第10話『破られた教材』
異変は――翌朝起きた。
一限目の教室。
俺がエレナと一緒に入っていくと、教室の空気がもうおかしかった。
数人の生徒がひとつの机を囲んでいる。
その中心でミリアが青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「……ひどい」
「これ、わざとよね。こんなの偶然じゃない」
ざわめきをかき分けて近付くと、机の上の惨状が見えた。
ミリアの教科書と書きかけのノートが無残に破られていた。ただ破れたのではない。何度も、何度も、力任せに引き裂かれた跡だった。羊皮紙の繊維がささくれ立って飛び散っている。聖属性の魔法理論を写したらしいノートは、もう、ほとんど原形を留めていなかった。
俺の隣で、エレナが小さく息を呑んだ。
その横顔に浮かんでいたのは後ろめたさでも、勝ち誇った色でもなかった。ただ純粋な戸惑いと――痛ましいものを見てしまった時のかすかな同情だった。
誰かがここまで手をかけて、人の積み上げたものを引き裂いた。その悪意そのものにたじろいでいる顔だ。
こいつは、こんなことをする子じゃない。
誰かの努力を平気で踏みにじれる子なら、そもそも昨日、自分のささやかな嫉妬にあんなふうには苦しまない。
それは、兄の贔屓目なんかじゃなかった。
「ミリア、大丈夫?」
「だ、大丈夫です……ただの紙ですから……」
ミリアは笑おうとして失敗していた。指先が震えていた。
その横顔を見て、俺は内心で小さく首をかしげた。
ショックは受けている。傷ついてもいる。
それは、間違いない。
ただ――どう言えばいいのか。その表情には「まさかこんなことが」という種類のまっさらな驚きとは、どこか違う色が混じっている気がした。気のせいかもしれない。動転して表情がうまく作れていないだけかもしれない。
それでも。昨日の中庭で一瞬だけ彼女の笑みをよぎった、あの読み取れない色。
それとよく似た何かが、今、その瞳の底にも薄く沈んでいるように見えた。
考えている時間はなかった。
なぜなら、教室の空気がもう別の方向へ動き始めていたからだ。
「……ねえ。これ、誰がやったの」
「決まってるじゃない!」
「エレナ・アルヴァレス様よ!」
誰かが、その名を口にした。
とたんに、ぱっと火がついたようにざわめきが膨らんだ。
「だって、フォルテさん、最近すごく注目されてるもの!」
「公爵令嬢が平民の聖女候補に嫉妬したのよ」
「ありそう……ううん、絶対そうよ! だって、あの方、いかにもそういう……」
「ち、違います!」
声を上げたのはミリアだった。
青ざめた顔のまま、それでも必死に首を横に振っていた。
「エレナ様は、そんなことしません! 昨日、ご挨拶しただけで……わ、私、エレナ様とは、ちゃんとお話だってしていないのに、そんな決めつけるのは……!」
被害者である本人が庇っている。
普通なら、その一言で空気は変わるはずだった。
――なのに。
「フォルテさんは、お優しいのね」
「そうやってかばってあげるなんて。やっぱりいい子だわ」
「でも、だからこそ許せない。こんないい子の物をズタズタにするなんて」
ミリアの声は、誰の耳にも届いていなかった。
いや――届いてはいる。届いた上で、全員がそれを『優しいヒロインの美点』として処理して、結論のほうは一ミリも動かさなかった。ミリアが庇えば庇うほど、ミリアの善良さが際立ち、その分だけ「悪役」の輪郭がくっきりと濃くなっていく。
まるで何を言っても、何をしても、最後はひとつの結末に流れ着くように最初から水路が掘られているみたいだった。
速い。異常に速かった。
誰も、何も確かめていない。エレナが昨日、ミリアと交わした言葉は、ほんの数十秒の挨拶だけだ。動機も、証拠も、目撃者も何ひとつ示されていない。
なのに、教室にいる生徒たちは、まるで答え合わせをするみたいにするすると一つの結論へ滑り込んでいく。
――「エレナがやった」。
それが、最初から決まっていたかのように。
俺は、図書室での、あの男の言葉を思い出していた。
――随分、気の早い話だと思わないか。
「お待ちなさい」
俺が口を開くより先に声がした。
エレナだった。
青ざめながらも背筋を伸ばし、まっすぐに前を見ている。
――けれど、俺にだけは見えていた。スカートの陰に隠した左手が、きつく握りしめられているのを。あの、いつもの気丈な声が、今日は、ほんのわずかに芯を欠いていることを。
「わたくしは、フォルテさんの教科書に触れてもおりません。昨日、お会いして、ご挨拶を……ご挨拶をしただけです。何を根拠に、わたくしの名を――」
言葉の途中で、ほんの一瞬、声がつかえた。
それをエレナは奥歯を噛んでねじ伏せた。
気丈に振る舞おうとしている。誰の前でも崩れまいとしている。
けれど、その毅然とした背中の内側で、心臓が早鐘を打っているのを兄の俺は痛いほど感じ取っていた。
まだ足りない。この子は、まだ、こんな悪意の渦の真ん中でひとりで戦い切れる段階にはいない。
「じゃあ、証明できますの?」
令嬢のひとりがツンと顎を上げて遮った。
「自分はやっていないと、エレナ様は証明できまして?」
その一言に、エレナの肩がびくり、と小さく揺れた。
悪魔の問いだった。
やっていないことを証明しろ。そんなものはできるはずがない。やっていないという事実には形がないからだ。
俺は、一歩前に出た。
「順序が逆だ」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
「人を疑うなら、まず疑う側が根拠を示すのが筋だろう。なぜ、エレナがやったと言える? 見たのか。誰かコイツが教科書を破るところを、その目で見たやつがいるのか?」
教室が、しん、と静まった。
誰も手を挙げなかった。当たり前だ。見たやつなんているはずがない。
――よし。
俺は、ほんの一瞬、勝てると思った。証言がないなら、この空気はすぐに崩せる。
だが、甘かった。
その、静寂の真ん中で。
エレナの唇がキュと引き結ばれた。震える指で、無意識に、いつもの癖で自分の髪に手をやろうとして――そこで止まった。
俺の隣でエレナの顔からすうっと血の気が引いていくのがわかった。
「お兄様」
声が掠れていた。
「わたくしの……リボンが……」
エレナの髪をいつも結んでいるはずの深紅のリボン。
アルヴァレス公爵家の家紋――翼を広げた鷹が銀糸で織り込まれた、彼女だけのリボンが。
今朝、確かに結んだはずの、それがなかった。
俺は机のほうへ目を走らせた。
破られた教科書。引き裂かれたノート。その、すぐかたわら。
誰かがそっと置いたみたいに、自然に、あまりにも自然に。
床の上に。
深紅のリボンが落ちていた。
翼を広げた銀の鷹がこちらを見上げて、嗤っているように見えた。




