押し上げる。
「ええ。長い長い休暇です」
私は肩をすくめた。
「……自分を甘やかすのも、人を甘やかすのと同じくらい大切ですもの。私たちだけ、シャカリキになって働いていたら、スティーブや日の本のヨシノちゃんに、呆れられてしまいますわ」
私たちはリムジンに乗り込んだ。
背後では、リラックス合衆国の誕生を祝う、
少し気の抜けた、しかし温かい花火が、静かに夜空を照らしていた。
『さて、全肯定の旅は、ここで一区切り。
……あとは、それぞれの場所で、甘く眠りましょう。』
◇
さて。
ここまで私の物語を聞いてくださった、画面の前の貴女。
そう、今この文章を読んでいる、頑張り屋さんの貴女のことよ。
少し、疲れている顔をしているわね?
眉間に皺が寄っているわ。肩に力が入っている。
……そんなに必死に、何と戦っているの?
「戦わなくていいのよ」
私は、テーブルの上に置かれた一輪の薔薇を手に取る。
棘は全て取り除いてある、滑らかな茎。
「貴女は十分、頑張ったわ。
誰かに認められなくても、成果が出なくても、貴女が今日一日を生き抜いたこと……それだけで、奇跡みたいな偉業なのよ」
私の声、届いているかしら?
天才未亡人である私にはわかるの。
貴女がどれだけ涙を堪えて、平気なふりをして、誰かのために尽くしているか。
だから、今だけは。
この甘い庭園に逃げ込んでらっしゃい。
ここには、貴女を責める上司も、プレッシャーをかける世間も、面倒な常識もない。
あるのは、温かい紅茶と、甘いお菓子。
そして、貴女を全肯定するためだけに存在する、私たちがいるだけ。
「……さあ、こっちへ来て」
私は自分の隣の席――ふかふかのクッションが置かれた特等席をポンポンと叩く。
「靴を脱いで。重い荷物も降ろして。
……私の膝は、空いているわよ?」
少し恥ずかしい?
ふふ、大丈夫。誰も見ていないわ。
目を閉じて、深呼吸をして。
甘い毒だなんて、怖がらないで。
一度味わえばわかるわ。
人をダメにするこの甘さは……貴女の傷ついた心を溶かして治す、極上の「蜜」の味だってこと。
「さあ、お茶にしましょう。……今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」
私はポットを持ち上げ、新しいカップに琥珀色の液体を注ぐ。
湯気と共に立ち上る香りが、貴女の周りの冷たい空気を追い払っていく。
この物語は、ここまで。
……でも、貴女が自分自身を愛せるようになる、その日まで。
私の「全肯定」は、永遠に貴女のそばにあるわ。
ごきげんよう。
そして、おやすみなさい。
良い夢を、私の愛しい「迷子」さん。
(完)
この物語を愛してくださった皆さまへ。
レティの世界は静かに閉じましたが、
私たちの日常は続きます。
物語を書く私自身も同じです。
次は、少し甘くて、少し騒がしくて、
安心して砂糖を吐けるようなお話になる予定です。
もしよろしければ、またお付き合いください。




