第9話『名前のつかない、この気持ち』
午後の講義が終わったあとの廊下は、夕方の光で赤く染まっていた。
俺はエレナと並んで歩いていた。
エレナは、さっきから一言も喋らない。
窓の外を見ているフリをして、その実、何も見ていないことを兄は知っている。
「エレナ」
「……はい」
「あの子のこと、気になるか?」
エレナの足が止まった。
俯いて、しばらく黙ってから絞り出すように口を開く。
「お兄様。わたくし、自分でも……よくわからないのです」
「わからない?」
「あの方は、悪い方には見えませんでした。むしろ、お優しそうで、まっすぐで……なのに、皆に囲まれて笑っているあの方を見た時、胸の奥がちりちりと痛んだのです。どうしてなのか……」
エレナは、手にした扇の親骨を指先でなぞった。何度も同じところを。
この子が、胸の内をうまく言葉にできない時、いつもする癖だ。
「わたくしは……努力してまいりました。誰よりも、とそう思っておりました。けれど、あの方の前では、その努力がなんだか……」
そこで言葉が途切れた。
続きを言わなかった。言えなかったのかもしれない。
エレナは、ただ唇を結んで、夕日に染まった廊下の床を見つめていた。
その横顔は、自分の中に湧いた感情の名前をまだ見つけられずにいる子どもの顔だった。妬み、と呼んでしまえば、楽になるのかもしれない。けれど、それを認めるのは怖くて、認めないのも辛くて、その間で、ただ立ち往生している。
俺の耳の奥で別の声がよみがえった。
痩せた頬に不満を乗せて、点滴の管を揺らしながら笑った、あの子の声。
――「エレナ様は、本当は悪い子じゃないんだよ」
ああ、そうだな、と思う。
悪い子なら、誰かを羨んだくらいで、こんなに苦しそうな顔はしない。
「エレナ」
俺は、できるだけ軽い声を作った。
「誰かをいいなって思うくらい、別に悪いことじゃないぞ」
「……っ」
エレナの肩がわずかに跳ねた。図星をさされた子どものように。
「わ、わたくしは、そのような……」
「いいって。言わなくていい。ただ、覚えとけ。お前は、お前のままで十分すごいヤツだ。誰かと比べて、足りないものなんて一つもない」
「……買いかぶりですわ」
「兄の特権だ。妹のことは、本人より高く見積もる」
エレナは、ふふっ、と短く笑った。今日初めての本物の笑みだった。
それでも、目尻に溜まったものはこぼれる寸前で止まっていた。最後まで。
こいつは、いつもそうだ。
――守らなきゃ、と思う。
この子のこういう柔らかいところを、これから始まる悪意の渦に絶対に飲ませてはいけない。
ならば、いっそ、あのミリアという子に近づけないほうがいい。
原作で破滅フラグが回り出すのは、いつもエレナとヒロインの距離が縮まった時だ。接点さえ断てば、嫉妬も、諍いも、生まれようがない。
そう考えるのが、一番安全に思えた。
俺は、その考えに自分で頷いた。守ること。遠ざけること。
それが、最も正しいやり方だと。
ただ――頷いたそばから胸の奥のいちばん深いところで、何かが小さくざわりと動いた。
それが何なのかは、まだわからなかった。
◇
その日の夕方、俺はひとりで図書室に寄った。
この国の魔法史と王家の歴史を少し当たっておきたかった。
原作にない情報がどこかに転がっていないとも限らない。
広い閲覧室の奥、誰もいないと思っていた窓際の机に先客がいた。
痩せた目つきの――悪いというより、何でも面白がっているような目をした男子生徒だった。机の上には本というより図表と計算式で埋め尽くされた紙束が雪崩を起こしている。
俺が棚のあいだを通り過ぎようとすると、そいつは顔も上げずに言った。
「キミ、今日、ずっと変な顔してたね」
足が止まった。
「……何の話だ」
「入学初日だよ? みんな浮かれてるのに、キミだけ戦場の偵察みたいな目で周りを見てた。目立つよ、あれは」
男は、ペンを走らせる手を止めないまま薄く笑った。
「ノア・リンドブルム。魔法理論を、ちょっとね。――ボクの趣味は、人を眺めることなんだ。今日は、ひとつ、妙なものを見たよ」
「妙なもの?」
「キミの妹さん、あの公爵令嬢。誰もまだ彼女と口をきいてすらいないのに、もう学園中が『高慢な悪役令嬢』ってことにしてる。半日で、だ。……随分、気の早い話だと思わないか?」
背中をスッと冷たいものが撫でた。
だが、俺がそれを問い返すより先に、ノアはもう紙束のほうへ視線を戻していた。
「まっ、ぼくの独り言さ。気にしないでくれ」
それきり、そいつはこちらを見もしなくなった。
まるで、面白い形の雲をひとつ眺め終えた、とでも言うように。
(変なやつだ)
俺は肩をすくめて、その場を離れた。
ただ――「気が早い」。
その、軽く投げられた一言だけが、なぜだか、頭の隅に小さな棘みたいに残っていた。




