第72回 / ホワイトハウス・ハッキング
「……うぅ……ママ……」
「はいはい。足元に気をつけて」
ホワイトハウスの南庭。
着陸し、膝をついた黄金の巨像『ゴールデン・イーグル』の胸部ハッチから、世界最強の国家元首が、ドレス姿の女性に手を引かれてヨロヨロと降りてくる。
その姿は、凱旋した英雄には程遠かった。
涙と鼻水で高価なスーツを台無しにし、足は小鹿のように震え、私の腕にしがみついている。
「……あれが、大統領か?」
「なんて顔だ……。迷子の子供みたいだぞ」
柵の向こうに集まったメディアや野次馬たちがざわめく。
しかし、誰も彼を笑わなかった。
むしろ、その等身大の「情けなさ」に、一種の安堵感を覚えていた。
「大統領!」
そこへ、黒いスーツにサングラスの集団――シークレットサービス(SS)が駆け寄ってきた。
彼らの手には、決して手放してはならない「黒い革鞄」が握られている。
通称『核のフットボール』。
世界を数回滅ぼせる核攻撃命令書と、発射ボタンが入った、人類史上最も重い鞄だ。
「ご無事ですか、閣下! ……さあ、直ちに『フットボール』の確保を!
現在、デフコン(防衛準備態勢)はレベル2です! 反撃の準備を!」
SSの長官が、スティーブの目の前に鞄を突き出した。
その黒い革の光沢を見た瞬間、スティーブの顔色が青ざめた。
「……ひっ……!」
「閣下? 認証コードを! 敵はまだ近くに……」
「やめろ……! 見せるな!
その鞄……怖いんだ……! いつも夢に出てくるんだ……!
私がボタンを押して……世界が燃える夢が……!」
スティーブが頭を抱えて蹲る。
彼は長年、この鞄と、それが象徴する「全人類の命を背負う責任」に押し潰されてきたのだ。
「……閣下……」
長官が戸惑う。
「しかし、これは合衆国大統領の義務であり……」
「義務? ……いいえ、ただの『脅迫状』ですわ」
私はスティーブの背中を撫でながら、長官を見据えた。
「その鞄が近くにある限り、彼は枕を高くして眠れません。
……レン、ソフィアちゃん。
この可哀想な『ボール』、ルール変更してあげて」
◇
「了解。……セキュリティ、ガバガバにしてあげるよ」
レンが軽やかにステップを踏み、長官の前に立った。
「ちょ、何をする! 国家機密だぞ!」
長官が抵抗しようとするが、ベルナデットが背後に立ち、無言で「動くな」という圧をかけたため、彼は石像のように固まった。
レンが鞄に手を触れる。
指先から魔法陣が展開し、デジタル信号となって鞄の電子ロックへ侵入していく。
『アクセス承認。……ファイアウォール、突破。
……うわぁ、中身ひどいね。
「即時発射」「報復攻撃」「都市壊滅」……物騒なコマンドしかないよ』
レンが顔をしかめる。
「こんなの持ち歩いてたら、そりゃ胃にも穴が開くよ。
……ソフィア、書き換え(オーバーライト)のコードは?」
「準備完了ですわ」
ソフィアちゃんがタブレットを高速でタップする。
「ホワイトハウスのメインフレームも掌握しました。
防衛システム、通信回線、空調、照明……すべて『全肯定OS』へ移行します」
「よし。……じゃあ、いくよ!」
レンが指を鳴らした。
パチン!
ブゥン……。
黒い鞄のLEDランプが、赤色から、柔らかなピンク色に変わった。
同時に、ホワイトハウス全体の照明が、威圧的な白色灯から、暖炉のようなオレンジ色の暖色光へと切り替わった。
「な、何をした……!?」
長官が鞄を覗き込む。
「スティーブ」
私は蹲る大統領の手を取り、鞄の上の赤いボタン――かつては核発射スイッチだったもの――に導いた。
「押してごらんなさい」
「……え? だ、ダメだママ! そんなことしたら……キノコ雲が……!」
「大丈夫。……キノコはキノコでも、もっと美味しいキノコよ」
スティーブは震える指で、恐る恐るボタンを押した。
ポチッ。
『――ご注文、ありがとうございます』
鞄から、能天気な電子音声が流れた。
『「特大ペパロニピザ・ダブルチーズ」および「マッシュルームスープ」、30分以内にお届けします。
……なお、現在キャンペーンにつき、サイドメニューのナゲットも無料です』
「……は?」
スティーブが目を丸くする。
「……ピザ……?」
「はい。……そのボタンはもう、人類を滅ぼすスイッチではありません。
……近所の美味しいピザ屋への直通ボタン(ホットライン)ですわ」
レンが得意げにVサインをする。
「他にも機能があるよ。
青いボタンは『肩揉み要請』。
黄色いボタンは『フカフカの猫動画を再生』。
……これなら、枕元に置いても怖くないでしょ?」
「……」
スティーブは、ピンク色に光る鞄を見つめた。
そして、へなへなと地面に座り込んだ。
「……よかった……。
……もう、誰も殺さなくていいんだ……。
……ピザ……ピザが来るのか……」
彼は安堵のあまり、また泣き出した。
核の恐怖から解放された王様は、ただの「ピザを楽しみに待つお爺ちゃん」に戻ったのだ。
◇
一方、ホワイトハウス内部でも異変が起きていた。
「じ、事態はどうなっている!?」
「デフコン1へ移行……できません!」
「モニターの表示が……全部『お昼寝中』に!?」
地下司令室の軍人たちがパニックに陥る。
巨大スクリーンに映し出されていた世界地図の赤い点滅が消え、代わりに『世界の絶景・癒やしの旅』の映像が流れ始めたからだ。
