第7話『わたくし抜きで決めないでください』
帰りの馬車の中は、ずっと静かだった。
車輪が石畳を踏む音だけが規則正しく続いている。向かいに座ったエレナは、窓の外を見たまま一言も喋らない。
俺は、何となく切り出しにくいまま黙っていた。
てっきり、感謝されるとばかり思っていた。あるいは、心配される。
「お兄様、お怪我は?」とか。
だが、エレナの横顔はそのどちらでもなかった。
「……エレナ」
たまらず俺から声をかけた。
「悪かった。心配かけたな。でも……あいつには一度ガツンと言ってやらなきゃと――」
「お兄様」
エレナがこちらを向いた。
怒鳴ってはいなかった。声を荒げてもいなかった。
ただ、静かだった。
――この子が本当に怒った時、いちばん静かになることを俺は知っている。
「お兄様は、わたくしのためにお怒りくださったのですよね?」
「ああ。当然だ」
「殿下が、わたくしを飾りのように扱った。それが、許せなかった」
「そうだ」
エレナは、膝の上で両手をきゅっと握った。それから、ゆっくりと言葉を選ぶように口を開いた。
「嬉しいです」
その声が、わずかに震えた。
「お兄様が、わたくしのために怒ってくださったこと。それは、本当に嬉しいのです。誰もわたくしを見ていない場所で、お兄様だけがわたくしの指先の震えに気づいてくださった。それが、どれほど心の支えだったか」
だが、と。
エレナはまっすぐに俺を見た。涙はこぼさなかった。最後まで。
「ですが、お兄様。あの場で殿下に剣を向けるかどうか――それを、どうしてわたくしに一度もお聞きにならなかったのですか」
俺は言葉に詰まった。
「あれは、わたくしの婚約の話です。わたくしと、殿下の。わたくしが、これからどう振る舞い、どう殿下と向き合っていくか。それを、わたくしは、わたくしなりに考えていました。耐えるべきところは耐え、言うべきところは言おうと。そういう道を選ぼうとしていました」
知らなかった。
俺は、ただ〝エレナが傷ついている〟それだけを見ていた。傷ついた妹を守らなきゃと、それしか。
「お兄様が剣を抜かれた瞬間、あの場でのわたくしの立場は、もう、わたくしのものではなくなりました。『兄に守られた、かわいそうな婚約者』。それが、これから社交界で語られる、わたくしです。わたくしが、何年もかけて積み上げてきたものは、お兄様の一振りで別のものに変わってしまったのです」
馬車がガタンと揺れた。
「お兄様」
エレナの声がふっとやわらかくなった。やわらかくて、それゆえに深く刺さった。
「わたくしのために怒ってくださったのは嬉しいです。ですが――わたくしの人生を、わたくし抜きで決めないでください」
胸の真ん中をまっすぐに貫かれた気がした。
俺は何も言えなかった。
守ったつもりだった。妹を悪役にする世界に、こいつだけは渡さないと。そのために強くなった。剣も、魔法も、全部、この子のためだと。
なのに。
その「この子のため」の中に、肝心のこの子の声がなかった。
――誰もこの子の話を、ちゃんと聞いてないんだもん。
ふいに、前世の妹の声が耳の奥でよみがえった。
みんな決めつけてるだけ。一回でも誰かが話を聞いてあげたら、こんな終わり方しなかったと思う。
話を聞いていなかったのは。
もしかして、俺も――
「……ごめん」
やっと、それだけが口から出た。
「お前に聞くべきだった。お前がどうしたいか、先に」
「……はい」
「俺はお前を守ってるつもりで、お前を抜きにしてた」
エレナは、しばらく俯いていた。
それから、そっと首を横に振った。
「いいえ。お兄様の優しさを責めているのではありません。ただ……これからは、一緒に決めてくださいませんか。わたくしのことは、わたくしも一緒に」
その目に責める色はなかった。
ただ、まっすぐに対等に立とうとする、不器用な意志があった。
ああ、こいつは、こんなに強かったのか。守られるだけの子じゃなかったのか。
俺は、頷くしかなかった。頷きながら、初めて――自分の「守り方」というやつが本当に正しかったのか、足元がぐらつくのを感じていた。
強くなれば守れると思っていた。
でも、強さで殴り倒したあの瞬間に、俺は一番大切なものを置き去りにしかけた。
守るって、なんだ。
それは、本当に剣を振ることだったのか?
答えは――出なかった。
◇
屋敷に戻ると、玄関ホールで執事が一通の書状を捧げ持って待っていた。
「レオン様、エレナ様。お帰りなさいませ。……本日、こちらが届いております」
差し出された封筒には見覚えのある紋章――ではなく、もっと荘厳な白百合をかたどった封蝋が押されていた。
その紋章を見た瞬間、馬車の中で重く沈んでいたエレナの顔が別の緊張に塗り替わった。
「これは……」
俺は、その封蝋を知っていた。前世で何十回と聞かされた物語の舞台の名前を。
聖リリアーヌ魔法学園。
前世で何十回と妹に聞かされた、あの物語の本編が幕を開ける舞台。
そして――悪役令嬢エレナ・アルヴァレスが、坂を転がるように追い詰められ、やがて断罪へと至る場所。
並んだ破滅フラグが、ここから本格的に動き出す。
エレナが震える指で封を開けた。中の便箋に目を走らせ、それから、こちらを見上げる。
「お兄様。わたくしたち……聖リリアーヌ魔法学園への入学が認められましたわ」
その声は少し弾んでいた。新しい場所への期待。
努力すればきっと報われるという、健気な信頼。
俺は、その紙片を見つめながら奥歯を噛んだ。
(始まるのか)
守り方すら、まだわからないままだ。
なのに、舞台は――もう幕を開けようとしている。