「こちら空軍! スクランブル発進命令が……『有給休暇命令』に書き換わりました!」
「海軍より入電! 潜水艦のソナーが……クジラの歌声を拾って癒やされています!」
「そ、そんな馬鹿な……! 合衆国の防衛システムが……!」
そこへ、ソフィアちゃんの声が館内放送で響き渡った。
『――職員の皆様にお知らせします。
只今より、ホワイトハウスは『ホワイト・リラックス・ハウス』へと改名されました。
残業は憲法違反となります。
直ちにネクタイを緩め、廊下に設置された無料のドリンクバーをご利用ください。
なお、本日の業務は「大統領と一緒にピザを食べること」のみです』
「……ドリンクバー?」
「……ピザ?」
張り詰めていた軍人たちの肩から、力が抜けていく。
彼らもまた、大統領の癇癪と恐怖政治に付き合わされ、限界を迎えていたのだ。
「……おい、副官。……俺、コーラ取ってくるわ」
「……じゃあ、俺はポテトを……」
世界最強の司令室が、瞬く間にホームパーティー会場へと堕落していく。
◇
「さあ、スティーブ。……お部屋へ戻りましょうか」
私は庭で放心している大統領の手を引いた。
目指すは、世界政治の中心――大統領執務室。
「……執務室……。あそこへ戻るのか……」
スティーブの足が止まる。
「あそこは……孤独な場所だ。
歴代の大統領たちの肖像画に見下ろされて……決断を迫られる……。
……胃が痛くなるんだ……」
「大丈夫よ。……少し『模様替え』をしておきましたから」
私たちは、SSたちが呆然と見守る中、ホワイトハウスの回廊を歩いた。
そして、重厚な扉の前に立つ。
「開けますわよ」
ギィィィ……。
扉が開く。
「……えっ?」
スティーブが絶句した。
そこは、彼が知っている冷徹な権力の場ではなかった。
巨大な執務机の上には、書類の山ではなく、山盛りのフルーツとドーナツ。
床には、最高級のペルシャ絨毯の上に、巨大なビーズクッションと、なぜか『コタツ』が鎮座している。
歴代大統領の肖像画には、レンの悪戯で全員に「サングラス」や「猫耳」の落書き(ARフィルター)が施され、陽気な雰囲気を醸し出している。
そして、部屋の中央には、すでに先客がいた。
「遅いぞ、スティーブ。……ピザはまだか?」
コタツに入り、蜜柑を剥いているのは――王妃ヒルデガルド様だった。
「ひ、ヒルデガルド!? なぜここに!?」
「通信で見ていたら、我慢できなくなってね。……転移ゲートを開いてもらったのよ」
彼女は相変わらずの美貌と圧力を放ちながら、コタツの布団をポンポンと叩いた。
「ほら、座りなさい。……『世界最強』の座を降りた感想を聞かせてちょうだい」
「……」
スティーブは、コタツを見た。
一度入れば抜け出せない、魔の暖房器具。
そして、その周りには、私と、ヒルデガルド、レン、ソフィア、ベルナデット、マリア……。
彼を責める者は誰もいない。
彼に何かを要求する者もいない。
「……あ……」
彼は吸い込まれるように、コタツへと歩み寄った。
靴を脱ぐ。
足を突っ込む。
「……あったかい……」
その瞬間、彼の表情から最後の一滴まで緊張が抜け落ちた。
権力者の顔ではない。
ただの、疲れたおじいちゃんの顔。
「……ここが……新しいオーバル・オフィスか……」
「ええ。円卓ならぬ、コタツ卓ですわ」
私は彼の隣に入り、熱いお茶を淹れてあげた。
「ここは決断する場所ではありません。
……問題を先送りにして、茶を啜る場所です」
「……先送り……。いい響きだ……」
スティーブは茶を啜り、深く息を吐いた。
「……パパ。……僕はもう、頑張らないよ。
……だって、ここのほうが……ずっと居心地がいいんだ」
彼がそう呟いた時、壁に飾られていた彼の父親の写真が、ふわりと床に落ちた。
ガラスは割れなかった。
まるで、父親の呪縛もまた、この緩い空気に当てられて、肩の荷を下ろしたかのように。
「――ピンポーン! ピザのお届けでーす!」
廊下から、陽気な声が聞こえた。
配達員は、なんとリビーだった(ジャージ姿)。
「警備員さんが通してくれたよ! 一緒に食べよ!」
「おお、リビー! ……すまなかった、本当にすまなかった……!」
スティーブがコタツから身を乗り出して謝る。
「いいよおじさん! ピザ奢ってくれたら許す!」
世界中の視線が集まるホワイトハウスの一室で。
核ボタンの代わりにピザを囲み、大統領とヒーローと魔女たちが笑い合う。
それは、どんな条約調印式よりも平和で、そしてハイカロリーな夜の始まりだった。
「……さて」
私はピザを手に取り、窓の外の夜景を見た。
ワシントンの灯りが、優しく揺れている。
「これで、アメリカも『全肯定』されましたわね」
しかし、私の隣で、ヒルデガルド様が不敵に笑った。
「レティ。……これで終わりだと思っているの?」
「あら? まだ何か?」
「アメリカが変われば、世界が変わる。
……今頃、国連(UN)本部では、『世界全肯定宣言』の採択に向けて、各国代表が枕投げを始めている頃よ」
「ふふ。……それは大変。
後始末に行かなくてはなりませんわね」
甘い革命は、国境を越えて広がり続ける。
でも、まずはこの一切れのピザと、コタツの温もりを味わってから。
世界平和は、明日のおやつの時間までお預けですわ。




